第24話 傘を貸すのは僕でもいい



 茂木さん、津久見さん、岡田さんの三人と飲んだ次の日、僕はいつの日かに買ったインスタントのしじみの味噌汁を啜っていた。

 なんだか、一瞬あの暴君店長もいたような気がするけれど、きっと気のせいだろう。

 アルコールの奥に沈んだ記憶を、意図的に掬い上げないようにしながら、僕はふとスマホを見てみる。

 知らない間に、連絡が来ているみたいだ。

 僕は画面のロックを解除して、返事をすることにする。


《ちゃんと家に帰れましたか?》


 岡田さんから、安否確認のメッセージが来ていた。

 そういえば昨日、帰りの途中まで岡田さんが送ってくれたはず。

 年下の女の子を送るならともかく、反対に送られるなんて、相変わらず僕は国内屈指の情けなさだな。

 心優しい岡田さんに、頼りにならない僕は短く返事をかえす。


《昨日もまた大変ご迷惑をおかけしました。ありがとうございます。しかも今回は帰り道まで送ってくださって、本当に感謝しています。よろしければぜひまた飲みましょう》


 送信してから、僕はちょっと首をひねる。

 ぜひまた飲みましょうのくだりは要らなかったかな?

 基本的に僕なんて、一緒にいて楽しい相手じゃないもんな。

 また味噌汁を一口飲むと、ラァインッ! ラァインッ! と机の上のスマホが喚き出す。


《ぜひぜひ。また飲みましょ。今度は先輩がうちのこと家まで送ってくださいね》


 岡田さんの心の広さに、思わず涙がこぼれそうになる。

 なにを食べて、どう育ったら、こんな可愛くて良い子が育つのだろう。

 社交辞令だとわかっていても、僕は嬉しくなる。

 ラァインッ! 

 僕が返事をする前に、また岡田さんからメッセージが届く。


《約束ですよ!》


《わかりました。責任を持ってお送りします》


《ならよし!》


 僕はそこまでやりとりをすると、既読だけつけてスマホをロックする。

 これ以上僕との面白味のない会話を続けても、岡田さんの負担になるだけだろうから。


 だいたい、岡田さんはバイト先まではたしか電車で通ってる。

 僕が本当に家まで送るのは、中々に難しいというか、不自然な流れだ。

 彼女の言葉を鵜呑みにして、本気で送ろうとしたら、引かれるに違いない。

 それに、僕のようなイキリカタツムリに住んでる家を知られるのは、年頃の女性にとってはいい気分になるものではないはずだからだ。


 知らぬ間に空っぽになったインスタントのしじみ味噌汁を、ゴミ箱に捨てると、僕はぼんやり窓を見る。


 こつこつと、透明なガラスを打ちつける水滴。

 今日は、雨だった。

 こういう雨の日は、いつも思い出す。

 僕が笹井ハルと初めて出会った日のことを。

 アパートの玄関口で、何か憂うような目をして、少し上をずっと見つめていた。


 あの日、笹井さんは何を見ていたのだろう。


 そんなことは、僕にはどうでもいいことだと、分かっている。

 これ以上、笹井さんのことを考えても、無駄だと理解している。

 それにも関わらず、どうしてか僕は、気づけば外に出ていた。


 冬の雨に濡らされた風が、僕の横を通り抜けていく。


 傘だけ持って、財布もスマホも持たずに外に出た僕は、そのまま階段を下りてアパートの玄関口へ行く。

 あの日、笹井さんが立っていた場所と、まったく同じ場所に立つ。

 少し上に顔を向けて、灰鼠の空を見つめる。

 視界に映るのは、大きな道路を挟んで向こう側にあるマンションだけ。

 何も面白いものは見えない。

 何も見つけられない僕は、彼女のことを想う。



『私、森山くんとは友達になれない』



 認めよう。

 僕は本当は、笹井さんと友達になりたかった。

 もっと仲良くなりたかった。

 僕みたいなチンケな人間にはもったいないほど、素晴らしい人だってわかっていたけれど、少しだけ贅沢をしてみたかった。


『森山くんの友達になる、資格がない』


 だけど今更ながらに記憶を掘り返していると、僕は違和感を見つける。

 森山くんの友達になる、資格がない。

 これは今思えば、少し奇妙な発言だ。

 それはまるで、笹井さんの方に問題があるみたいな言い方。

 僕の方に友達になる資格がないというならわかるけれど、どうして反対みたいな言い方をしたんだろう。

 せめてもの、僕への情けだろうか。


『私は君を、傷つけたくないの』


 違和感は大きくなり続ける。

 私は君を、傷つけたくないの。

 どういう意味だろう。

 僕と友達にならないことが、なぜ僕を傷つけないことに繋がるのだろうか。

 むしろ、絶縁宣言の方が、よっぽど僕の心を傷つけるのに効果的だった。


 わからない。


 やっぱり僕は、笹井さんのことを、何もわかっていない。

 もっと、笹井さんのことを、わかりたかった。


 それは、大きな後悔だった。


 僕はめったに後悔をしない。

 なぜなら、僕は僕の限界を知っているから。

 僕は僕自身に、絶望しきってしまっていたから。

 それなのに今、僕は後悔をしていた。


 歯ぎしりしてしまうような、胸を焦がす後悔の中、僕は笹井さんが見ていたものと同じ景色を、眺め続ける。


 その時、僕の視界の奥に、一人の女性が映る。

 向かい側に立つ大きなマンションの渡り廊下。

 部屋の一室から、勢いよく扉を開けて飛びだしてくる一人の女性。

 この距離からでも見間違えはしない。

 あれは、笹井さんだ。


 でも、どうして笹井さんがこんなところに?


 困惑に立ち尽くす僕は、一瞬笹井さんを見失う。

 どうやらエレベーターに乗ったらしい。

 笹井さんのことを考えていたら、本当に笹井さんが現れた。


 これは夢か?


 実は僕は、昨日酔いつぶれたまま、まだ目を覚ましていないんじゃないか?

 そんな風に僕が現実と夢との境目がわからなくなっていると、再び笹井さんが視界の中に戻ってくる。

 僕のアパートより遥かに立派なマンションエントランスを抜けて、あろうことか笹井さんはそのまま傘もささずに外に飛びだした。



 次の瞬間、僕は、走り出していた。



 僕はいったい、何をしているんだろう?

 慌てて傘を開きながら、僕は無我夢中で笹井さんを追いかける。

 だめだろ。

 止まれよ。

 僕なんかが関わっちゃいけない人なんだから。


『これから先、もし私を見つけても、決して近寄ろうとしないで』


 ほら、笹井さんにも忠告されてただろ。

 だから止まれって。

 彼女に僕は、必要ない。


 傘を貸すのは、僕じゃなくていい。


 そう分かっているのに、どうしてか足が止まらない。

 水溜まりを勢いよく踏みつけ、泥水がズボンにかかる。


 僕は走る。


 笹井さんの背中を、追い続ける。

 点滅する青信号を、全速力で駆け抜け、彼女のいる方へ。

 普段からろくに運動なんてしていないから、もうすでに息切れ。

 傘がぶれて、顔に冷たい雨粒が打ちつけられる。


 やがて、ついに僕は笹井さんの背中を捉える。


 僕の顔を見た、笹井は驚いたように、その整った容姿を歪める。



「……森山くん? なんで君が……」



 やっと追いついた。

 僕はぜえぜえと息を整えながら、笹井さんの顔を見つめる。

 雨でぐっしょりと濡れた彼女は、目を充血させている。

 涙のせいで濡れているのか、雨のせいで濡れているのか、確かめる術はない。


「だめって、言ったじゃない。これ以上私に近づいたら、君が傷つくことになる。私に君の友達になる資格はないのよ」


 まただ。


 また、変なことを、笹井さんは言う。


 違う。


 その役目は彼女のものじゃない。


 意味のわからない、変なことを言うのは、僕の方じゃないとだめなんだ。


(僕が、笹井さんに傷つけられることなんて、ありません。僕にこそ、傷つく資格がない)


「笹井さんのためなら、いくらだって傷ついたっていい。俺には、傷つく資格がある」


 止む気配のない雨の中、僕はもう一度、笹井さんに傘を差しだす。


 たぶんまた、僕の口は、僕の意思とは異なる言葉を紡ぐだろう。


 でも、今だけは、それでいい。


 僕は、それを望んでいた。


 傘を貸すのは、僕でもいい。




「傘、貸してやろう。あんたがいいなら、俺の女になれよ。俺を新しい男にすれば、もう雨に濡れる心配はなくなるぞ?」





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