仕事の幅①
「野中、今ちょっと時間ある?」
午後三時前、会議から戻ってきた沖田さんが実月に声をかけてきた。
「はい。大丈夫です」
実月が立ち上がろうとすると、沖田さんが手で実月を制した。
「あ、場所は移動しないから。あと、阪根ちゃんと白川も聞いて欲しいんだけど」
沖田さんが実月の背後にも声をかけると、阪根さんと白川くんがこっちに振り向く。
「はい。なんでしょう?」
「今度の日曜日、ヨキイヤで試聴会があるだろ。そのことなんだけど」
ヨキイヤ――正式名はヨキ@イヤホン――は秋葉原に店を構えるポータブルオーディオの専門店だ。SNSや動画などで製品紹介を行ったり、定期的にメーカー担当者を読んで試聴会を開いたりと、オーディオの普及に積極的なお店だ。
そのヨキ@イヤホンで週末にメーカー合同の試聴会が開かれることになっているのだが、沖田さんはどこか申し訳なさそうだった。
「営業のほうから試聴会に出られる人がいなくなったみたいで、それで急で悪いんだけど、野中と白川にも出てもらいたいんだが、行ける?」
試聴会へは基本的にメーカーや販売店と直接やりとりを行う営業の人間が出るのだが、人が足りないときは営業以外からも人が駆りだされることがある。今回は阪根さんが手伝いに行く予定になっていたのだが、営業から誰も出られないということは滅多にないので驚いてしまった。
「えっと、俺は全然平気ですけど」
「僕も大丈夫です」
「ホント申し訳ねえ。日曜日の休み分は来週のどこかに宛てておくから」
沖田さんは自分の席に座ると、パソコンの画面にスケジュール表を呼び出す。
「でも珍しいですね。営業が誰も行けないなんて、今まで無かったですよね」
「なんか忌引き休暇が発生して、その人が請け負うはずだった取材対応を三枝さんが代わることになったんだってさ。他の人も予定があったりして行けないとか」
実月たちが所属する一般向け部門はここ数年で売り上げを伸ばしつつあるが、会社全体で見るとまだまだ小さい方だ。その影響か営業の人員は十分とは言えないらしい。大変だよななんて思っていると、沖田さんが急に実月のほうを振り向いた。
「それと、三枝さんから野中ご指名でもう一個仕事を頼まれたんだけど」
「な、なんですか?」
「試聴会が終わった後にヨキイヤの動画配信があって、本来ならそれに三枝さんが出る予定だったんだけど、代わりに野中が出てくれないかって」
「えっ……?」
思わず絶句した。いや、三枝さんからのご指名の時点でなんとなく嫌な予感はしていたのだが。沖田さんも実月の反応にそりゃそうだと言いたげな顔をしている。
「お、俺がですか?」
「ああ、どうしても野中に出てもらいたいってさ」
「で、でもどうして……?」
「ほら、お前がSNSで製品紹介とかレビューとかやってるだろ。あれが結構評判がいいみたいで、それを聞いた三枝さんが『野中くんなら任せられる』だってさ」
実月のいるチームの本来の仕事はECサイトの管理と運営なのだが、去年あたりからいわゆる『企業アカウントの中の人』としてSNSでの情報発信も行っている。これも三枝さんの発案だったが、本人は「SNSの始め方がわからない」といい、ほかの営業の人もそんな暇が無いと言われてしまったので、代わりに実月が引き受けているという訳だ。
「……それ、断るって選択肢は無かったんですか?」
言葉を失う実月に代わって白川くんが疑問を訊ねる。沖田さんは手に持っていた缶コーヒーを一杯口にしてから、
「それは俺も思ったんだけど、そこで紹介する予定の奴がちょうどそれなんだよ」
沖田さんが指差したのは、実月の机の上に並べられたふたつの製品。うちの会社が来月から取り扱いする予定の『Yukiguni Sound』という国内発のベンチャーブランドのオーディオプレーヤーとスティック型アンプだ。
「うちの会社としても結構気合いを入ってるみたいでさ、その配信でどうしても宣伝しておきたいんだと」
「あー、まあそうですよね……」
沖田さんの話を少し聞いただけで察しが付いた。小耳に挟んだ話では、その『Yukiguni Sound』を立ち上げたのはうちの会社から脱サラした人だという。恐らく会社的な繋がりという意味で気合いが入っているのだろう。
「……わかりました」
「まあ、厳しそうだったら俺から無理矢理にでもお断りしておくけど」
「いや、大丈夫です。頼まれたからには頑張りますので」
正直なところ、人前に出て発表するということは昔から苦手なのだが、「仕事なら……」と割り切ればなんとかやれそうだ。とはいえ、もう既に胃がキリキリするような感覚が湧き上がっている。
すると、沖田さんが実月の肩をポンと叩いた。
「まあ、試聴会が終わって乗り切ったら三枝さんに奢ってもらおうな」
「そうですよ。営業の予算でおいしいご飯のお店に連れてってもらいましょう」
続けて阪根さんも実月を励ます。その瞬間に揺れた彼女の胸につい目が行ってしまったのは内緒。
「もし心配だったら、休憩した後に配信の練習をしてみるのもいいんじゃないか?」
沖田さんは俺たちも付き合うからと、オフィスの一角にある談話ブースを指差していた。
「でもまだ製品の聞き込みが終わってないんで……」
配信で製品を紹介となると、やはり製品への理解度が中途半端ではいけないはずだ。だから練習よりも製品の試聴をしたいところなのだが、沖田さんは大きくため息を吐いた。
「配信は別に詳細なレビューをするわけじゃないから、そこまでする必要はないと思うけど」
「でも、俺自身が使ってみて感じたことをちゃんと自分の言葉で伝えることが重要なんじゃないかなって」
「真面目だな、お前」
沖田さんはまたため息を吐いた。正直、そこまでする必要はないというのも頷ける。詳細なレビューだって販売店や実際に使ってみた人が行うのが正しい形かも知れない。
でも実際にSNSで情報発信してみると、製品に興味がある人からの疑問に触れる機会が多く、製品を扱う会社としてそういった声に応えてあげるべきなんじゃないかと思い始めてきたのだ。そのためには実際に自分で使ってみた感想を伝えるのが一番だと考えたので、できるだけ試聴に時間をかけておきたいのだ。
「だから三枝さんからご指名されたんだろうな。だけどあんまり根詰めすぎるなよ」
沖田さんはそれだけ言うと、財布を持って自分の席を立った。
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