第5話 接客に回らないようにするしかない
自分の部屋に戻って、トイレットペーパーを洗面所に置くと、僕はとりあえず鏡の前に立つ。
今風のインディーズバンドのボーカルみたいな、美容師さんにはマッシュと頼んだはずの坊ちゃん刈りヘアー。
味気のない一重瞼に、やや分厚い唇。
覇気の感じられない、全体に気怠い雰囲気。
見た目は今のところ、どっからどう見ても、前から知る僕こと
見た目は同じで、中身も同じ。
とくに内なる声とかが聴こえるわけでもない。
一見、正気を保っている。
でも、実際には頭がおかしくなっているのだ。
どうして口から出る言葉が、まったくの別人のようなものになってしまうのだろう。
さっきの美人さんは凄い良い人だったから助かったけれど、どう考えてもこれは死活問題。
このままではまともに生きていける気がしない。
僕みたいキモ男が、あんなイキリ散らした発言を連発していたら、滑稽なんてもんで収まればいい方だ。
鏡を見つめ、これから日々の対策を練るために、実験を行うことにする。
(あいうえお)
「あいうえお」
今のところ普通に喋れている、
僕の意思とまったく違うことを口走ってしまうわけではないらしい。
(こんにちは)
「こんにちは」
鏡の中の僕が、普通に挨拶の言葉を喋る。
まだ大丈夫なようだ。
挨拶程度ならこれまで通りにしていけるようで、それにはちょっと安心する。
(僕の名前は森山伊秋です)
「俺の名前は森山伊秋です」
案外大丈夫だな。
いや、待てよ?
なんか微妙に今、雰囲気が変わった気がする。
どこか聞き逃したかな。
僕は実験を続ける。
(僕は本当に根っからの駄目人間です)
「俺は本当に根っからの完璧人間です」
はいきた!
これだよこれ!
ついに正体を現したな!
腐った水茄子みたいな顔して、何言ってるんだこいつは。
自分のことを駄目人間と言ったはずなのに、なぜか完璧人間に変換されている。
本当に勘弁してくれ。
なんでそうなるんだ。
(どうして言っていることが勝手に変わるんですか?)
「どうして言っていることが勝手に変わるんだ?」
自分に話しかけても、べつに違う答えが返ってきはしない。
二重人格者みたいに、僕の中に別人格が生まれているわけではないようだ。
あくまで僕が言おうとした言葉のまま、口調や言い回しが過剰に尖ったものに変換されてしまう、ということらしい。
僕は眩暈を覚え、頭を抱える。
これはいったいどうしたものか。
挨拶などのスタンダードなものなら大丈夫だけれど、僕の考えや感情を示すような言葉になると、急にわけのわからないオラついた種類のものに強制的に変換させられてしまう。
不便だ。
不便すぎる。
これではろくに日常会話もこなせない。
もっとも悲しいかな、僕にはろくに友人もいないし、今は一人暮らしなので、めったに他人と会話する機会はないのだけれど。
大学生活には今のところ、差し迫った問題はそこまでない。
友達いないし、サークルの類にも入っていない、純粋培養のぼっちだし、講義中に発言をするような性格も頭脳も持ち合わせていない。
ただ、唯一気掛かりなことがあった。
それはバイトだ。
奨学金だけで生活費を賄うのはとても大変なので、僕は週に四か五でアルバイトをしている。
あまり人の来ないイタリアンレストランで、僕はバイトをしていた。
基本的にはキッチン担当なので、ほとんど言葉を発することはないし、バイト先の飲み会も全て欠席するというか、そもそも誘われないので困らない。
ただ、そこまで大きなお店ではないので、突発的にホールを任されることがあるのだ。
それはやばい。
どう考えてもやばい。
あの頭がオッパッピーしてるとしか思えない口調で、接客なんてしたら、客と店長両方から怒号が飛んでくるに決まっている。
うちのバイト先の店長は結構怒ると怖いのだ。
それに下手をしたら、辞めさせられてしまうかもしれない。
根本的に対人コミュニケーションに難のある僕が、まともに仕事をこなせる場所はそう多くない。
というか普通に、バイトの面接でこれまで何度も落ちてきている経験(コンビニのバイトすら落ちた)があるので、また一からバイト先を探すのはつらすぎる。
あぁ、どうしよう。
なんかお腹痛くなってきた。
幸いバイト中にこの奇病が発覚したわけではなく、事前にこうやって対策を練ることができるのは、不幸中の幸いだけれど、それでもしんどい。
とにかく、ありとあらゆる手を使って、接客に回らないようにするしかない。
なんで僕がこんな目に合わなくちゃいけないんだ。
明日にはもうバイトだ。
眠ったら恐怖の明日が来てしまう。
今夜は中々寝付けなさそうだった。
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