大事なことだから①

 帰宅ラッシュ真っ只中の新橋駅前。ただでさえ九月頭の暑苦しい空気の中だと言うのに、この入り乱れる人混みにはうんざりさせられる。毎度のことながら、これだけの人がどこからやって来るのか不思議でならない。


 しかし、今日のSL広場はいつもと雰囲気が違っていた。たくさんのテントが立ち、その中には棚の中にギチギチに詰められた本があった。いずれもかなり年季が入っているようで、日焼けやシミといったようなものが見受けられる。

 新橋駅の出口に近いテントの中で、実月は並べられた背表紙を眺めていた。端がボロくなっていたり色あせたりしている文庫本は、いずれもライトに読めるようなものでは無さそうだ。それでも、いくつか興味を惹くタイトルの本もいくつかあって、実際に手に取ってあらすじを読んでみたりしていた。

 たまにはこういうのに行ってみるのもアリかもしれない。そんなことを考えていると、


「おまたせしました!」


 声がした方を振り返ると、息を弾ませた双葉さんが側に立っていた。


「遅くなってしまってごめんなさい。待たせてしまいましたか?」

「そんなことないよ。俺も今来たところだし」


 少し嘘を吐いた。実際は気持ちが落ち着かなくて、待ち合わせ時刻より二十分くらい早く着いていた。そして双葉さんからは事前に少し遅れると連絡が来たので、都合三十分くらい待ったことにはなる。まあ、古本市を見回っていたので待たされた気にはならなかったが。


 ハンカチで汗を拭う双葉さんはラベンダー色のブラウスを身につけており、胸元には細いリボンタイが結ばれている。その出で立ちは幼い顔立ちと相まって、中学生か高校生あたりと錯覚してしまいそうだ。


「今日は誘ってくださってありがとうございます!」


 ハキハキとしたお礼を述べる双葉さんの姿は新社会人のそれと同じで、改めて彼女とは歳が離れていることを実感させられる。


「えっと、こっちこそ来てくれてありがとう。あと連絡先のことなんだけど、手間取らせちゃってごめんね」


 連絡先はあの後、沖田さんの彼女さんを通じて教えてもらうこととなった。双葉さんとは上司部下の関係だったので、教えてもらうことにさほど手間はなかったのだが、沖田さんには何やってるんだかと呆れられたのは言うまでもない。


「いえ、私こそうっかりしてまして。なんか、この前幹事をしてくださった方に軽く締められたって聴きましたけど」

「全然平気だよ。いつものこ……、いや、双葉さんが気にすることじゃないからね」


 あんまり変なことを言うと本人に間違って伝わるかもしれないし、そうなったら後でなんて言われることやら……。


「じゃ、じゃあそろそろ行こうか」

「はいっ」


 元気のいい返事をする双葉さんは、嬉しそうな笑顔を浮かべていた。


「これから行くお店って、実月さんの行きつけだったりするんですか?」


 引っかかった信号が変わるのを待っていると、双葉さんが実月の顔を見上げて訊いてくる。


「えっと……、行きつけではないかな」


 一瞬言葉に詰まったのは、沖田さんに行きつけって言っておけと釘を刺されたから。いい顔を見せろということなのだろうが、生憎そんな嘘を吐く度胸は持ち合わせていない。


「スペアリブやポテトサラダがおいしそうだったからそこを選んでみたんだけど」

「いいですね。すごく楽しみです」


 にっこりと笑顔を浮かべる双葉さん。お世辞なんだろうけど、実際にそれを向けられて胸の内がうずうずしていた。


「一応時々行くお店はあるんだけど、なんていうか、普通って感じのところばかりでね」

「でも、実月さんの行くお店は外れが無さそうです。実月さんって食べることが好きそうじゃないですか。だから、おいしいお店とかいっぱい知ってそうですよね」

「そ、そんなことはないと思うよ。興味があってもなかなか入れないところだってあるし、意外と普通のチェーン店も好きだったりするから」


 双葉さんに笑顔で見つめられて、いつにも増して饒舌になってしまっている。さっきよりも高鳴るうずきがそうさせているのだろうか。なんだか落ち着かないので、彼女から顔を背けてこっそり深呼吸をした。

 それにしても、双葉さんって結構ちんまりしているな。実月自身も背は高くない方だが、双葉さんの頭のてっぺんと実月の肩の高さがちょうど一緒だ。そんな双葉さんが自分の顔を見上げて話しかけてくれるのが、なんだか新鮮というか、不思議というか……。


「実月さん、信号変わりましたよ」

「……あっ、ごめんごめん」


 双葉さんに促されてはっとした実月は、内心に生まれた焦りを誤魔化すように横断歩道へと足を踏み入れた。


 車道を渡りきり歩道を歩いた後、飲み屋が立ち並ぶ路地へと入る。目的のお店はこの並びに存在する。華の金曜日ということもあって、すれ違う人たちはどこか浮かれた様子だ。

 ふと隣を歩く双葉さんを横目に見ると、どこかからウキウキと擬音が聞こえてきそうな顔をしている。まだまだ残暑が厳しいからか頬が紅いような気がするが、やっぱりこういうことには慣れてるのだろうか……。

 すると、双葉さんが突然「そういえば」とこっちを振り向いた。


「この前は大丈夫でしたか?」

「え、えっと。この前って」

「合コンの日ですよ。私が帰った後、お加減の方が悪くなっていないかなって心配でして」

「ああ、夕方くらいには多少マシにはなったよ」

「それなら良かったです」


 双葉さんがにっこりと笑う。とても可愛らしい笑顔だが、どうしてそれを自分なんかに向けてくれるのか? 虫が蠢くように身体の至る所がますますむず痒い。

 すると、今までほんわかしていた双葉さんの目がいきなりキリッとし出した。


「今日もこの前みたいに飲み過ぎてしまっても、私が責任持って家まで送りますので安心してください」


 私を頼ってくださいと言わんばかりに鼻息を荒くしていらっしゃる。この前もそうだったけど、どうしてそんなに世話を焼きたがるのか?


「いや、今日はさすがに……。そもそも俺ってあんまり飲めないし」

「そうなんですか?」

「一杯くらいなら平気だけどね。キンキンに冷えたビールの一口目とか結構好きだし」

「そうなんですね。私はビールが苦手なので羨ましいです」

「双葉さんは飲める方なの?」

「私はこう見えてお酒強いですよ」


 言われてみると、この前の合コンではチューハイやハイボールを勧められて五杯以上は飲んでいたと思うが、特に様子が変わったりしていなかった。翌朝も自分と同じように具合が悪そうな素振りを見せなかったから、なんだか羨ましく思えてしまう。


「なので、もし実月さんに何かあってもしっかり送り届けますので!」


 結局そこに行き着くのか。目を爛々と輝かせながらそんなことを言うものだから、こちらは苦笑いを浮かべるしかなかった。


 すると、見覚えのある店構えが視界の隅に現れた。


「あっ、見えてきた。あそこだよ」


 指差した先には、目的のバルの看板がそこにあった。選んだお店はスペアリブやポテトサラダを推す口コミが多かったので、それにもうすぐありつけるんだと思うとつい足が逸ってしまった。


「……あれ?」


 しかし、お店の前に着いてみると、入り口に『CLOSED』と書かれた看板が下げられていたので首を傾げた。確か今日は定休日ではなかったはずなんだけど……。


「どうかしました?」


 振り返ると、双葉さんもこちらを見て首を傾げていた。予想外の出来事に何も言えずわたわたしていると、双葉さんが入り口まで近づいていく。


「『本日貸切』ですって」

「嘘でしょ……」


 頭の中でイメージしていた料理達が瞬く間に白い砂へと変わって崩れていく。そして、そのまま実月の脳みそまでも白い砂が浸食していくのだった。


「実月さん」

「あっ、え、えっと、ごめんなさい!」


 思わず声が裏返らせながら謝罪。柄でもないのにちょっと格好つけて奢ろうとしたらこれだ。もはや格好がつかないどころの騒ぎじゃ無い。こうなるなら、事前にお店へ予約をしておくべきだったと、後悔が頭の中を走り回る。


「いえ、謝らないでください。これはもう仕方ないですよ」


 おそるおそる頭を上げると、双葉さんは苦笑いを浮かべていた。でも、内心ではきっと呆れているに違いないだろうな。

 それよりもこれからどうしようか? 適当に目に付いたお店に入ってもそれが外れだったら良くないし……。そんなことを考えていると、双葉さんが口を開いた。


「実月さん、一個訊きたいんですけど、今日って実月さんの奢りなんですよね」


 上目でそんなことを尋ねてくる双葉さんに、おそるおそる「うん」と答える。


「それなら、私が行ってみたいお店に行ってみるっていうのはどうですか?」

「えっと……」


 まさか双葉さんからそんな提案をされるとは思ってもみなかったので、思わず拍子抜けしてしまった。彼女にお店を選ばせた、なんて沖田さんが後で知ったらなんて言われるだろう。そんなことが頭を過ったが、実月としてはそれに乗ってみるのもアリかもしれない。


「い、いいよ。この際だから双葉さんの行きたいところに付き合うよ」


 実月の返事にありがとうございますと嬉しそうな双葉さん。こっちの失態を気にしない素振りを見せる姿は、まるで聖母様と形容しても過言じゃなかった。


「それで、行ってみたいお店っていうのは?」

「それなんですけど……」


 すると、双葉さんは満面の笑みを浮かべて、


「さっき話してた、実月さんの行きつけのお店です」

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