第4話 寛大な美人さんは僕を通報しない
ちょっと待ってくれ。
いったいなにがどうなっているんだ。
完全にパニック状態になった僕は、思わず硬直してしまう。
敵意のこもった視線で僕を睨む美人さんとの間に、なんともいえない無言の空間が広がる。
(どういうつもりというか、僕はただ善意で傘を貸そうと思っただけで)
「どういうつもりもない。あんたを喜ばせようと思って傘を貸そうと申し出ただけだ」
おい! 誰だよ! いや僕なんだけど!
いったいなんなんだこのおらついた俺様口調は。
異常事態だ。
僕は混乱を超えて、恐怖に飲み込まれそうになる。
「……そこじゃなくて、俺の女になれとかなんとか言ってたでしょ」
「(すいません、そんなこと言ったつもりはないんです。ちょっと何かの間違いで)すまんな。そんなこと言ったか? もしそう聴こえたなら、それはあんたがそう望んでるんじゃないか?」
やばい。
やばすぎる。
喋れば喋るほど、頭が完璧パァーンしているとしか思えない発言が飛び出てくる。
初対面の相手に対して、俺の女になれってなんだよ。
花より団子な御曹司でもあるまいし。
「……もしかして君、頭がおかしいの?」
「(はい。たぶんおかしいんだと思います)そうだな。俺がおかしいというよりは、俺以外のおかしい奴らからすれば、まともな俺がおかしく見えるんだろう」
だめだこいつ。早くなんとかしないと
イカレ百パーセントだ。
手に持っているのが傘とトイレットペーパーじゃなかったら、下手をすれば自決しているレベルの羞恥だ。
というより、もうあと数分後には通報を受けて、お縄になってるんじゃないかな。
ろくな人生じゃないと思っていたけれど、こんな恥ずかしい社会的な最期を迎えるなんて。
「……ふっ、君、面白いわね」
「(え? すいません。どこがですか?)どうした? 俺が面白いってことに今更気づいたのか?」
白と黒のモノクロ車に連れ去られる時を覚悟していたが、なぜかその美人さんは思わずといった感じで笑う。
いったいどこに笑うポイントがあったのか、さっぱりわからない。
それとも美人さんは嘲笑う時ですら、今みたいに上品で毒気のない感じを出せるのだろうか。
「そうね。ちょっと君の面白さを理解するのに時間がかかったわ」
「(なんか、すいません。ありがとうございます)やるな。俺の面白さに気づくとは、悪くないセンスだ。センスのいい人間に会えるとは、さすが俺、今日もツイてる」
この美人さんからすれば、最高に運の悪い日だ。
こんなセンスの概念をよくわかっていない奴に出会うなんて、運が悪すぎて可哀想に思える。
「とりあえず、傘を貸してくれるってことでいいのよね?」
「(はい。もちろんです。あなたみたいな綺麗なお方に使って頂いた方が、傘も喜びます)ああ、もちろんだ。あんたみたいな美しい人に傘を貸せるなんて、実に光栄なことさ」
「……お喋りな人ね」
ほんとだよ。
誰の許可でなにをぺらぺらと喋ってんだこのキモ男は。
さすがの僕でも自傷癖はなかったはずなのに、無性に今すぐ自分のことを殴りたかった。
「なら、ありがたく借りていくわ。ありがとう」
「(いえいえ、こちらこそ寛大にご容赦して頂いてありがとうございます)いや、こちらこそありがたい。あんたとの出会いに感謝だ」
「ふふっ、それじゃあ、またね。頭のちょっとおかしな傘の少年」
僕が手渡したビニール傘を受け取ると、寛大な美人さんは雨の中を去って行く。
ちょっとというかだいぶ頭がおかしい僕を通報しないでいてくれるなんて、なんて優しいんだろう。
それにしても、これは大きな問題だ。
僕は頭を抱え、どうしてこうなったのかと、この先どうすればいいんだと、絶望に打ちひしがれながらトイレットペーパーだけを持って自分の部屋に帰るのだった。
―――――
私は雨宿りをしているわけではなかった。
見知らぬおかしな、そしてちょっと面白い少年から借りた傘をさしながら、私は肌寒い雨夜を歩く。
『傘、貸しましょうか?』
『いえ、大丈夫です』
『車で送って行こうか?』
『いえ、けっこうです』
私に声をかけてくれた人は多くいたけれど、その助けの言葉を全て私は断っていた。
なぜなら目的は別にあったから。
私は雨から身を守っていたのではなく、どうしてもここに立って見るべきものがあったのだ。
大きな道路を挟んで、アパートの向こう側にあるマンション。
そこの一室に、私が今付き合っている彼氏が住んでいる。
最近用事が多いと口にして、中々会ってくれなくなっている、私の彼氏。
とある疑念を抱いた私は、そんな彼氏の部屋を見つめていた。
恥を忍んで何時間もそうすることで、ついに私は知りたかったと同時に、知りたくなかったものを知る。
マンションの廊下を歩く、私の彼氏。
そしてそのすぐ後ろをついていく、見知らぬ女。
彼氏が自分の部屋に入ると、それに続くようにして、その見知らぬ女も部屋に入っていく。
雨で霞む視界の中でも、私にはよく視えていた。
それからどれくらい、呆然とそこに立っていたのかしら。
やたらと雨に濡れたい気分だった。
でも、そんな私に声をかける人がいた。
『傘、貸してやろう。あんたがいいなら俺の女になれよ。俺を新しい男にすれば、もう濡れる心配はなくなるぞ?』
今思い出しても、馬鹿みたいな台詞。
たぶんちょっと頭がおかしい人。
だけど少しだけ笑える人。
俺を新しい男にすれば、もう濡れる心配はなくなる、ね。
どこまでわかって言っていたのかしら。
名前を聞き忘れたことをほんのちょっと後悔する私は、思い出し笑いをしながら、どうやってこの借りた傘を返そうか考えていた。
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