彼女が東京に来た理由⑨
「随分帰りが遅かったね。俺、待ちくたびれたんだけど」
ふらりと横に揺れながら男が実月たちの方へ一歩近寄ってくる。振り返ると、真顔で硬直する双葉さんの顔色は血の気が引いたように白くなっている。この様子から察するに、この男が件の元彼なのだろう。
「っていうかダメだよ、こんな遅くまで出歩いてちゃ。双葉はちっちゃくて可愛いんだから、変な男が寄ってきちゃうでしょ?」
一歩、また一歩とゆっくり踏み出してくる双葉さんの元彼。その口振りはさも双葉さんがまだ自分の彼女だと言わんばかりだ。街灯の青白い光で露わになったその顔はひとつひとつのパーツは整っている今時の若い男の子といった風貌だが、開いた口がどこかだらしなく、目に光が宿っている様に見えないと言うべきか。明るい表情なのにどうしてもその笑顔が歪んで見えてしまい、自分の顔に嫌な寒気が覆い被さってくる感覚を覚えた。
「だ、ダイチくん、どうしてここが分かったの?」
双葉さんがそう声を絞り出すと、ダイチくんと呼ばれた元彼がジャンパーのポケットに手を突っ込むと、その中から一枚の紙をおもむろに取り出した。
「このまえ双葉の家に行ったときに見つけたんだ、コレ。俺が行ったときには留守だったんだけど、双葉のご両親がわざわざ俺のために置いといてくれたんだよね? あと、俺たちの結婚するための資金も貯めてくれてたみたいだから、有り難く貰っておいたよ」
……この人は一体何を言ってるんだ? 硬直する頬に冷たい汗が滴り落ちてくる。あらゆる物事を自分に都合良く解釈しているような話しぶり。そのぶっ飛び具合にどうしてそうなるんだよと口を挟みたいところだが、それはフィクションを見ている時だからであって、実物を目の当たりにした状態では言葉が何も出てこない。いや、出せるような余裕なんて無かった。
「っていうかさ……」
呆然と立ち尽くしていると、元彼が突然立ち止まり実月の顔をめがけて鋭い視線を投げつけてきた。
「……誰、その男?」
さっきまでとは打って変わって低く鋭い声に実月は我に返ると、双葉さんの一歩前に踏み出して彼女をかばう様に右腕を横に突き出した。
「なんであんたが双葉と一緒にいるの? 浮気? 浮気したの、双葉? 俺がいるのに?」
「もう止めてください! 双葉さんと別れてるんですよね。それなのに付きまといを続けるなんて、一体何がしたいんですか!」
言葉が生まれるであろう喉元が震えている気がしたが、それを悟られないようはっきりと言い放つ。腰は今にも後ろへ踏み出してしまいそうだったが、その衝動をぐっと抑えつけ毅然とした態度を精一杯見せつける。絶対に負けてはいけない、負けるな、自分。何度も自身にそう言い聞かせながら。
「あ、わかった。そいつが双葉のことを誑かしたんだな。それじゃあんたをぶっ殺せば……」
瞬間、実月の頭の中でサイレンが鳴り出す。これまでの人生で話が通じない人と対峙した経験したことがない実月だが、これ以上は危険だと本能が呼びかけている。
「双葉さん。確か駅前に交番があったよね。そこまで行って警察の人を呼んできて」
「えっ、でも……」
双葉さんが不安そうに実月の顔を見上げる。しかし、事態は自分たちだけで解決出来る範囲を超えているのは明確だ。
「双葉に何をふきこんでんだよ!」
実月が双葉さんに声を掛けている様子が気に食わなかったのだろう。突然元彼が怒鳴り出す。その目には怒気、というよりもそれ以上の身の危険を覚えるようなものが宿っていた。
「早く!」
「は、はいっ」
実月に促されて、双葉さんは元来た道を振り返って駆けだした。それを見送ってから再び正面へと向き直ると、
「おらあああぁぁ!」
元彼が狂ったような雄叫びをあげながら実月の許へ駆け足で向かってくる。その最中に右腕を振り上げ、拳を実月に向けて突き出してくる。マズい、殴られる! その拳が目の前に迫ったタイミングで、実月は反射的に身体を仰け反らせる。間もなく、拳が空を切りながら実月の鼻先をかすめた。
初手の拳はなんとかを躱すことができたが、一息吐く暇などない。すぐさま崩れた身体のバランスを整えるが、元彼の方が実月よりも一足先に体勢を整えていた。実月が気がついた時には、言葉とも言えない叫びと共に二撃目の拳が迫っていた。危ないっ! 実月は咄嗟に腕を上げると、自分の顔を持っていたビジネスバッグで覆い隠す。
バスッ――。
乾いた音と共にバッグから拳を受け止めた衝撃が腕を通して身体に伝わってくる。その勢いによって両方の手からバッグが離れ、アスファルトの地面に向かって落ちていってしまった。
ズルズルとバッグがこすれる音に中身が無事かどうか気になった、今はそれどころではない。そう思って元彼の方へと向き直った。が、次の瞬間、
ドゴッ――。
実月の右頬に衝撃が襲った。次に目を開いたら、目の前のアスファルトから電柱が生えていた。そして、じわじわと痛み出す右頬と口に広がる錆びた鉄の味で、自分が拳を貰ったんだということを理解した。次第に強まる鈍い痛みに思わず顔が歪む。だけど、いつまでも横になっているわけにはいかない。立ち上がろうと身体を仰向けにする。
しかしそこにあったのは、血走らせた瞳で実月のことを睨みつける元彼の顔だった。それにぎょっとした瞬間、元彼は実月の首にめがけて両手を伸ばし喉仏の辺りを掴んで圧迫し始めた。
喉仏を押される痛みに実月は天を仰ぐ。首を押さえつける元彼の腕を掴んで抵抗を試みるが、こらえようのない息苦しさの中で聞こえてくるのは、元彼が呪詛のように繰り返す「双葉を返せ」の声。息を吸うどころか肺の中の空気を吐くことすらもままならなくなり、ぎゅっと細めた視界が徐々に霞んでいく。苦しい……。誰か……。
「キャアアアァァ!」
実月の意識が飛びかけたタイミングで、頭上の遙か先からつんざくような悲鳴が聞こえてきた。その方向へなんとか目線を向けると、ふたりの人影が交差点のところで立っているのが見えた。
「何をしてるんだ、お前!」
その叫びと共に、人影のうちスラックスを穿いた方の脚が実月と元彼の許へ駆け寄ってくる。次の瞬間には喉仏が圧迫から解放され、実月はようやく新鮮な空気を味わうことが出来るようになった。
噎せ返りながら上半身を起こすと、スーツの男に手首を捕まれた元彼がその拘束から逃れようと腕を大きく振り回す姿が目に入った。背後から実月の身を心配する女性の声が掛かるが、それよりも「離せ! 邪魔するな!」と叫びながら暴れる様子から目が離せなかった。
……今はあの人のおかげで助かったけど、もし元彼が拘束を振りほどいたら、もう一度自分に襲いかかってくるかもしれない。あるいは、分が悪いと見て向こうへ逃げていくかもしれない。そうなったら、双葉さんはあいつに怯えながら暮らし続けることになる。これからずっと……。
瞬間、双葉さんの生気を失った表情が頭に過った。
……止めなきゃ、あいつの事を。
そう思うと同時に実月はよろけながら立ち上がると、ラグビーのラガーマンの様な腰を屈めた体勢のまま走り出す。向かう先には、今し方スーツの男の拘束を振りほどいた元彼。その腰の辺りにめがけて目一杯の力で飛び込むと、実月は元彼と共にアスファルトの地面に倒れ込んだ。
「放せよ、この野郎!」
倒れ込んだ状態で脚をジタバタさせる元彼だが、実月も負けじと両腕で元彼の腰に食らいつき放さない。腹の辺りに踵を入れられ、頭や肩を拳で何度も殴りつけられるが、絶対に行かせてたまるかと歯を食いしばって必死に抑え込み続けた。スーツの男が止めてくれたのだろうか、何度もたたきつけられる拳の痛みもすぐに無くなり、ただ元彼の叫び続ける声だけがその場に轟いていた。
それからどれくらい経っただろうか。交差点の方から警察の制服を身につけた人の姿が目に入り、いくつかの叫び声があった後、実月は元彼の腰から引き剥がされた。尻餅をつくように道路の上でへたり込んでいると、目の前で警察官が押さえつけた元彼の手首に銀色の輪っかがかけられる。
実月は手錠がかけられた瞬間を眺めながら何度も大きく肩で呼吸していた。それまであまりにも無我夢中になっていたせいなのか、終わったとか、何か大義を成し遂げたとか何もなく、自分の表情と一緒に頭も呆然となっていた。そんな実月の目の前に現れたのは、
「実月さん! 大丈夫でしたか!」
双葉さんが眼前でしゃがみ込んでくる。彼女も必死で走ったのだろう。何度も大きく息を吸ったり吐いたりを繰り返していた。
「う、うん。ちょっと危なかったけど、あの人たちに助けられたから……」
そう答えると、実月を見つめる双葉さんの目がうるっと涙を湛え始める。そして瞼から一滴がこぼれ落ちるのが見えてハッとした瞬間、双葉さんが「うわあぁぁん!」と叫びながら実月の胸に飛び込んできた。
「えっ?」
「よかった、実月さんが無事でよかった、です……」
実月は自分の胸の中でグスグスと泣き始める双葉さんの頭に目を落とす。シャツの胸元がじんわりと濡れていく感覚に、実月はようやく大きなため息を吐くことができた気がした。
*
それから警察が到着して、事態の収拾をつけるべくあれやこれやをしているうちに、いつの間にか日付を跨いでいた。実月は拳を食らい首を絞められていた事もあって救急車で病院に運ばれたのだが、幸い鼻が折れたとか頭蓋骨にひびが入ったとかは無く、多少の擦り傷と圧迫された痕ができただけで済んだ。
双葉さんの方も警察の事情聴取とかなんとかで大変だっただろう。諸々の手続きを終えてから再び顔を合わせた時には、ものすごく疲れ切った顔をしていた。
「実月さんが無事で良かったです。本当にありがとうございました」
深夜の病院の待合室にて、双葉さんは頭を下げてきた。
「実月さんがいなかったら、私は今頃……」
「いやいや、双葉さんこそ警察の人を呼んできてくれてありがとうね」
「いえ、私は実月さんに言われたとおりにしただけですから。それに、私も実月さんに打ち明けるよりも先に警察へ相談しておけばよかったって。そうすれば、実月さんもこんな目に遭わずに済んだでしょうし」
そうしゅんとしている双葉さんの言葉に、実月は黙って頷くしか無かった。この一連の騒動の当事者である彼女にこれ以上何かを言ってしまうと、ただの追い打ちになってしまうのではと思ったからだ。
それにしても、と実月はついさっきの事を振り返る。あの元彼のどこまでも自分に都合のいい妄言や血走った目を思い出し、また身体が震えた。幸か不幸か、実月にはあんな風に誰かに狂気的な好意を寄せられた経験は無いため、実際に対峙するまではどこまでも他人事みたいな感覚が拭いきれなかったのは否めない。双葉さんはその恐怖に今まで耐えていたんだろうな……。
「それより、どうしよう……?」
実月の隣の椅子に座った双葉さんがぽつりと呟いた。彼女の方に目を遣ると、双葉さんは浮かない顔で俯いていた。
「また引っ越さないといけないのかな……?」
今の双葉さんの住所がバレてしまったから、元彼が突撃してきた訳である。あれだけ執念深い男の事だ。再び両親厳しいの監視下に置かれることになったとしても、今回のように隙を見て逃げ出す可能性だってあり得る訳だ。もし今の部屋に住み続けていたら、再び突撃される可能性だってあるだろう。
「誰か頼れる人とかいないの? 例えば、一緒に上京してきた友達とか……」
そう訊いてみると、双葉さんは首を横に振った。
「じゃあ、職場の人とかは?」
「同期はみんな実家住みだったり、彼氏と同棲してたりで、ちょっと……」
実月は鼻で大きく息を吐きながら天を仰いだ。それも厳しいか。先輩や上司だと気を遣うだろうし……。かといって、ホテルとかではお金が掛かるから、社会人一年目の双葉さんにはキツいだろう。
ふと横を向くと、双葉さんの塞いだ横顔が目に入った。自分よりも年下の女の子が酷く憔悴する姿に、胸の辺りがチリチリ痛むような気がしていた。せっかく自分を頼ってくれた子がこんなに困ってるんだから、何か出来ることが……。
「じゃあさ、俺の部屋とか……」
そう口を開くと、双葉さんはハッと顔を上げて実月の顔を見た。まさかと思ってそうなその表情に、実月は思わずあっと声を上げた。
「い、いや、今のは深い意味があったわけじゃ無くて、咄嗟に口から出てきただけというか……」
「……いいんですか?」
「……え?」
双葉さんのまさかの反応に、実月はぽかんと彼女の事を見つめ返すしかなかった。
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