大事なことだから②
「あの、本当に良かったの?」
そう尋ねると、隣にいる双葉さんが顔を上げた。
「俺の行きつけのお店って、その……、あんまり言い方がよくないけど、普通というか、お洒落な所とかでは全然無いんだけど」
「私はそんなこと気にしませんよ」
双葉さんが苦笑しながら答える。
「実月さんがいろいろ考えてお店を選んでくれたことは十分嬉しいです。でもあんなことになったらもう仕方ないですからね。あそこから新しいお店を見つけるのも大変ですし」
明らかに気を遣っているなというのがわかる口振り。双葉さんのフォローに他意は無いだろうけど、そうさせてることに対する自分への情けなさを感じざるを得ない。
「それに……」
双葉さんが何か続けようとして言いよどむ。思わず首を傾げたが、双葉さんはすぐにまた実月の顔を見上げた。
「この前の合コンの時に思ったんですけど、実月さんって本当に食べることが好きなんですよね。だったら実月さんのよく行くお店なら間違いが無いと思うので」
「そ、そうかな?」
心なしか頬が紅くなった気がする。今乗っている電車が混んでいるからその暑苦しさのせい、なのだと思う。
すると、実月の身体に背後へと向かう慣性がかかった。双葉さんの身体も同じ方向に揺られ、彼女のおでこが実月の胸に触れた。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「だ、大丈夫だよ」
咄嗟に謝る双葉さんの顔が更に紅くなる。そして彼女の額が触れた部分には、双葉さんから伝わってきたと思われる熱のようなものが残っていた。
『まもなく東京、東京です……』
ふと窓の外に目をやると、東京駅の駅名標とこの電車に乗るために待つ黒山の人だかりが勢いよく通り過ぎていくのが見えた。
「うわぁ……」
思わず眉をしかめるくらいに人が異様に多い。もはや帰宅ラッシュだからでは片付けられない数だ。十五両もの車両が連なる常磐線快速が新橋の時点で混み混みだったのに、更に人が乗り込んでくるのか。
「そういえば、どこかの電車が止まってるんでしたっけ……?」
同じく窓を覗いていた双葉さんがぼそっと呟く。どこだったかは覚えてないが、線路内に人が入ったとか言ってたような。本当に勘弁して欲しい。
まもなく電車が完全に止まって扉が開く。東京駅で降りる人たちのおかげで余裕が生まれたがそれも束の間、引いた潮が一気に押し寄せてくるように人が次々に乗り込んでくる。
人が乗り込む度にパーソナルスペースが狭まっていき、ついには実月の背中に誰かの身体が触れ、そのまま徐々に押されていく。車椅子スペースの隅に陣取っていたので余裕を生み出す余地は無く、このままだと壁側にいる双葉さんが潰されかねない。実月は咄嗟に壁に両手を付いた。
「……あ」
はっと気がつくと、双葉さんは実月の伸びた両腕の間にぴったり収まっていた。端から見れば、一時期流行った壁ドンをしているような形だ。しかも逃げられないほうの。
「ご、ごめん!」
「い、いえ! 私は全然平気ですのでお気になさらず!」
お気になさらずと言われたが、双葉さんとはほぼゼロ距離みたいになっている。今なお背中をグイグイ押される中、なんとか腕をピンと張って双葉さんのためのスペースを確保できているが、このままだと何かの拍子で双葉さんの身体に触れてしまいそうだ。こんな汗だらけな身体が触れてしまっては双葉さんも嫌だろうから、それだけはなんとか避けなければ……。
しばらくの間背中にかかる圧力に耐えていると、ようやく人の積み込みが終わったのか扉が閉まる音がして電車が動き出す。ほっとため息を吐いてふと目線を下ろすと、双葉さんの頭がそこにあった。
限りなく黒に近い藍色のように見える髪は一本一本がつややかでまっすぐに伸び、その中に指を通してみたい衝動に駆られる。そしてうっすらと匂う汗とか皮脂とかの中にほんのりとシャンプーのような清潔な香りを感じる、気がする。
そんな双葉さんの頭に見とれていると、
「あの……」
双葉さんが不意に実月の顔を見上げ、そのまま目線が合わさってしまった。目の前で自分を見つめる大きな瞳。その存在感が彼女との距離の近さを主張していた。
「ごめん。その、つい……」
「い、いえ、お気になさらず……」
実月は咄嗟に窓の外へ目を逸らす。流れていく夜景は秋葉原あたりだろうか。もうすぐで上野に着くから、そこで混雑が緩和してくれるとありがたいのだが……。
しかし、その希望は電車が上野駅のホームへ滑り込んだタイミングで脆く崩れ去った。東京駅とも勝るとも劣らない人の多さに、自分の顔から表情が消えていくのを感じた。
「あの、実月さん。大丈夫ですか?」
再び顔を下に向けると、双葉さんが自分を見つめていた。
「え、えと……」
「その、ずっと壁に手を付いていらっしゃるので、辛くないですか?」
「大丈夫だよ。こっちこそその……、狭いところに押し込めるみたいにしちゃって悪いね」
「いえ、私は全然平気なので」
顔を赤らめながら答える双葉さん。こんな壁ドン紛いなことをされて居心地が悪いだろうに、それでも耐えてくれているのだからこれ以上気を遣わせる訳にいかない。
普段より時間がかかってようやく電車が上野駅を出る。混雑率は相変わらず、実月の背中には常に誰かが触れている状態だ。あと二駅止まるはずだが、この様子だと混雑が改善する予感がしない。このまま北千住まで耐えるしかないだろうな。
「ぅ……」
口から思わず声が漏れ出る。誰かが自分の背中に触れているので、その人の体温が直接伝わってくる。おじさんの人肌を感じるとか想像したくないが、満員電車なので仕方ないと割り切るしかない。
問題はその体温というのが異様に熱いことだ。温湿布を貼り付けられたような、じっとりと湿っぽい熱は、常に手を壁に押し当て腕をピンと張っている実月の体力をじわじわ削っていく。たまに顔にかかる空調からの風が、常に当たってて欲しいと思えるくらいだ。
気がつくと、自分の頬を汗の粒が伝うのを感じた。このままだと双葉さんに自分の汗が当たってしまう。なんとか右腕のシャツの袖で拭うが、汗が次々と現れては実月の顎先を目指していた。
すると、
「……え?」
実月の頬に柔らかい布のようなものが当たる。目線を下ろすと、双葉さんが手にハンカチを持って実月の顔に当てていた。
「あ、ありがとう」
「いえ、私こそ守ってもらっているようなものなので」
にっこりと応える双葉さん。ポンポンと何度も触れるハンカチの感触。それを自分なんかの汗で汚してしまって申し訳ないと一瞬湧き上がったが、それは言葉として口から出ることは無かった。
*
「あの、大丈夫ですか?」
ようやくたどり着いた北千住駅。なんとか人の流れに乗って電車を降りた実月のことを、双葉さんは心配そうに見つめていた。電車が出発した後もホームで新鮮な外気を思いっきり吸い込んで、ようやく気持ちが落ち着いたところだ。
「うん。ちょっと落ち着いた。でも水飲みたい……」
近くの自動販売機で水を買い、蓋を開けてすぐに口の中に流し込む。知らないおじさんの灼熱の体温で失われた水分を取り戻し、ようやく全身が生き返ったような気分だ。
「実月さん、ありがとうございます」
振り向くと、双葉さんは自分に向かって頭をぺこりと下げていた。
「その、電車の中でわざわざ気を遣ってもらっていたので……」
「いやいや、そんなお礼を言われる程じゃ無いと思うけど」
「そんなこと無いですよ。これで二回目ですし……」
「……え?」
何やら意味深に呟いた双葉さんの言葉に引っかかりを覚える。二回目って、何のことだろうか? 多分さっきの電車で守ってくれたことを言っているのだろうが……。
すると、双葉さんははっと気がついたように、
「あの、そろそろ行きませんか? じゃないと時間無くなっちゃいますよ」
ホームの発車表の時刻は既に二十時を越えていた。そして、電車の中で無駄に体力を使ったせいでお腹もかなり減っている。
「あ、うん。そうだね。行こうか」
さっきの双葉さんの言葉には引っかかったままだが、これ以上遅くなるのも忍びない。実月は双葉さんを連れてコンコースへ向かう階段を登り始めた。
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