第7話 この店で一番正気じゃない



 茂木さんが裏に引っ込んでしまい、お客さんもいないので、イタリアン料理屋メトロポリターノの店内には、完全な静寂が訪れる。

 店長がいる時は、あの人がその日の気分で決めるBGMが店の中にかかっているのだが、今日は店長がいないので退屈な無音だけが広がっている。


 岡田さんはもうキッチンの方には目もくれず、つまらそうな顔でスマホの画面を見つめるばかり。

 明るい性格に似合った、艶のある綺麗な茶髪。

 小動物のような雰囲気を感じさせる、愛らしい小顔。

 身長はそれほど高くないが、グレイのワイシャツの胸部が苦しそうにぱつんぱつんに張っていることもあり、そこはかとのない色気もある。


 目の保養に改めて岡田さんという美少女を眺めていたが、二歳下なのになんだか僕よりよっぽど年上に見えた。

 人生経験の差なのだろうか、それとも知性とかそういう本質的なものの差なのか、僕にはわからない。

 僕があと何年人生経験を積もうが、人として岡田さんに敵う部分が一つでもできるとは思えなかった。


 がらん、がらん、とその時、店の扉が開く音がする。


 どうやらお客さんのようだ。

 僕は無意味に蛇口を撫でるのをやめ、店内に潜り込んだ妖怪や悪霊の類に間違えられないよう、ちゃんとした店員らしく可能な限り背筋を伸ばした。


「いらっしゃいませっ! お一人様ですね……?」


 目にも留まらぬ速さでスマホを片付けた岡田さんは、一見好意満開といったような営業スマイルを咲かせる。

 しかし、入ってきたお客さんの前まで行くと、そこで珍しく声のトーンを下げた。

 岡田さんが僕以外の人に、あの低い声を出したところを初めてみる。

 僕みたいに消費期限切れのらっきょうに似たお客さんだったのだろうか。

 たしか岡田さんはらっきょうが苦手なのだ。


「よお、紀夏」


「……陽介ようすけ。なにしにきたの?」


「おい、なんだよその態度は。こっちは客だぞ?」


「……こちらの席にどうぞ」


 入ってきたお客さんは、背の高い青年で、岡田さんに似たライトブラウンの髪色をしていた。

 辺りをきょろきょろと見回しながら、青年は尊大な態度で席につく。


 たぶんだけど、僕の苦手なタイプの人間だ。

 もっとも、じゃあ得意なタイプの人間がいるんですかと訊かれたら、それはそれで回答に困ってしまうのだけれど。


 先ほど岡田さんのことを下の名前で呼んでいたようだし、知り合いのようだ。

 ただ今のところ、そこまで仲の良い気配が感じられないのがちょっと不安だった。


「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」


「おーおー、態度の悪りぃ店員だな? 二人っきりのときは、あんなに猫撫で声だったのによ?」


「……っ!」


 普段の人懐っこいにこやかな表情を潜めて、明らかな苛立ちを岡田さんは顔に浮かべている。

 なんとなくだけど、嫌な予感がした。

 まだ料理をさばききれないどころか、注文の一つも受けていないけれど、すでに僕は茂木さんを呼んできたくて仕方なかった。


「それにしてもお前のバイト先初めて来たけど、マジしけてんな。客全然いねぇーじゃん。よっぽどマズイんだろうな。潰れんじゃね?」


 うわあ。

 僕は絶望する。


 苦手なんてもんじゃない。

 同じ空気を吸うことにすら、苦しさを感じるタイプの人だ。


 こういった手合いにとって、僕は道を必死で横切ろうとしているナメクジみたいなものだ。

 遊び半分で塩をかけられればマシな方。

 彼らの気分次第では、僕はいとも簡単に再起不能な状態にまで平潰しにされてしまう。

 無自覚な攻撃性が、こちらに矛先を向ける前に、僕はさりげなくキッチンの奥に逃げる。


「あー、すいません。まずそうな飯しか載ってないメニュー表、落ちちゃったんで、拾って貰っていいすか?」


 どさ、と次の瞬間、なぜかその青年はメニュー表を手で払って床に落とした。

 一瞬、僕は意味がわからなかった。

 そして頭の残念な僕は、やっと理解する。

 この青年が憎んでいるのは、この店自体ではないということに。


「少々お待ちくださ――」


「ほら、早くしてよ。これじゃあ、注文決めらんねぇーじゃん」


 岡田さんが拾おうと屈んだ瞬間、青年は床のメニュー票を思い切り蹴とばす。

 顔には加虐的な底意地の悪い笑みを浮かべていて、きっと中世の暴君と呼ばれる類の人間はこんな表情をしていたのだろうなと思った。


「……ダッサ」


 屈もうとしていた岡田さんは、顔を上げると、見たこともない冷たい表情をしていた。

 僕が三回連続でオーダーミスをした時ですら、あんなに感情の抜けきった顔はしていなかった。


「あ? いま、なんつった?」


「マジでダサすぎでしょ。ほんと恥ずかしいわ。こんなダサい奴と、一秒でも付き合ってた自分が恥ずかしい」


 驚くべきことに、なんとこの僕の苦手なタイプの青年は、岡田さんの元カレらしい。

 やたら喧嘩腰というか、険悪な態度なのは、それが理由か。

 そういえばさっき、岡田さんの方から別れを伝えたとも言っていた気がするし、振られた恨みみたいなものがあるのかもしれない。


「おい! なんだよその言い方は! 元はといえば、お前が他の男に、媚売りまくるクソビッチなのがいけねぇんだろうが!」


「べつに媚とか売ってないし。まあ百歩譲ってうちがあんたの言うクソビッチだったとして、もう別れてるんだからどうでもよくない? 元カノのバイト先に押しかけてきて嫌がらせとか、まじでダサい。それでも男? 女々し過ぎでしょ」


「てめぇ……っ!」


 おっとおっと?

 ちょっと岡田さん、気持ちわかるけれど、そんなに鋭いカウンターで元カレボコって大丈夫?


 弱者として二十年過ごしてきたことで培われた、危険察知センターがビンビンに反応している。

 元カレの青年は、こめかみにぴくぴくと青筋を浮かせている。


 岡田さんと青年には最低でも二十センチの身長差がある。

 言葉ではいくらでも勝てても、体格差は歴然だ。

 やっぱり茂木さん呼んでこようかな。


「注文する気ないなら帰ってよ。玉ナシの元カレの相手とか、まじでどんなに時給が高くてもお断りだから――きゃっ!?」


 ブチッと、何かが切れた音が聞こえた気がした。

 青年が立ち上がり、岡田さんの二の腕を掴む。

 目は血走っていて、ふぅふぅと鼻息が危険な荒れ方をしている。


「……ぶっ殺してやる」


「ちょ、ちょっと、離してよ……っ!」


 立ち上がると青年の筋肉質な体格の良さが目立ち、岡田さんの身体が普段以上に小さく見える。

 さっきまであれほど強気に口撃していた岡田さんも、身の危険を感じているのか、先ほどまでの勢いは萎んでしまっている。


「俺に謝れ。今ならまだ許してやる。ちゃんと謝れば、俺の彼女に戻してやるよ」


「は? なに言ってんの? あんたの彼女になんて誰が戻るかっつの」


「うるせぇ! いいから早く謝れよっ!」


「……うぅ、痛いから。離してってば……」


 これはやばい。

 完全にやばい。

 一触即発というか、もう一触しているし、暴発しまくりだ。


 茂木さんを急いで呼ぶか?

 いや、でも、この状態の岡田さんを置いて、裏に行くのは気が引ける。


 となれば、僕が生贄になるか?

 もちろん、僕みたいなクソザコナメクジ便所飯が、あんなアスリート体型の青年に敵うわけはない。

 なので、ここはちゃんとした大人である茂木さん呼んでもらうのがベスト。

 つまりは、岡田さんではなく僕が青年の相手をして、僕がボコられている隙に、岡田さんに茂木さんを呼んできてもらうという作戦だ。


「ほら、早く謝れよ」


「…ぐずっ……わかった…謝るから……」


 僕の瞳に映る、涙を浮かべた岡田さん。

 

 次の瞬間、僕の身体は勝手に動いていた。


 いつもより、やや敏捷に動く身体。


 突然出てきた落花生のなりそこないみたいな奴に驚いたのか、岡田さんと元カレの青年の二人ともが驚愕に顔を歪めた。


「あ? 誰だお前?」


「え? 森山先輩?」


 岡田さんは心配そうに、元カレの青年は不審そうに、僕を見つめる。

 僕は深呼吸をして、震えてガチガチと歯が鳴ってうるさい口を、頑張って制御する。


 大丈夫、喧嘩をしようってわけじゃないんだ。

 冷静に、話せばわかるさ。


 相手だって僕と同じ人間だ。

 今は興奮状態で、一時的に正気を失っているだけだ。

 落ち着かせて、一旦冷静になってもらおう。



(うちの店員に乱暴はやめてください。話し合いましょう)



「俺の女に手を出すな。話なら俺が聞く」



 アハハ!


 ハーイ!


 この店で一番正気じゃないのは僕でーす!




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