大事なことだから③

「いらっしゃーい!」


 引き戸を開けると元気のいい女性の声が飛んでくる。聞き慣れたつもりだけど、その勢いの良さにはいつも驚かされている気がする。


「ど、どうも」

「あっ、実月くん、いつもありがとう」


 こちらに駆け寄ってくる若い女性の店員はこの焼き鳥屋の看板娘的存在で、名前を秋帆さんという。彼女にはすっかり実月の顔と名前を覚えられてしまっている。

 すると、秋帆さんが実月の背後にいる双葉さんに目を向け、


「あれ? 今日は一人じゃ無いんだ」

「そうですね」

「もしかしてデート?」


 面白そうにニヤニヤと実月の顔を見遣る秋帆さん。咄嗟に否定しようと口が開いたが、これはデートではないかと一瞬頭に過ったせいで言葉が出てこなかった。チラッと双葉さんを見ると、彼女は頬を染めてうつむいていたので尚更否定しづらい。

 そのまま言葉に詰まっていると、秋帆さんがお店の奥へ振り向く。金曜日ということもあって、お店の中はなかなかの賑わいを見せていた。


「えっと……、今すぐ席を空けてくるからちょっと待っててくれる?」

「は、はいっ」


 お店の奥へパタパタと戻っていく秋帆さん。双葉さんの方を見ると、未だに顔を真っ赤にしてうつむいていた。


「あの……、やっぱり金曜だから飲み屋はどこも混んでるね」

「いえ、私は全然気にしてないですよ」

「そ、そう?」


 さっき秋帆さんにデートかと訊かれたせいなのか、なんだか会話が弾んでいないような。やっぱり否定するべきだったかな……。

 程なくして、秋帆さんがお店の奥から戻ってきた。


「お待たせしました! 奥の席を空けたからそこに座ってくれる?」

「あっ、ありがとうございます」


 秋帆さんに案内されたのは畳が敷かれた小上がりのテーブル席で、隣のテーブルとの間に衝立が置かれて半個室みたいになっている。普段ひとりで来る実月にとってはあまり縁が無い席だ。


「いつも来てくれてありがとうね。生中なまちゅうでいい?」


 秋帆さんがおしぼりをテーブルに置いていく。そして何を注文するのか先回りして訊いてくるまでが、なんだかもう慣れてしまったやりとりである。


「はい」

「おっけー。で、彼女ちゃんは何がいい?」

「かっ……!」

「あ、あの秋帆さん、俺たちまだ付き合ってるって訳じゃないので」


 咄嗟に否定すると、秋帆さんは一瞬はっとした表情を浮かべた。


「そうなの? ごめんね早とちりしちゃって。実月くんが今まで女の子を連れてきたことなんて無かったから。もっと早めに言ってよ」


 苦笑しながら実月の肩を小突く秋帆さん。チラッと双葉さんを横目に見ると、なぜか赤らめた頬を膨らませていた。


「私はレモンサワーでお願いします」

「オッケー。じゃあすぐ持ってくるね」


 そう言い残して秋帆さんはお店の奥へと消えていく。


「本当に行きつけなんですね、このお店」


 双葉さんがお店の中を見回しながら呟く。お客さんで賑わう店内はどこにでもありそうな飲み屋という雰囲気で、飾ったり気取ったりしたようなものが見当たらない。それ故に実月はこの気兼ねなく落ち着ける感じがすごく気に入っている。


「まあね」

「通い始めて長いんですか?」

「ここ二・三年くらいでできたお店だから長いとは言えないんだけど、開店してからすぐに通い始めた感じかな」

「……もしかして、さっきの人が目的だったり……」

「そ、そんなことないよっ。秋帆さんは既婚者だし」


 下心が完全に無かったとは言い切れないけど、そこまで言う必要は無いだろう。まあ、仮に既婚者じゃなかったとしても何か起こるとは思えないし……。

 しかし双葉さんは尚もジトッと疑いの目を向けてくる。


「……本当ですか?」

「本当だって。秋帆さんはあんな感じだから話しやすいってだけだよ」

「……そうなんですね」


 そう言いながら、双葉さんは口を尖らせる。『嫉妬』という単語が頭に浮かぶ。漫画とかラノベとかで見かけるけど、それを向けられてる……のだろうか? 作品中のやつは羨ましいと思ったが、実際はなんだか妙に焦らされる感じで落ち着かなかった。


「なになに~、私の話?」


 声がした方を振り向くと、両手にジョッキを掴んだ秋帆さんが立っていた。そのまま小上がりに膝を付いて、テーブルにふたつのジョッキを置いていく。


「はいこれ、お酒ね。実月くんはわたしが目当てだったの?」

「そ、そんなこと無いですよっ!」

「む~、そんなに否定されると逆に傷つくんだけど。ほかのお客さんには私が目的ってはっきり言う人もいるから全然構わないんだけど」

「だとしても言いづらいですから! ところでっ、双葉さんは何か食べたいものあるかな?」


 この話題を引っ張ると碌なことにならない予感がしたので、秋帆さんを遮って双葉さんにメニュー表を差し出す。双葉さんは虚に突かれた顔をした。


「あ、えっとそうですね……」

「俺の奢りだから遠慮しなくていいからね」

「今日は実月くんの奢りなんだ。太っ腹~。そういえば、今日はアレがまだ残ってるよ」


 秋帆さんが耳打ちをするように話しかけてくる。瞬間、実月の口の中が潤った。


「もしかして、白レバーですか?」

「そう。残り一本、だったかな」

「……白レバーってなんですか?」


 メニュー表を手に持った双葉さんが首を傾げていた。


「要は鶏の脂肪肝かな。すごく希少だから、うちでも滅多に食べれないやつ」

「普通のレバーと違ってクセが少ないから食べやすいよ。じゃあそれお願いします」


 そう伝えると、秋帆さんはオッケーと注文票を書き始めた。


「あ、あの、いいんですか?」

「いいよ。いい機会だから食べたほうがいいよ。ほかはどうする?」


 再びメニュー表に目を落とす双葉さん。目線を左右に動かして悩んだ後、もう一度実月に目線を合わせた。


「この焼き鳥盛り合わせと豆腐サラダをシェアしませんか?」

「いいよ。じゃあそれで」

「あと、鶏の唐揚げもどうですか?」


 ――っ。


 瞬間、自分の口がすぅっと薄く開く。双葉さんの言葉をきっかけに、頭の中で何かが目覚めたような感覚があったからだ。ずっと片隅で息を潜めている何かが、自分の存在を示すために息の音を鳴らすような……。


「……実月さん?」


 はっと気がつくと、双葉さんがこちらを見つめていた。


「……ああ、ごめん」

「実月くんは唐揚げ食べないんだよね。うち、唐揚げも自信あるのにな」

「そうなんですね、すみません」


 しゅんと縮こまる双葉さん。それを見て実月は咄嗟に両の手のひらを彼女に向けた。


「い、いや、こっちこそごめんね。そしたら、後は卵焼きと焼きおにぎりを二人分にしようかな」

「はーい。注文は以上かな? それじゃちょっと待っててね」


 注文を取り終えた秋帆さんが厨房へと入っていく。その背中を見送った後に双葉さんに向き合うと、彼女はまだ縮こまったままだった。


「……なんか、変な気を遣わせちゃったね」

「いえ。実月さんは唐揚げが苦手だったんですね」

「苦手……というより、あんまり進んで食べようと思わないって感じかな」

「胃がもたれるからってことですか?」

「……そんなことはないんだけどね」


 苦手だからではなく、胃がもたれるからでもなく、なんとなく避けている感じ。それは唐揚げを目の前にすると何かを思い出してしまうからであって……。


 ふと目線を上げると、双葉さんの顔がどんどん曇っていくように見えた。実月は慌ててビールが入ったジョッキを掴む。


「そ、それじゃ、遅くなったけど乾杯しようかっ」

「は、はいっ」


 双葉さんも続いてレモンサワーが入ったジョッキを手に持った。


「さっきも言ったけど今日は俺の奢りだから、財布のことを気にせず好きなだけ食べていいからね。それじゃ、かんぱーい!」

「か、かんぱーい」


 無理矢理な感じでこぎ着けた乾杯。お互いのジョッキを当てると、重くなった空気を払うような小気味のいい音が鳴った。

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