第6話 基本的にバイト先の人たちのことを何も知らない
結局昨日は、ほとんど寝れなかった。
欠伸を噛み殺しながら、今すぐ家に帰って眠りこけたいなあと内心でぼやく。
憂鬱な気持ちで、僕は通っている大学近くの雑居ビルの前に立っている。
これからバイトの時間だ。
不安過ぎて、若干吐きそうだ。
それでも時間は容赦なく出勤時間に迫っていく。
僕は全てを諦めてビルを上がっていく。
“メトロポリターノ”
二菱ビルとかいう名前の雑居ビルの三階に、僕のバイト先のイタリアン料理屋がある。
薄暗い店舗と、微妙に入店しにくい立地のため、客足はそれほどよくない。
準備中と書かれた板のかかった扉を開け、がらんがらんと音を鳴らす。
暖色のダウンライトで照らされた店内では、髭面でロン毛のベーシストみたいな顔をしたワイルド系イケメンが一人だけいて、カウンターに寄り掛かかってスマホを弄っている。
「(茂木さん、おはようございます)茂木さん、おはようっす」
「んあ? ああ、森山くんか。おはよう」
このワイルド系イケメンは
店長以外の唯一の正社員で、茂木さん以外は僕も含めてアルバイトしかいない。
といっても、茂木さん自体も本業は別にあるという噂を聞いたことがある。
僕はお店の人とほとんどプライベートの会話をしたことがないので、よく知らないけれど。
壁にかかっている今日の夜シフトを確認してみると、僕と茂木さんと、あともう一人岡田さんという女の子の三人体制で今日はやるらしい。
悪くないメンバーだ。
とくにあの暴君店長がいないのがありがたい。
あの人は唯一このバイト先で、特に用もないのに僕に話しかけてくる存在だから、非常に危険なのだ。
それに特別短気というわけではないが、謎のタイミングで機嫌が悪くなるので、それも怖い。
とにかく店長がいなくて一安心だ。
とりあえず今日は、僕の奇病が周囲にバれることは防げそうだ。
「おはようございまーす!」
「おう、紀夏ちゃん。おはよ」
「悟さーん! 今日もイケメンですね!」
「はいはい、ありがとさん。紀夏ちゃんも可愛いね」
「茂木さんめっちゃ棒読みじゃないですか! ひどーい! でも、そこがまたカッコイイ!」
「そりゃどうも」
元気よくきゃぴきゃぴと店内に入ってきたのは、明るい茶髪のショートカットの美少女。
彼女は
たしか大学一年生のはず。
しかも僕とは違って、けっこう偏差値高めの大学に通っていた気がする。
学年的には僕の一つ下で、バイト歴も同じ一年違いだけれど、僕は一浪してるので年齢は二つ差だ。
「あ、森山先輩もおはようございます」
「(おはようございます)おはようっす」
「え? なんかいつもと……いや、まあ、いっか」
茂木さんに対するものに比べて、明らかに低めのテンションで岡田さんは、一応僕にも挨拶をしてくれる。
若干不審そうな顔で僕を見ていたが、すぐに興味を失ったのかバックヤードの方に消えていった。
ホール担当は店指定のグレイのシャツが用意されているので、それに着替えに行ったのだろう。
それにしても、さすがに今の一瞬でバレるなんてことないよな?
岡田さんは、なんとなく地頭が良いというか、観察眼に優れてるところがあるので、要注意かもしれない。
もっとも、普段通りなら、僕が岡田さんと会話するのはこのおはようございますと、帰りのお疲れ様ですくらいなのだけれど。
その後はいつも通り、カジュアルな感じのコックコートを着て、開店準備作業に勤しむ。
すぐに開店の時間がやってくるが、お客さんはぽつぽつとやってくるだけで、繁盛とは程遠かった。
「悟さん。暇ですね。お話しましょ」
「いや、俺はソシャゲで忙しいから」
「は? この可愛らしい現役JDとのお喋りより、その流行り終わったスマホゲームを優先するんですか?」
「悪いな。俺は女もゲームも若いのは苦手なんだ」
「悟さんつれないなあ。てか悟さんって彼女いるんですか?」
「いるって言ってるだろ。何回きいてくんだよ」
「えへへ、そろそろ別れたかなって思って。といかそもそも、彼女いるっていうのほんとなんですか? うちのことが面倒だから、テキトー言ってません?」
「言ってねぇよ。まじだってまじ」
「じゃあ、悟さんの彼女さんの写真みせてください」
「それは断る」
「ほらあ! いっつもそうじゃないですかー! 絶対みせてくれないし! 架空の彼女でしょ。妄想彼女」
「妄想彼女はやべぇだろ。そんなクソカッコ悪い見栄張らねぇから」
「じゃあ、いいじゃないですか。写真の一つや二つ。あ、動画でもいいですよ」
「写真がだめで動画が良いわけないだろ」
「悟さんのけちぃ」
ちょうど店内からまた、客が一人もいない状態になったので、岡田さんが茂木さんにちょっかいをかけ始めた。
すでに皿洗いも終わっているので、特にやることがない。
茂木さんは勤務中なのに、普通にスマホを取り出して、何やら画面をペタペタと触っていた。
店長がいれば面倒なことになる光景だけれど、幸い店長は今日はいないので、茂木さんを咎められる立場の人はいない。
「そういう紀夏ちゃんはどうなん? 彼氏とは上手くやってんの?」
「あ、それきいちゃいます?」
「そりゃ流れ的にきくだろ。普通に考えて」
「実は別れました」
「は? まじで?」
「まじまじ」
完全に置物か観葉植物のような扱いになっている僕を取り残して、二人は会話を続ける。
ちなみに僕は、岡田さんに彼氏がいたことすら知らなかった。
僕は基本的にこのバイト先の人たちのことを何も知らない。
「なんで? つかどっちから振ったの?」
「うちからです。なんか、色々合わなくて」
「へえ~。そっかぁ~」
「もう、なんですかその顔ー。ムカつくー」
「悪い悪い。でもなんか、紀夏ちゃんって、そんな感じするわ」
「そんな感じ? どういう感じですか?」
「彼氏と長続きしなそうなタイプ」
「うっわ。さいてい。悟さんさいてい。彼氏と別れたばっかの女の子に、ふつうそんなこと言います?」
「あはは。うけんな」
「なに笑ってんだ。傷つきました。責任とってください」
「悪い。俺、彼女いるから。紀夏ちゃんを慰めると、彼女が妬いちゃうんでね」
「もう! まじムカつくんだけど!」
口ではムカつくとか言いながら、岡田さんは楽しそうだし、険悪な雰囲気はまったくない。
すごいな。
これがイケメンと美少女の会話というものか。
彼氏と別れて、それを軽くいじられるような会話ですら、こんな和やかにこなせるなんて。
僕は圧倒的コミュ力の壁を感じて、今すぐ口を縫って東京湾に沈みたい気持ちになった。
「あ、つかスマホの充電切れそう。……森山くん、俺、ちょっと裏行ってくるわ。しばらくキッチンよろしく。もしお客さんさばき切れなそうだったら呼んで」
「(あ、はい。わ、わかりました)はい。わかりました」
「えぇ? 悟さんサボりですか? それでもほんとに社会人?」
「これが社会人の特権だよ。時給だけで働いてる君らとは違うんだ」
「意味わかんなーい。さぼり社会人意味わかんなーい」
「うるさいな。すぐ戻ってくるって」
「はやく戻って来てくださいよ。悟さんいないと暇すぎてうち死んじゃう」
「安心しろ。葬式は出てやるから」
「まじ悟さんうちのこと舐めてる。あんまりうちに意地悪すると、店長にチクりますよ」
「おい! それだけはやめろ! わかった! そのうちなんか奢るから!」
「いぇーい! さっすが悟さん。イケメン社会人は違うなあ。あ、うち、ちょうど行ってみたいお店あるんで、よろしくでーす」
「あんまり高いところはやめてくれよ」
「わかってますって。うち、そういう気遣いできる女なんで」
「腹黒怖ぇ」
「したたか、と言ってください」
もう一度店内の方をざっと見渡し、お客さんが来る気配がないことを確認すると、言っていた通り、茂木さんはバックヤードに戻っていった。
カウンターに肘をついていた岡田さんは、茂木さんがいなくなったので、離れて行く。
やることのない僕は、黙ってキッチンの蛇口を触ったり触らなかったりしていた。
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