大事なことだから④

「ビールもう一杯頼みますか?」


 双葉さんが実月の手元のジョッキを見て尋ねてきた。


「いや、次からウーロン茶にしようかな」

「もういいんですか?」

「うん。あんまりお酒が得意じゃないからね」


 ジョッキの中には、あと四分の一くらいビールが残っている。少し口を付けたが、運ばれてきて時間が経ったせいか、もうただの苦い液体へと変わり果てていた。


「双葉さんは遠慮せずに好きなお酒をどんどん頼んでいいからね」

「ありがとうございます。実月さんはビールが好きなんですか?」

「全然」


 そう答えると、双葉さんは驚いたような顔をした。


「ビールはキンキンに冷えた一口目を楽しむものだと思ってるから。そこから先はただの苦いお酒としか思えないんだよね」

「そうなんですね。でも私はビール自体が苦手なので羨ましいです」

「……そんなに羨ましい?」

「はい。ビールを飲める人って大人だなって感じがします」


 そういうものかなあと首を傾げながら、双葉さんが取り分けてくれた豆腐サラダを口に運ぶ。


「俺はお酒強いのが羨ましいかも」

「そうですか?」

「だって飲んでみたいお酒がいくつもあったら、それらを一通り試すことができるでしょ。それに、この前みたいにたくさん飲まされて具合が悪くなるなんてごめんだしね」

「それはそうですね」


 苦笑する双葉さん。あの惨状を目の当たりにしたからこそ、首を縦に振るしかないのかもしれない。食べかけのつくねを口に放り込む。


「おまたせしました! 今日の白レバーはブルーベリーソースがけだよ」


 タイミングを計ったように秋帆さんがやってきて、テーブルに四角い皿を追加する。運ばれてきた皿の上で紫色のソースを纏うそれは形こそ鶏レバーそのものだが、色は明らかに白くて艶っぽい。そして盛り付け方も普通の焼き鳥と違って、ソースで皿に線を描くような粋なことをしている。


「これが白レバーですか」


 大衆的な鶏料理のお店にしては洒落た一皿を、双葉さんは物珍しそうに見つめている。さっきの反応から白レバーの存在すら知らなかったようだから、内心わくわくしているに違いない。

 秋帆さんにウーロン茶を注文していると、双葉さんが顔を上げて、


「実月さん、これをふたりで分けませんか? 私ひとりだけで頂くのはなんだか申し訳ないですし」


 上目で尋ねてくる双葉さんに、実月は一瞬戸惑った。別にこっちのことなんて気にせず食べてくれても全然よかったのだけれども……。


「えっと、双葉さんがそれでいいならいいけど」

「じゃあ、早速分けちゃいますね」


 二の句を挟む間もなく、双葉さんは白レバーを箸で抑えながらそれを貫く串を器用に引き抜く。そして、皿の上に転がった四個の白レバーを二個ずつに分けてしまう。その手際の良さに気をとられていると、


「早速頂きましょうか」

「あ、うん。そうだね」


 なんとか返事をすると、双葉さんはにっこり笑いかけて白レバーに箸を伸ばす。実月はというと、さっきの取り分ける双葉さんの姿を頭の中でリピートさせていた。双葉さんってこういう場に慣れてたりするのかな? そんなことを考えていると、背後からくすりと笑う声。振り返るとそこには秋帆さんが立っていた。


「すごくいい子じゃん。お姉さん、応援してるから頑張りなよ」


 お姉さんって……。秋帆さんは俺より年下じゃなかったっけ? 店の奥に戻っていく秋帆さんの背中にそんな視線を投げかける。


「実月さん、すごくおいしいです!」


 正面に向き直ると、双葉さんが目を輝かせながらこちらを見つめていた。


「そう、それならよかった」

「実月さんも食べてください!」


 余程おいしかったのだろう、興奮気味の双葉さんに促されるように白レバーをひとつ口に運ぶ。鶏のレバーとは思えないくらいにクセが無くて、舌の上でトロっととろけるのにさっぱりとした味わい。それでいてフルーティーなソースとも相性が抜群で、思わず口元が綻んでしまう。

 目を閉じてじっくり味わっていると、正面から含み笑いが聞こえてくる。目を開けると、双葉さんがこっちをニコニコと見つめていた。


「あの、何か顔に付いてた?」

「いえ。実月さんっておいしそうにご飯を食べるんだなって思ってたんです」

「……へ?」


 頬が熱くなっていくのを感じた。一体何を言い出すんだと戸惑う実月に、双葉さんが更に続けた。


「合コンの時もローストビーフをおいしそうに頂いてましたし、ご飯を食べてるときの実月さん、すごく可愛いです」


 可愛いなんて言われたことは小さい頃以来だろう。そんなことは三十路のおじさんに言うものじゃ無いと口にしようとするけど、上手く頭が回らなくて口がパクパク動くばかり。そんな自分を双葉さんは尚も微笑ましく見つめてくるものだから、余計に頭が熱くなってきて……。

 耐えられなくなった実月は手元のジョッキをガシッと掴むと、中に残っていたビールを一気に口へ放り込む。その勢いでビールが喉の違うところへと流れ込みそうになり、思わずむせてしまった。


「だ、大丈夫ですか!?」

「……うん、気にしないで」


 何やってるんだろう、俺。オロオロする双葉さんが見つめる中、未だにこみ上げてきそうなものを抑えながら空いたジョッキをテーブルの端に置いた。





「実月さん、眠いですか?」


 双葉さんとのご飯が始まってしばらく経った頃、双葉さんが首を傾げながら様子を伺ってきた。


「あ、うん。ごめんね。どうもアルコールが回ってきたみたいで」


 少し前から、実月は自分の瞼が重くなってくるの感じ始めていた。特に怠いわけでは無いが、次々と空になっていく皿を前にしても追加で何かを頼もうという気分では無かった。


「どうします? そろそろお開きにしましょうか? 気分が悪かったらまた部屋まで付き添いますけど」


 付き添いますという双葉さんの言葉に、ついこの前の合コンの後の出来事が頭に浮かんでくる。合コンでぽんと出会ったばかりの男に対して、部屋までの帰路に付き添ったり、二日酔いの世話までしてくれたり……。


「あのさ、一個訊きたいんだけど」


 顔を上げて双葉さんに向き直る。口は重かったが、ここ数日の間抱え込んでいた疑問をぶつけるにはちょうどいい機会かもしれない。


「どうして、俺みたいなのにここまでよくしてくれるの?」


 疑問をぶつけると、双葉さんはきょとんとした顔を見せた。


「その、俺と双葉さんって合コンで初めて顔合わせたけどさ、それだけであんなに世話してくれるものなのかなって、ずっと疑問に思ってて。いや、別に双葉さんを疑ったり何か下心があるとは思ってないんだけど、どうにも腑に落ちなくて」


 周りの客の混ざり合った話し声が嫌によく聞こえてくる。それと同じくらい、心臓が激しく動いているのを感じる。今自分は双葉さんに対して失礼なことを言ってしまったかもしれないし、知らなくてもいいことなのかもしれない。

 だけど、その理由をはっきりとさせておく必要がある。そう感じるのは、ただ単にここ数日抱えていたモヤモヤを解消するためだけじゃ無くて……。

 すると、双葉さんがすうっと口を開いた。


「そう、ですよね。私もつい浮かれてしまってましたけど、はっきりさせておいた方がいいかもしれませんね」


 背筋をピシッと伸ばす双葉さんの表情が張り詰めていく。それに併せて、実月の心音もどんどん大きくなっていくのを感じていた。


「えっと、はっきり言ってしまいますと、合コンで実月さんをお見かけしたときに……その、う、運命だと思ってしまったんです」


 頬を赤らめる双葉さんはぎゅっと目を瞑っている。彼女からしたら、相当な覚悟を決めてからの告白だったのかもしれない。だからこそ、彼女の口から出てくる言葉をある程度予想はしていた。

 けれども、その予想から斜め上に行ってしまったような単語が飛び出したので、実月は思わず言葉を失ってしまった。


「……え、えっと」

「あ、わ私自身も変かなって思いますよ! ででも、まさか合コンの場で実月さんと再会できるとは思っていなかったので、これは運命だって思ってしまいまして……」


 アワアワと付け加える様子から、自覚があるのは本当なのだろう。それを知れて、内心ほっと胸を撫で下ろすことができた気がした。


「で、でも再会って、俺、双葉さんとその前に会ったこと無かったと思うけど……」


 『再会』という言葉を受けて咄嗟に合コン以前の記憶を漁ってみたが、双葉さんらしい人と会った記憶は存在しなかった。もし仮に会ったことがあって、それを覚えていないだけだったらかなり失礼な話だ。その可能性に顔全体の血の気が引くのを感じた。すると、


「実月さんは覚えていなくても仕方ないです。あのときはさりげなく実月さんに助けられたって感じでしたから」

「え……?」


 今度は『助けられた』に頭の中のはてなマークが更に増殖していく。誰かを助けた記憶、しかも『さりげなく』って、そんなこと……。


「……あ」


 混乱する頭の中でひとつだけ引っかかる記憶。その瞬間にはてなマークの乱舞がピタッと止まって行った。


「もしかして、あのとき痴漢に遭ってた……」


 それは朝から沖田さんに満員電車の不満をタラタラこぼしていた日のことだ。四方から身体を押されて息苦しさを感じていた実月がふと目線を下ろすと、目の前にいた女性のお尻に手を伸ばす不届き者を見つけてしまったのだ。今思い返してみると、その女性の背丈は双葉さんと同じくらいだったし、髪も黒くてさらさらなボブカットという特徴だった気がする。


「はい。あのときは助けてくれてありがとうございました」


 ぺこりと小さくお辞儀をする双葉さん。正直なところ、その痴漢を捕まえて警察に突き出すなんてしたわけではない。下手に捕まえようとして痴漢に間違えられるのが怖いという気持ちがあったので、手を伸ばすことができなかった。

 ただ、このまま見て見ぬふりをするのも気持ちが悪かったので、実月は電車の揺れやほかの乗客の動きに合わせて、女性と痴漢との間に割り込んでいった。痴漢からは舌打ちが聞こえてきたが、それ以上何かされることも無く、電車を降りるまでそこに留まり続けたのだ。


「あれは助けたって言ってもただ割り込んだだけみたいなものだし、そんなお礼を言われる程じゃ……」

「いえ、それでもさりげなく助けてくれたことが嬉しかったですし、さっきも電車の中で私のことを守ってくださったじゃないですか。だから、実月さんは素敵な人なんだなって……」


 『素敵な人』なんて、一生のうちに言われるなんて思わなかった。だって、自分はそれと程遠いような人間なのに……。

 すると、双葉さんが実月の顔をまっすぐに見つめて、


「それで、合コンで実月さんと顔を合わせたとき、これは運命だって思ってしまったんです。だから実月さん、私でよかったら恋人としてお付き合いをして欲しいですっ」


 頬を染めながらまっすぐに畳み掛けるような告白の言葉。心の片隅で冗談であって欲しいと願っていたことを恥ずかしいと思うくらい、双葉さんの気持ちに疑いの余地なんて無いだろう。清々しさを感じるその勢いの良さは、きっと若さが為せることなのかもしれない。

 だからこそ……、


「……ちょっと、トイレ行ってきていいかな?」

「えっ、あ、はいっ」


 拍子抜けする双葉さんに申し訳ないと思いつつ、実月は席を立ってトイレへと向かった。


 用を足して手を洗っていると、ふと鏡に映る自分の顔が目に入った。なんとなく覚悟はできていたと思うけれど、まさか自分がという気持ちの方が強いのも事実だ。何度も繰り返してきた「どうして?」に決着が着いたのは嬉しいが、受け入れるにはまだ時間がかかるかもしれない。

 何せ、こっちは三十路目前の冴えないサラリーマンだ。こんなののどこが良くて気持ちを伝えてるんだと思わなくも無い。もし付き合いが深くなれば幻滅することだって出てくるかもしれないだろう。

 だけど、


『俺からしたらその慎重さも考え物だけどな。何が怖いか知らんけど、勢いに任せて一歩踏み出すのも大事だぞ』


 呆れ顔で双葉さんの連絡先を教えてくれた沖田さんの言葉が頭に浮かぶ。何をわかったようなことを、とは思った。でも、まっすぐに気持ちを伝えてきた双葉さんの姿を目の当たりにして、沖田さんの言わんとすることがわかったような気がした。


「……よしっ」


 鏡の中の自分の瞳を一瞥すると、実月はトイレの扉を開けた。


「お待たせ。ごめんね、急にトイレに行ってきて」


 席に戻ると、双葉さんが卵焼きをつまんでいた箸を下ろして背筋をピンと伸ばした。


「いえいえ」

「それでさ、さっきの話の続きなんだけど……」


 そう切り出すと、双葉さんの表情に緊張が走る。一瞬言葉に詰まったが、その覚悟にしっかり応えてやらなければいけない。


「その、これまで生きてきて告白されたことなんて一度も無かったからすごく驚いたんだけど、双葉さんのその気持ちはすごく嬉しい」


 双葉さんの顔が少し明るくなるのが見えた。


「でも正直な話をすると、その気持ちに応えるべきかすごく悩んでるんだ。べ、別に双葉さんのことが嫌いとか、そういうことじゃ無いんだ」


 一瞬で表情が曇っていく様子を見て、慌てて言葉を付け足す。


「合コンの日に二日酔いで動けない俺を世話してくれたのはすごく嬉しかったし、すごくいい子だなって思ったよ。だからこそ、俺なんかでいいのかなって……」


 きっと煮え切らない態度をとられてやきもきしているに違いない。実月自身もその自覚がある。


「だから一個提案があるんだけど……」


 大きく息を吸うと、双葉さんの顔にまっすぐに向き合って、


「と、友達から始めてみない?」


 短い時間で散々考えて最適解だと思った答えを、双葉さんへまっすぐにぶつける。

 しかし、双葉さんはぽかんと拍子抜けしたような顔をしていた。その表情を見て、実月は今の『友達から~』がマズい言い方だったのではという考えが頭に過ってしまった。


「……え、っと」

「あ、あのキープしたいとかそういう意味じゃ無くて! なんというか、まずお互いのことを知るところから始めたい、ってことなんだけど……」


 戸惑う双葉さんへの弁明が早口になってしまった。それでも『友達から~』と言ったそのこころをはっきり伝えると、戸惑いが少し消えたようだった。


「……お互いを知る、ですか?」

「その、相手のことを知ることってすごく大事なことだから、双葉さんはさっき俺のこと素敵だって言ってたけど、本当に双葉さんにとってふさわしい人なのをしっかり見極めて欲しいんだ」


 もし沖田さんや坂根さんが聴いていたら、日和ってると非難轟々だったかもしれない。けれど実月にとってはこれでも充分一歩を踏み出したつもりだ。双葉さんが実月を知ることで、恋人として付き合いたいという気持ちが揺るがない相手なのか、それとも幻滅するのか。それを友達として関わる中で判断してもらいたい。

 すると、双葉さんの口がすうっと開いた。


「えっと、つまりはアピール期間ってことですか?」


 こんな馬鹿みたいな考えを自分なりに理解してくれたようだ。


「ま、まあそういうことかな。変かもしれないけど、そうでもしないと俺が納得できないというか」


 きっと都合が良すぎる考えだって思っているに違いない。下手したらこの時点で幻滅しているだろう。でも、それならそれで実月にとっては構わない。少し残念ではあるけれど……。

 それを聴いた双葉さんの反応を待っていると、彼女はふふっと笑い出した。


「わかりました」

「えっ、いいの?」


 はい、といい返事が戻ってきて、今度は実月が拍子抜けしてしまった。


「確かにお互いを知るって大事なことですからね。私も実月さんに好きになってもらえるように頑張りますね!」


 満面の笑みで応える双葉さんに、なんだか申し訳なさを感じてしまう。でも、そんな彼女の前向きな笑顔に、どこかほっと胸を撫で下ろせたような、そんな気がした。





 自分が住むマンションの部屋の鍵を開けると、そのままの格好でベッドの上で仰向けになる。見慣れた天井を眺めていると、なんだかひとつの山を越えたような気持ちになっていることに気がつき、思わずため息を吐いた。

 ふとスマホを見ると、メッセージアプリの通知が入っていた。差出人は北海道の実家に住む姉からだった。


『今日、実月宛に郵便が届いていたので、送っといたよ』


 自分宛の郵便ってなんだろう? 首を傾げたが、その答えは次のメッセージに書かれてあった。


『千里ちゃんからの結婚式招待状だったから。ちょっと辛いかもしれないけど、早めに返事を出してあげなよ』

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