彼女が東京に来た理由⑦
「今日は本当にビールじゃなくてよかったんですか?」
双葉さんが実月の手元を見ながら首を傾げる。テーブルの上にはサラダとお通しが運ばれてきており、お互いの手元にはそれぞれが注文した飲み物がおかれている。実月の手元には泡立つ黄金色の液体が注がれたコップが置いてあるが、中の液体にはアルコールが含まれていない。
「うん。今日はお酒に酔いたいって気分じゃないし」
そう答えると、実月はノンアルコールビールが入ったコップを手に取って一口だけ喉へ流し込んだ。舌の上にほとばしる苦みはアルコール入りの物と大して変わらないので、なんとも有り難い飲み物である。明日は仕事が休みだけど、もしアルコールなんて入れてしまったら今日双葉さんを呼び出した本来の目的を達成することは出来ないだろうし。
一方、双葉さんの手元のグラスには焦げ茶色の透き通った液体が入っている。彼女がウーロン茶を注文したときにいつものレモンサワーじゃなくていいのと尋ねてみたけど、双葉さんは「はい」としか答えてくれなかった。まあ、彼女も実月と同じような気分なのだろう。
さて、と実月は薄く開いた口からゆっくりため息を吐き出し、双葉さんの顔に目線を持っていった。彼女は空いてる小皿にトングでサラダを取り分けている最中だ。普段会社の飲み会でいつもやってることをされる立場というのはなんともむず痒い気分だけど、今はどんなことどうでもいい。
……どうやって話を切り出したらいいんだろう?
双葉さんの話を聞いてあげようとこうして誘い出してみたけれど、どうやってその話を引き出したらいいのか分からず、実月はお店に入ってからずっとそのことで頭をひねっていた。いきなり「最近、何か悩んでることがあるんじゃない?」って訊き出すのは、どこかから話を聞きつけたみたいで気持ち悪いだろうし。肝心の彼女の様子がいつも会っている時と大して変わり無いように見えることも、尚更話の切り出しにくさに拍車を掛けている。どうしたものかと下唇を噛む力が強くなっていた。
「サラダはこのくらいの量でいいですか?」
双葉さんがサラダを盛り付けた小皿を差し出してきて、実月は我に返る。うっかりおかしな顔をしてしまったのだろうか、双葉さんはきょとんとした表情で実月を見つめていた。
「実月さん?」
「あっ、ありがとね。これくらいで大丈夫だよ」
実月は顔中に掛かっていた力を抜いて、双葉さんから受け取った小皿を自分の手元に置いた。彼女の話を聞いてあげるのが目的なのに、変に力んでしまったら話せることも話しづらいだろう。とりあえず、今は本題を切り出すタイミングを見極めようか。
「それではいただきます」
トングを置いた双葉さんが自分の胸の前で両手を合わせてお辞儀をする。それに続くように、実月もいただきますと呟いてから箸を手に取った。
「そういえばそろそろ年末が近くなってきてますけど、実月さんのところは忙しいですか?」
サラダを盛り付けた小皿を持ち上げた双葉さんが実月のほうへ目を向ける。
「そうだねぇ、ちょうどブラックフライデーや歳末セールの準備が始まってきたからちょっと忙しいかな。営業の人とか最近はいろんな所に飛び回っているし」
「おおっ、年末商戦ってやつですね」
「まあ、うちのチームはそれよりも海外メーカーの新製品ラッシュが始まったから、そのウェブページ作りが大変なんだけどね」
「そんなに多いんですか?」
「うん。この前はうちで扱ってる中国のメーカーが設立七周年ってことで、一気に七個も新製品を発表してて、ほかのメーカーも発表会で四個とか出してきてたし」
具体的な数字を出してみると双葉さんは目を丸くした。分かりやすく言葉を失っている様子がまた可愛らしくて、思わず口から笑みが零れた。
「でも、今後こんな製品を出す予定ですって発表なだけで、それらが一気に発売される訳じゃないからね」
「それでもそれだけの製品を一気に作ってるってことですよね。なんかもう凄いとしか……」
そうやって驚く気持ちはよくわかる。実月自身も一気に新製品を七種類と営業さんから聞いて顎が外れるかと思ったくらいだ。日本メーカーが一年から数年に一製品というペースなのを考えると、勢い、というかフットワークの軽さにはいつも驚かされる。それでいてそこそこいいクオリティーに仕上げてくるというのも恐ろしい点だ。
「双葉さんの方はどうなの? やっぱり忙しい?」
なんだか自分の話ばかりになってきたので、今度は実月の方から話を振ってみる。あわよくばここから上手く話を引き出すことができることを狙って。
「そうですね。私の所も今は忙しくなっているなって思いますね」
双葉さんはそう話すと、小皿から箸でサラダをつまんで口へと運んだ。
「私の周りも連日フル稼働だなって見てて思いますし、案件もよく尽きないなって感じます」
「そんなに多いの?」
実月が訊いてみると、双葉さんははいと頷いてからウーロン茶を一口煽った。
「残業とかもしたりする?」
「たまにしますね。でもうちはスケジュールとかに余裕を持たせているみたいですし、流石に終電間際までってことは今のところは無いです。まあ、まだ一年目なのでそこまで会社に残すわけにいかないってのもあるんでしょうけど」
やれやれとでも言いたげに目を細め苦笑いを浮かべる様から、どこかやつれた印象を感じられる。きっと日々の仕事で疲れが溜まっているんだろうなと思わざるを得ない。
「ちゃんと休めてる?」
「休めてますよ。このくらいならまだまだ平気です」
「そう。なんかちょっと疲れてるみたいだったから」
「そんなこと無いですよ。これは今日お誘い頂いたので、絶対に残業しないで実月さんと会うために昨日とおとといをちょっと無理して頑張っただけですから」
彼女の返答に実月は思わす苦笑いを浮かべた。自分のために仕事を頑張ってくれたのは有り難いけど、それで無理されて身体を壊しましたって言われてしまったら、逆にこっちが申し訳ない気持ちになるんだけどなあ。
双葉さんがよそってくれたサラダを口へ運んで咀嚼。歯を入れる度に口の中でシャキシャキ鳴るのが気持ちいい。タマネギのうまみを活かしたドレッシングを味わいながら、もう一度双葉さんへと目を遣る。元気がない様子だと伝え聞いたものの、今日のために張り切ったと言うあたり原因は仕事関係では無さそうだ。でも、もしそうならかえって訊きづらいような……。
「ん、どうしましたか?」
ふと気がつくと、双葉さんがまたしても首を傾げながら実月のことを見つめていた。どうやって彼女から話を引き出そうか考える余り、ついつい表情が険しくなってしまっていたようだ。いけないいけない。咄嗟に顔から力を抜いてなんでもないよと口に出そうとして、
ふと思った。いっそのこと、このままダイレクトに訊いてみたらいいのでは、と。
そんな考えが過った瞬間に、実月は開いた口からすうっと息を吸った。
「あの、双葉さんに訊きたいことがあるんだけどさ……」
声のトーンを変えてそう切り出してしまったため、双葉さんもピシッと真顔ではいと返事をする。瞬間、無駄に緊張させてしまったかなと思ったが、ここで退いてはいけないと自分に言い聞かせて再び口を開く。
トントン――。
言葉が喉から出かかったタイミングで、襖を叩く音が個室に響いた。音が鳴った方へ振り向くと襖が音を立てて開き、失礼しまーすと秋帆さんが姿を現した。
「おまたせー。焼き鳥の盛り合わせと鶏皮餃子を持ってきたよ」
テーブルの上に大皿を置いていく秋帆さん。変に緊張していたせいで、ありがとうございますと伝える声が上擦ってしまった。
「それで、私に訊きたいことってなんですか?」
秋帆さんの配膳が終わらないうちに、双葉さんがさっき話しかけたことの続きを求めてきた。それを聞いた秋帆さんがはっとした表情で実月に目配せを送ってくる。
「あ、えっと……。の、飲み物のおかわりが必要かなって。その、そろそろ双葉さんのグラスが空きそうだったから」
「あ、じゃあウーロン茶のおかわりをお願いします」
「じ、じゃあ俺も同じのを……」
自分の顔が引き攣っていることを感じながら注文を伝える。秋帆さんがいる手前というのもあるけど、思わぬ乱入のおかげで勢いが削がれてしまったのが一番大きかった。伝票を書き込む秋帆さんもそのことを察したようで、どこか申し訳なさそうに「すぐお持ちしますね~」と口にしながらそそくさと襖を閉めていった。
思わず手元に残っていたノンアルコールビールを一気に喉へと流し込む。情けないな。いっそのこと、さっきのタイミングで本物のビールでも頼んでしまったほうが良かったかもしれない。
「この鶏皮餃子、凄くパリパリしてておいしいですよ」
早速運ばれてきた料理に手をつけていたらしい双葉さんが口元を手で隠しながらこちらを見つめている。そのパッと開かれた瞳と緩んだ頬は、彼女が感じているかもしれないことなんて忘れたとでも言いたげで、そんな彼女を眺めていると自分を情けないと思う気持ちがどうでもよくなっていった。
双葉さんに続いて鶏皮餃子を箸でつまみ、醤油につけてから口へと運ぶ。彼女の言うとおりパリパリに焼けた鶏皮の食感が心地よくてクセになりそうだ。自分の口元も自然と綻んでいくのを感じた。
「実月さん」
小皿のサラダを口に運ぼうとしたところで、改まったような口調で名前を呼ばれた。顔を上げると、双葉さんが真っ直ぐと実月のことを見据えていた。
「改めてですけど、今日はお誘い頂いて本当にありがとうございます」
そうぺこりと頭を下げる双葉さん。そんな風に改まってお礼を言われるとは思っていなかったので呆気にとられていると、双葉さんはさらに続けた。
「最近ちょっと色々と大変なことが多くて、その、いっぱいいっぱいになってたって言うんですかね? だから、今日こうして実月さんとお話しできてよかったです」
「そ、そう。それならよかった……かな」
「はい」
双葉さんが返事をすると同時に、襖を叩かれる音が鳴る。続けて襖が開かれると、秋帆さんが個室の中をうかがうように目を右往左往させながら姿を見せた。
「あ、今度は大丈夫みたいだね。お待たせしました~。ウーロン茶です」
ウーロン茶が注がれたグラスをふたつテーブルに置いていくと、失礼しましたといいながらそそくさと襖に手をかける。襖が閉まる瞬間に実月は秋帆さんと目が合った。ドヤ顔にも見えるような微笑みを浮かべていて、思わず苦笑してしまった。
でも、そんな秋帆さんの笑みに何となく背中を押されたような気がする。双葉さんとの話の流れも十分に切り出しやすい状態だ。このまま今日の本題を切り出してみようか。
実月は口から一息吸うと、目の前にいる双葉さんを見据えて、
「あの、さ……」
「……はい?」
少し詰まったような話し方になってしまったので、双葉さんの緩んでいた頬がすっと元に戻っていく。
「今日双葉さんを誘ったのには理由があって、気を悪くするかもしれないんだけど、沖田さん経由で最近双葉さんに元気がないって聞いたから、何があったのかなって思って誘ってみた訳なんだけど……」
理由を語る最中、双葉さんは口を閉じ真顔でこちらを見つめていた目を少しずつ伏せていく。暗くなっていく目元に陰りのような物を感じたのは気のせいでは無いと思う。
「あ……。ごめん。嫌だったよね」
「いえ。そんなことは無いですよ」
「そう。それでさ、俺だと言いづらいかもしれないし力になれるかわからないけどさ、よかったら何があったのか俺に話してくれるかな?」
すっかり顔を伏せてしまった双葉さんのことを真っ直ぐ見つめて言い切る。真剣な表情を崩さないようにして、双葉さんが口を開くまで待つ。
唐突に個室を支配した沈黙がどれくらい続いただろうか。双葉さんがおもむろに顔を上げて、
「その、こんな話するの、実月さんは嫌かも知れないですけど……」
「……全然いいよ」
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