彼女が東京に来た理由⑧

 ドアチャイムが鳴ると同時に両開きのドアが横へスライドしていくと、実月は亀有駅のホームへと足を踏み入れる。


「なんか、私の事に付き合わせちゃってすみません」


 実月の後に続くように列車を降りた双葉さんが、申し訳なさそうに呟いた。


「いやいや、気にしなくていいからね。それにあんな話を聞いた手前、このまま双葉さんひとりで家に帰すなんてできないし」


 そう双葉さんに言葉を返すと、乗ってきた列車が丁度ドアを閉めて松戸方向へと走り始めた。それとほぼ同時に、常磐線の快速列車が轟音を上げながらで各駅停車の列車の向こう側を走り抜けていく。ホームを見回すと、その肩に疲れという名の上着を纏ったような人たちが続々と改札へ続く階段に向かって流れていた。

 そんな人たちの流れの中から、実月はホーム上をキョロキョロとくまなく見回していた。今乗ってきた列車とは反対方面の列車を待っているだろう人の姿がまばらに確認できるが、様子は至って普通というか何もおかしく見えないというか……。って、怪しい人っていうのは一体どうやって見分けるものなんだろうか?


「あの、そこまで気を張らなくても大丈夫ですから……」


 双葉さんに声を掛けられてハッとする。


「あっ、ごめん」


 ちょっと神経質過ぎただろうか? でも、双葉さんの口からあんなことを聞いてしまったばかりだから、こうして神経をすり減らしたくなるのも仕方ないと思うんだけどな。



 ついさっき秋帆さんのお店で双葉さんが話してくれたことは、実月が思った以上に深刻だった。


『実は月曜日に実家から電話が掛かってきまして、その……、も、元彼が姿を消したから気をつけてって……』


 どんな話が飛び出してくるのかある程度覚悟を決めていたつもりだが、予想していなかった「元彼」という言葉に一瞬思考が止まってしまった。どうしていきなり元彼の話が? それに姿を消したから気をつけてってどういうこと? 断片的な情報がぶつかり合って双葉さんの言わんとすることが全く伝わらない

 そんな実月の様子に気がついてか、双葉さんはハッとしたように再び口を開いた。


『あ、あの、言葉が足りなかったですよね。ちゃんと一から説明するので、一回落ち着いてくれませんか?』

『う、うん』

『あ、一応言っておきますけど、その人とは色々あってしっかりお別れしてるつもりなので! 今は実月さん一筋ですのでっ』

『そ、そう』


 実月の顔を真っ直ぐに見つめ真剣な表情で言い切る双葉さん。今そこを気にするのかとつい苦笑いを浮かべてしまったが、すぐに真剣な話の最中なんだと思い出して自分の表情筋を引き締める。

 肝心な事の詳細だが、双葉さんが地元の大学に通っていた頃にお付き合いしていた人がいたらしいのだが、その人と色々あって破局。しかし、その元彼が別れた後も付きまとい行為を続け、共通の友人や双方の家族を巻き込んで一悶着があった模様だ。


『それで最終的には警察から接近禁止の命令って言うんですか? それを出して貰って、彼のご両親からもきっちり監督すると約束して、一旦は解決したんです』


 そして、この一連の出来事と就職活動の時期が重なっていた事もあり、家族からの勧めもあって東京で就職先を見つける事で物理的な距離を取ることにしたのだという。ところが、


『今週に入ってから私の実家に元彼のご両親が血相を変えてやって来たそうでして、話を聞いたらご両親がどうしても目を離さなきゃいけないタイミングがあって、その隙にいなくなってしまったらしいんです』

『でも姿を消したって言っても、その人は双葉さんが今どこに住んでいるか知らないわけだよね?』

『そのはずなんですけど、この前、私の実家に空き巣が入ったって話をしたじゃないですか?』

『うん』

『その時にお金が盗まれていて、それに気を取られてて気がつかなかったみたいなんですが、後で私の今の住所が書かれてたメモも無くなってたみたいなんです。丁度その前後でも元彼が勝手にどこかに行ったあったみたいで、その時はすぐに見つかったそうなんですが……』


 言葉尻が徐々にすぼんでいく双葉さん。空き巣と姿を消した元彼。たまたま偶然が重なったと思いたいところだが、それにしてはタイミングが良すぎる話に背中のど真ん中を震えが突き抜けていくのだった。



 亀有駅の改札を抜け、双葉さんが借りているアパートがある出口へ向かう。大型ショッピングモールのある方とは反対側の出口で、賑わうそちら側とは違い落ち着きを保っているような場所だ。ただ、今に限ってはその落ち着きすらどこか不気味に感じられてならない気がする。

 例えば、路上でよく見かける電力会社の名前が書かれた鉄の箱の陰に誰かが潜んでいるんじゃないか? あるいは、建物と建物の隙間から何者かがこっちへ覗き込んでいるんじゃないか? 考え出したらキリが無い程あらゆる可能性が頭に浮かび上がってくるもんだから、目に入るあらゆる物が怪しく感じられて仕方が無い。


「実月さん、気を張りすぎですってば。それだと逆に実月さんが不審者みたいです」

「あ……、ごめん」


 警戒するあまりあちこちに目線を送っているいたものだから、またしても双葉さんに諫められてしまう。でも、彼女の部屋までしっかり見送りすると言い出した手前、へなちょこな自分にはせめてこれくらい警戒させて欲しいところだ。

 双葉さんがこっちですと指差して歩き始めたので、実月もそれについていく。双葉さんと並んで歩きながらも、目線はあちこちに向けて怪しい人がいないかを逐一確認する。それだけでもだいぶ気疲れが酷いのだが、万が一本当に双葉さんの元彼が目の前に現れたら、自分は双葉さんの事を守らなければいけない。それは実月自身から言い出したことなのだから当然だ。いざというときは自分が前に出なければ。そんなこと、果たして自分に出来るのだろうか……? そのことばかり考えているせいで、さっきから脇の下がひんやりしているのだ。


「……実月さん?」

「なっ、何?」


 気を張ってる中で双葉さんに呼ばれて、思わず声が裏返る。双葉さんは上目使いで実月の顔を見上げていた。


「今更ですけど、ここまで付き合ってくれてありがとうございます」

「いやいやそんな。双葉さんにとって一大事だから、放置するわけにいかないでしょ?」

「そうですね。でも、実月さんに話を聞いてもらえて少し気が楽になりました」


 そう双葉さんが笑顔を浮かべる。実月には誰かに付きまとわれるなんて経験は無いので、その心労の大きさを計り知ることはできないが、それでも少しは気を紛らわせられたのなら、実月としても本望だ。


「でも、こんな形で実月さんを私の家に呼ぶことになるとは思いませんでした」

「……へ?」


 双葉さんの口から何か聞き捨てならない言葉が聞こえた気がしてハッと振り向くと、彼女の唇はツンと不満げに尖っていた。


「いや、俺はそんなつもりじゃ……。大体、今はそんなこと言ってる場合じゃ無いでしょ!」

「そうですか?」


 あっけらかんと首を傾げる双葉さんに思わずため息が零れる。


「そもそも、まだ付き合ってない者同士なのに相手の家に行くっていうのもどうかと……」

「でも、私は実月さんの部屋に入りましたよ?」

「それは……、不可抗力みたいなもんでしょ」


 あの時は泥酔状態で帰ろうとする実月に双葉さんが付いてきたって体なのでノーカンだ。そもそも、ストーカーである元彼がどこかに潜んでいるかもしれない状態なので浮ついた気持ちでいられるわけがない。


「とにかく、俺は玄関先まで安全を確認してから帰るつもりだから。その……、そういうのは諸々が済んだ後に、ね」

「……はーい」


 そう返事する双葉さんは尚も不満げに口をツンとさせている。別にストーカー被害の当事者らしく震えていろとは言わないが、今は何が起こるのか分からないのだからせめて緊張感を持っていて欲しいところだ。

 それに双葉さんの部屋に上がっていくとしても、彼女の気持ちに返事をする前の段階だ。そういうお楽しみはキッチリけじめをつけてからだと、女性経験が乏しい実月でもよく分かる。


 ……双葉さんへの返事か。とりあえずお互いの事をよく知ってから返事をするとは言ったけど、仮にいま返事をするってなったら自分はどんな答えを出すんだろう?

 双葉さんは自分にはもったいないくらい可愛らしいし、ちょっと突っ走っちゃいそうな危うさはあれど自分に対して気が利くと思うし真っ直ぐで凄くいい子なんだろう。

 逆に双葉さんからは実月がどういう風に見えているのだろうか? 今はまださっきみたいに口でもストレートに好意をぶつけてくれるけど、更に付き合いが深くなったときに彼女へ見せることになる一面もあるだろう。それを知った双葉さんはどう思うだろうか? 自分の汚い一面を見てしまってもまだ……。いや、それを見せないようにしなきゃいけないんだよな。


「実月さん。この角を曲がれば私のアパートがありますので」


 双葉さんの声にハッと意識が現実に引き戻される。これから夜が深くなっていく住宅街は人通りが少なくすれ違う車の姿も見かけない。さしかかった信号のない十字路を、淋しげに佇む街灯が明るく照らしている。


「じゃあ俺は玄関に入ってくところまで見てるから」

「ありがとうございます。実月さんも帰りは気をつけて……」


 十字路を右に曲がったところで、双葉さんの足がピタッと止まった。さっきまで取り戻しつつあった豊かな表情がこの一瞬で消え、顔色がどんどんと青ざめていく。彼女の視線の先を追いかけると、すぐ近くのアパートの入り口の前に佇むひとりの男の姿があった。ここからだと横顔でちょっと薄暗いのだが、まさか……? 

 そう思った瞬間、男がこちらに気がついた様に振り向いて一歩こちらに近づいてきた。


「あ~。おかえり~双葉。随分待ったんだけど~」


 街灯に照らされた男の笑みに、実月の全身を悪寒が駆け抜けた。

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