古典的ラブコメの始まり、みたいな朝①

 深く澱んだまどろみの中を明るい光がぼんやりと照らし出すような、そんなはっきりしない意識の中で目に映ったのは、細かい凹凸だらけの白い壁紙。それが実月の住むマンションの部屋のものだと理解できたとき、ほっと大きなため息が口から漏れ出てしまった。


 太ももを手で探るとスラックスのさらさらした手触り。どうやら部屋に帰ってからすぐベッドで眠ってしまったようだ。むしろ、よくあんな状態でちゃんと自分の部屋まで帰ってこられたのかと、自分自身が恐ろしく思えてしまった。


 実月にとって未知との遭遇そのものであった合コン。雰囲気から盛り上げ方、女性とのやりとりの仕方など、それらを掴むのに相当なエネルギーが消費されていった。男性陣のノリと勢いにはただただ圧倒され、食べ物ばかりに集中していると沖田さんにたしなめられた。

 それでも、沖田さんのアシストのおかげで女性陣と言葉を交わすことができた。正直、緊張もあって自分でも何を言っているんだろうと思うことを口走ったりもしたが、お酒の力もあってお互いの趣味の話とか好きな食べ物の話とかで盛り上げる事ができたと思う。


 しかし、合コンが始まって一時間くらい経った頃だった。


『野中っち~、まだ飲みが足んないじゃないの~?』


 酔いが回った久保川さんがやたらと実月に絡んでくるようになった。お酒は嗜む程しか飲めないのに、全然飲んでないとハイボールを押しつけられ、それを飲み干すとまた新しいジョッキを押しつけられるサイクルが始まってしまったのだ。

 飲み慣れないウイスキーの風味も相まって、どんどん具合が悪くなっていき、見かねた沖田さんが本気で止めに入ってもお構いなし。ついにはトイレとお友達になってしまった。


 あまりのおいしさにたくさん口にしたローストビーフや、女の子たちと会話したときの楽しいと思えた気持ち。それら全てぶち壊されたのだから悲しいなんてものでは無かった。


 枕元の目覚まし時計が示す時刻は朝の六時半を過ぎるところだった。窓を見上げるとカーテンの隙間から漏れる光が目に入る。その瞬間、左目の奥深くに鈍い痛みが走った。混沌に支配されたような不鮮明な頭の中を、鮮烈な痛みが小癪にも一定のリズムを刻む。完全に二日酔いだ。

 口の中がもわっとして気持ち悪さに拍車を駆ける。吐息に色があるなら、間違いなく紫と茶色のマーブルだろう。全身に服が張り付いているし、今すぐシャワーと歯磨きでさっぱりしたい気分だ。でも、二日酔いのせいで頭が重く、今起き上がったら頭痛がもっと酷くなりそうだ。


 さて、どうしたものか……。そう思って体の向きを百八十度回転させた時だった。


「……へ?」


 全身が硬直した。振り向いた先、ほんの鼻先とも言える程の距離に、すうっと寝息を立て瞼を閉じている女の子の顔がそこにあった。


「えっ!」


 思わず頭を仰け反らせしまい、その勢いのまま後ろの壁にぶつかってしまった。


「――った!」


 二日酔いとも違う鋭い痛みが後頭部を襲い、思わずぶつけたところを手でさすった。すると、


「……ん」


 はっとして女の子の顔に目を向けると、閉じていた瞼が薄く開いていた。どうやら今ので目を覚まさせてしまったようだ。これは非常にまずいのでは? そう思った次の瞬間、女の子の目がパッと見開いた。


「――あっ!」


 女の子はガバッと体を起こし、その勢いでタオルケットが足下までめくり上がった。


「す、すすすみませんっ! あの、その……」

「ええええっと、おお落ち着いて!」


 顔を真っ赤にして慌てふためく彼女をなだめようとするが、その声も慌てているという有様。すると、女の子がベッドの上で足を畳み土下座を始めた。


「し、失礼しました! その……、お布団をちょっとお借りしてしまいました」

「あ……、うん」


 返す言葉に困った。朝起きたら同じベッドで女の子が眠っていた。一体どんなラブコメやエロゲの始まりだよと思いたくなる状況なんてそうそう無い訳だし。


「とりあえず、顔を上げてくれるかな?」

「……はい」


 女の子がおそるおそる顔を上げる。後ろめたさからか少し俯きがちではあったが、その幼い顔立ちに実月はすぐにピンときた。


「えっと、双葉さん……だよね? 昨日の合コンにいた……」

「は、はい。覚えててくれてたんですね」


 女の子――名雪なゆき双葉さんの顔がパッと明るくなる。彼女の名前を覚えていられたのは特段彼女に興味があったから……と言うわけでは無い。実月が料理を取り分ける際に率先して手伝ってくれた女の子で、その後も文字通り身を乗り出す勢いでたくさん話しかけられたので印象に残っていたというわけである。


 とりあえずベッドインしていたのが全く知らない人では無かったのは幸いだろう。いや、安心していい事では無いけれど……。でも、どうして同じベッドに入っていたのか? そもそもどうして実月の部屋にいるのか? 訊きたいことが次々に浮かんでくる。

 その疑問をぶつけようと口を開こうとしたが、その前に実月はまたしても固まってしまった。目が留まった彼女の格好が、上はキャミソール一枚のみ、下は太ももが大あらわという明らかに目のやり場に困る状態だったからだ。


「どうかしました?」


 実月がフリーズしているのに気がついたのだろう、双葉さんが心配そうに身を乗り出してくる。その拍子に太ももの付け根からオレンジ色のストライプ柄の布が見えてしまい、慌てて身体ごと振り向いてしまった。


「あのっ、なんでそんな格好してるの!?」


 すると一拍おいて背後から「にゃあっ!?」と悲鳴が上がった。どうやら自分がどんな格好をしていたのか、今まで頭に無かったようだ。


「し、失礼しました。お見苦しいものを……」

「うん……」


 そんなことは無いですよ。思わずそう続けそうになったが、さすがに気持ち悪いので口を噤んだ。


「これはですね、昨日の帰りに実月さんが持ってた水が零れて私の服にかかってしまいまして、それで乾かすために少しハンガーをお借りして……」

「……なんかごめんね。風邪とか引いてないかな?」

「はい、大丈夫です。実月さんがとても温かかったので……」

「……えっ?」

「あっ、ええっと、なんでもないですっ!」


 ……自分が眠っていた間に変なことをされていないだろうか? あるいは自分から変なことをしてしまったのだろうか? 双葉さんのそんな反応に薄ら寒いものが背中に走った。


「あのさ、もしかして俺、双葉さんに何か変なことしちゃったかな……?」

「……変なこと、というのは?」


 きょとんとする双葉さん。それを状況で察して欲しい所だったので返答に詰まってしまった。


「その……、酔っ払った俺が双葉さんを無理矢理連れ込んで……、なんか、むちゃくちゃにしちゃったりとか……。そんなことしてないよね?」


 おそるおそる振り返ってみると、タオルケットに包まった双葉さんの顔が真っ赤になっていた。


「あ……、えっと、そういうのは全然無かったので……。すみません。全然気がつかなくて」

「えっと、こちらこそ変なこと訊いてごめん……」


 部屋全体がすうっと静まりかえる。状況が状況なだけに仕方が無いのだが、やはり気まずい事に変わりない。その空気を察したのか、双葉さんが実月に向き直って口を開いた。


「えっと、これはですね、昨日の帰りに駅のベンチで辛そうにしている実月さんを見かけまして、ちゃんと帰れるか心配だったので、その、勝手に付いてきてしまいました。それで、部屋に着いてから実月さんがすぐ眠ってしまったので、鍵を開けっぱなしにして出て行くのもどうかと思いまして……」 


 ああ、なるほど。双葉さんの早口気味な説明は、実月にとって欠けたパズルが埋まっていくようだった。さすがに記憶を思い返すまでには至らないが、状況を理解するには十分なもので、ようやく生きた心地がするようだった。


「それより、体調の方は大丈夫ですか? 相当お酒を飲まされてましたけど」


 顔が赤いままの双葉さんが思い出したかのようにぐいっと身を乗り出してくる。その勢いに少し気圧されたが、そのタイミングで思い出したかのように頭に強烈な痛みが走り始めた。


「え、えっと、そういえばさっきから頭が痛いかも。二日酔いかな」

「それならまだまだ寝ててくださいっ」


 すると、双葉さんが自らを包むタオルケットをばっと剥ぎ取った。薄着姿を見せつけるかの如き行動に実月は戸惑ったが、そんなことお構いなしと言いたげな双葉さんによって、あれよあれよと寝かしつけられてしまった。


「動くのも辛いと思いますから、もし気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね。それに何か必要なものがありましたら買ってきます。なので、ゆっくり横になっていてくださいね」


 私に頼ってくださいと言わんばかりに目の輝かせ、ぐいぐいと迫ってくる。


「あ、うん……。分かったよ。分かったからさ……。とりあえず、服を着てくれないかな?」


 はっとする双葉さんの顔が更に赤くなった。実月の顔を覗き込むその体勢は、なだらかな胸元を覆うキャミソールに隙間が出来て、そのせいで見えてはいけないものが見えそうになっていた。


「す、すみません……」


 そそくさとベッドから降りる双葉さん。その姿を目で追うのも忍びないので、再び壁に正面を向いて目を閉じることにした。特に激しく動いたわけでは無いのに、頭痛がさっきよりひどくなったように感じるのは気のせいだろうか?

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