第3話 傘を貸すのは僕じゃなくてもいい
家に帰ると、濡れ切った靴下を脱いで、洗濯ものカゴに放り込む。
まだ夕飯には少し早いけれど、僕は部屋着に着替えると味噌汁をつくるために、ポッドでお湯を沸かせることにする。
まとめ買いしてある即席ご飯と、ちょうど今買ってきたお惣菜をまとめて電子レンジに放り込み、テレビをつける。
画面表示切替を行い、ゲーム機を使ってテレビ画面にYoutubeを映し、お気に入りのお笑い芸人のコント動画を流しておいた。
(はは。やっぱ面白いなこのコンビ。僕みたいなつまらない人間でも、笑わせてくれる)
「ははっ。面白いじゃないか。ユーモアを愛しユーモアに愛されしこの俺を笑わせるなんて、中々見どころのあるコンビだ」
囁くような小声でぶつぶつと、いつものように独り言を呟く。
きっとこういうところも陰気な性格の一因の気がするけれど、癖なのでやめられない。
それにしても、なんかいま、ちょっと変な感じしたな。
頭の中に浮かべた言葉と、実際に口にした言葉が違うような。
いやでも、そんなわけないか。
さすがの僕も、そこまで頭がおかしくなってるはずないもんな。
やがてレンジのチンという音が聞こえ、僕はいそいそとちゃぶ台に晩飯を並べる。
動画を自動再生にしたまま、僕は味わうこともせず、豚とピーマンとエビを米にバウンドさせては、むしゃむしゃとご飯を掻き込んだ。
作り置きの酢豚とエビチリの濃すぎる味付けは、白米でも打ち消せず、僕はなめこの味噌汁で中和させる。
香ばしい味噌の香りが鼻を抜け、口の中には僅かに酢豚と甘辛い風味が残っていた。
(ご馳走様でした)
「ご馳走でした」
一人の時はいつも、いただきますは言わないくせに、なぜかご馳走でしたは自然と口にしてしまう。
だけど、やっぱりちゃんと僕の言おうとしたことと、実際に言ってることは一致しているな。
まあ、当たり前なんだけど、ちょっと安心した。
自らの正気を確認した僕は、用を足そうとトイレに向かう。
あ、待てよ。
トイレの扉を開けるところまでいって、僕はやっと思い出す。
そういえばトイレットペーパーを切らしていたんだった。
スーパーを出る時に、何か忘れていたような気がしたけれど、これだ。
自分の頭の弱さにほとほと嫌気がさす。
いつ急な便意が来るかもわからないし、雨の中嫌だけど、また外に出るしかない。
自分自身にうんざりしながら、僕は部屋着のズボンだけ履き替え、あとはアウトドアジャンパーを羽織って、玄関の扉をあける。
外はまだ雨模様のままで、むしろ勢いが強くなっているようだった。
折り畳み傘ではなく、ビニール傘の方を手に取り、そのまま通路に出る。
近くのドラッグストアを目指して、僕はアパートの階段を下りていった。
あれ?
すると、アパートの入り口に家に帰る時に見かけた美人さんがいた。
あの人、まだいたのか。
思慮深そうな瞳を、少し上目に向けて、きつく桃色の唇を結んでいる。
これはもしかして、雨宿りで困っているのだろうか。
傘とか、貸した方がいいかな。
でも待てよ。
僕みたいなキモメンがあんな若くて綺麗な人に声をかけるとか、さすがに事案すぎるか。
あれだけ容姿が整っていれば、僕以外の誰かが傘の一つや二つくらい、貸すだろう。
べつに、僕じゃなくて、いいよな。
傘を貸すのは僕じゃなくてもいい。
僕如きが、変に親切心を出しても、迷惑がられるか不審がられるだけだ。
親切心っていうのは、他人に優しくする最低限の資格がある人にだけ許されているんだ。
こそこそと、僕という存在が認識される前にと、十分な距離をとって素早く美人さんの横を通り抜ける。
さすがに僕がドラッグストアでトイレペーパーを買いに行って戻ってくる間に、見かねた誰かが彼女に助け船を出すはずだ。
いつもより遠回りして、たっぷりと時間をかけてドラッグストアに向かう。
なるべく信号に捕まるようにしながら、僕は最寄りより一つぶん遠いドラッグストアに辿り着いた。
買う気がさらさらない滋養強壮ドリンクをじっくりと眺めてから、やっとトイレットペーパーを購入する。
念には念を入れて、僕は帰り道は行きよりもっと遠回りをする。
ぐるりと、家の周囲に正方形をかくように無駄な距離を歩いて、僕は築何十年のアパートまで戻ってきた。
嘘だろ。最悪だ。
しかし、僕のそんな努力も虚しく、例の美人さんはいまだにアパートの前に立っていた。
僕は絶望する。
これはさすがに、そろそろ傘貸しましょうかの一言ぐらいかけないと、僕のなけなしの良心が痛む。
なんで誰も傘貸さないんだよ。
あれだけ綺麗な人なんだから、普通はもっと下心ありありの若い男たちが、無意味にちやほや世話を焼きたがるはずなのに。
無駄に歩き回ったせいで、だいぶ疲れていて、僕は判断力が鈍っているのを感じた。
仕方ない。声をかけよう。
僕は決心する。
この鈍った判断力の勢いそのままに、あの美人さんに傘貸しましょうかと声をかけるのだ。
苦渋の決断だけれど、ここまできたら仕方がない。
なに。そんなに難しいことじゃない。
傘、貸しましょうか。
たった一言だ。息継ぎもいらない。
もし断られたら、そのまま通り過ぎればいいだけだ。
貸して欲しいと言われたら、傘を渡して部屋に帰ればいいだけ。
今は折り畳み傘じゃなくて、ビニール傘だし、後日返してもらうほどのものじゃない。
よしいけるぞ。シミュレーションは完璧だ。
不審な感じが出ないように、変に歩く速度が落ちないよう気をつけながら、アパートの玄関口に段々と近づいていく。
いまだ少し上を眺める美人さんは、まだ僕の方を見る気配はない。
あ、やばい。緊張してきた。
僕は吐きそうになりながら、えづきを抑えて歩き続ける。
平常心だ。平常心。
べつにナンパとかをしようってわけじゃないんだ。
ただ、傘貸しますか、と一言言うだけ。
簡単簡単。大丈夫だ。頑張れ僕。
そしてとうとうアパートの玄関口に辿り着き、僕は傘を畳みながら立ち止まった。
ああ、もう立ち止まってしまった。
これはもう逃げられない。
今すぐ首を吊りたい気持ちでいっぱいだけれど、もう少し先に我慢しよう。
立ち止まった僕を不気味がったのか、ついに美人さんが僕の方へ顔だけを向ける。
僕を射抜く、冷たい眼光。
息が止まる。
今すぐダッシュで部屋に帰りたいが、そんなことしたら本当に不審者だ。
本気で通報されるかもしれない。
僕は恐怖をぐっと、抑え込み、おずおずと用意しておいた声をかける。
(あの、傘、貸しましょうか? そちらがよろしければ、どうぞ使ってください。僕なんかの傘だと、その、心配かもしれませんが、新品なので雨漏りとかしませんよ?)
「傘、貸してやろう。あんたがいいなら、俺の女になれよ。俺を新しい男にすれば、もう雨に濡れる心配はなくなるぞ?」
よし、言えたぞ……ってん? あれ?
ここまでずっと無表情だった美人さんが、目を大きくして驚いている。
なんだろう。
すごい嫌な予感がする。
そして困惑、或いは不愉快そうな表情をして、美人さんは僕を睨みつけた。
「……は? いきなりなに? 君、どういうつもり?」
なんとなくだけど、僕は悟る。
たぶん、冗談ではなく本気で首を吊る必要が出てきたのだと。
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