グルメデート!⑦

「ほんっとうに、申し訳ございません!」


 フィッシュアンドチップスの行列から離れたところで、阪根さんに「へっきー」と呼ばれていた男の人が勢いよく深々と頭を下げる。


「もしシミが気になるようでしたら僕がクリーニング代を出しますので」

「いやいや、そこまでじゃないから大丈夫だよ」


 飲み物をかけられた左足を軽く確認してみたが、そもそもシミが目立つような色合いの服では無い。だからクリーニングまでしなくてもと思うのだが、「へっきー」はそれでもなお深く頭を下げ続けるので、そろそろ周囲の視線が気になってくる。


「そっちこそ、怪我とかしてないかな?」

「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


 パッと上がった「へっきー」の顔は中性的で、背丈も隣に居る阪根さんよりも若干低いくらいだ。格好次第では女性と見間違えそうな見た目で、そう思わせないようにスカジャンにジーンズと男らしい装いを身につけているように思える。

 そんな見た目だからこの「へっきー」は阪根さんの弟かなと一瞬思ったが、だとしたら阪根さんのことを「先輩」とは呼ばないはずだ。そういえば、この彼はこの前の試聴会の時に見かけたような……。


「野中さんは気にしてないみたいだし、もうそんなに畏まらなくていいんじゃない、へっきー?」


 隣から阪根さんが「へっきー」をなだめようとするが、彼は不満そうな目線を阪根さんへと向ける。


「でも僕がお茶こぼしたのは、先輩がよそ見ばっかりして僕にぶつかって来たからじゃ無いですか?」

「えっ、そうだっけ?」

「そうですよ。そのせいで先輩の上司の方に迷惑かけたんですから、先輩も謝ってください」


 すると「へっきー」は阪根さんの後頭部に手を伸ばし、ぐっと力を込めて阪根さんの頭をを無理矢理下げさせようとする。阪根さんはそれに対して一瞬ぐっとこらえたのだが、すぐに「ふえぇ~」と情けない声を出しながら折れてしまった。


「そういえばご挨拶がまだでしたね。僕は深雪先輩とお付き合いさせてもらっている栃川とちかわへきると言います。いつも先輩がお世話になっています」


 さっきまでの謝罪と同じくらいハキハキと挨拶を始める「へっきー」改め碧くん。丁寧に深々とお辞儀をする様に釣られて、実月もぺこりと頭を下げた。


「え、えっと、ご丁寧にどうも。この前の試聴会でうちの所に来てたよね?」

「はい。先輩が仕事しているところを見てみたかったので。それで、先輩はちゃんと職場のお役に立ててるでしょうか?」

「ちょっとへっきー! それ、どういうこと?」


 阪根さんが声を荒らげながら顔を上げる。その顔はみるみるうちに赤くなっていった。


「だって気になるじゃないですか。先輩は家だとむぐっ……」

「わーっ! ストップストップ!」


 阪根さんが碧くんに飛びついて、話を続けようとする彼の口を塞ぎにかかる。その勢いで碧くんの左腕が阪根さんのボリューミーな胸の間へと挟み込まれてしまう。


「私はちゃんと仕事してるって! 今のところ仕事でミスしたことなんてないし。そうですよね、野中さん?」

「う、うん。阪根さんはちゃんと役に立ててるよ」


 勢いに押されながらそう答えると、阪根さんは「ほらぁ」と勝ち誇ったように碧くんを見る。


「それなら全然いいんですよ」


 自分の口を塞ぐ手を退ける碧くん。その表情はどう見ても納得してるようには見えない。


「ほら、わかったならもう帰ろうよ」


 阪根さんが抱きかかえた碧くんの腕をぐいっと引っ張って行こうとする。


「えっ、さっき入ったばっかりなのにもう帰るんですか?」

「だって野中さんと双葉ちゃんのデートを邪魔しちゃいけないでしょ」

「でも、グルメフェスに行きたいって言ったのは先輩じゃないですか」


 碧くんが睨みつけると、阪根さんの動きがピタッと止まった。心なしか「あれ、そうだったっけ?」ととぼけてみせるその視線が泳いでるように見える。


「そうですよ。普段出不精な先輩がどこか行きたがるなんて珍し……」

「だーっ!」


 阪根さんが再び碧くんの口を塞ぎにかかる。さっきのちょっと慌てすぎともとれる阪根さんの様子といい、彼女のプライベートは会社での様子とはかけ離れたものなのだろうか……って、自分たちは一体何を見せられているんだ?


「まあまあ、ふたりとも落ち着いて」


 このまま放置しておくと痴話喧嘩へと発展していきそうだったので、両手の平を見せてふたりのやりとりの間に割って入ることにした。


「せっかくだから、ふたりでもうちょっと回ってみたらいいよ。すぐ帰っちゃうなんてもったいないしさ。双葉さんもそう思うよね?」


 ここまで置いてけぼりだった双葉さんにも同意を求めるために振り返る。彼女が「そうですね。もったいないですよ」と答えてくれるのを期待して。しかし、


「……まあ、そうですね」


 あれ? 返ってきた双葉さんの声が低い。双葉さんに目を向けると、彼女は頬を膨らませながら機嫌悪そうにそっぽを向いている。もしかして、阪根さん達ばかりに構っていたから拗ねちゃったとか……?


「野中さんがそう言うならほかの所を回ってみよっか。ほら行くよ、へっきー」

「あっ、もう何なんですか!」

「じゃあ、私たちはこれで失礼しますね」


 額に汗を浮かべた阪根さんはそう言い残すと、両腕で絡みついた碧くんの腕を無理矢理引っ張っていそいそと行ってしまった。もしかしたら、阪根さんは双葉さんの様子を察してくれたのかもしれない。気をつけてねと言いながらふたりを見送ると、改めて双葉さんに向き直る。


「……あの~、双葉さん?」


 そう声をかけてみるが返事が無い。双葉さんはずっとむくれたまま、実月と目を合わせようとしてくれない。ぷくっと膨らんだ白い頬を突いてみたいと思ってしまったが、到底そんなことができる空気では無い。


「えっと~、ごめんね。その、ほったらかしにしちゃって」

「……別にいいですよ。会社の後輩さんですし、さっきのことがあったのでそっちの対応が優先なのはわかってます」


 そう言いつつも表情が相変わらずだ。顔がいいですよとは言っているように見えない。マズい、何で怒っているのかがわからない。ズキリ、と心臓に痛みが走る。


「と、とりあえず、さっきのフィッシュアンドチップスの列にまた並んでみる?」

「……そうですね」


 双葉さんは口数少なく実月の横を通り抜けてスタスタと歩いて行く。ズキリ。また心臓に痛み。


「あ、待って……」


 双葉さんを追いかけようとすると、またしても心臓に痛み。ズキリ、ズキリとどんどん強くなってきて、ふたつの肺が最大限に膨張と収縮を繰り返している。


『どうしてそんなこと言うの!』


 どこかからの幻聴。懐かしい怒号の出所は自分の心の奥深く、溜まりに溜まったヘドロの中からだ。思い出さないようにずっと押し込めていた物が、マグマのようにゴポゴポと音を立てて湧き上がろうとしている。


 ――ああ、また怒らせてしまった……。


 ――ごめん……。ごめん……。


 あの時言えなかった言葉がどこからともなくやってきて頭の中で飛び回っている。好きなだけ飛び回った後に、自分の口から次々と飛び出して……。


「実月さん!」


 ふっと顔を上げると、自分の名前を呼ぶ人の顔がそこにあった。双葉さんだった。


「大丈夫ですか?」


 いつの間にか屈んで俯いていた自分を心配そうな目で見つめ、気遣うように呼びかけてくれている。


「あ……、ごめん」

「とりあえず、どこかベンチに座りましょう!」

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