第6話 感謝しても感謝しきれない
訴訟だ。
これは絶対に訴訟に決まってる。
笹井さんに呼び出しを受けた日の夜。
僕は恐怖で全身をぶるぶると震わせていた。
聞くところによると、どうやら今晩、僕と少し飲みたいらしい。
しかも話の流れから察するに、僕以外に他の誰一人こないようだ。
つまりは、あの笹井さんとサシ飲み。
これはもう、訴訟以外考えられない。
これまで僕は、笹井さんに何度イキったかわからない。
セクハラはもちろんのこと、ある意味ではパワハラもしている気がするし、なんなら僕という存在自体がストレスになっているモリヤマハラスメントか何かを受けていても不思議ではない。
まだ夜になると少しばかり肌寒い上野の街で、僕はついに来てしまった断罪の時を今か今かと待ち構えていた。
「……まだ約束の十五分も前なのに。早いのね、森山くん」
すると、スマホで示談金についてネット検索していた僕に、どこかくたびれた声がかかる。
そこにいたのは、お手本のような八頭身で、枝毛一つない黒髪を背中に流し、聡明さが一目瞭然でわかる瞳をした、凛々しい美人。
黒のワイシャツにグレーのアンクルパンツを履くその女性は、まさに今日僕を無期懲役へといざなう笹井さんその人だった。
(いえいえ、たまたまですよ。さっききたばかりですし、全然早くないです)
「早くはないさ。この世界の時間は全て、僕の心臓の鼓動を基準に決められているからな。常に僕は時間ぴったりさ」
「そう。それならよかったわ」
さすがに出会ってから何ヵ月も経っているということもあって、笹井さんのスルースキルは天下一品だ。
こんな会話早々、意図不明理解不能な言葉を連発する僕を、毛ほども気にしていない。
ありがたい限りだ。
笹井さんになら、訴訟されてもおつりがくることだろう。
「とりあえず、行きましょうか」
「(あ、はい)ああ、無論だ」
左足首につけられたアンクレットを揺らして、そして笹井さんは言葉少なげに歩きだす。
なんだろう。
僕はそんな笹井さんに、僅かな違和感を感じ取った。
怒っているとか、不機嫌とか、そういうわけではなく、なんとなく、疲れている気がした。
今日はたしか、バイトの日だったから、そのせいだろうか。
そういえば、今日は他にも何かあったような気がしたけれど、上手く思い出せない。
笹井さんと二人で飲むというイベントがあまりにも大きすぎて、他のことを全て忘れ去ってしまったみたいだ。
「海鮮は食べれるわよね?」
「(海鮮、全然いけます)海は僕から生まれた」
「じゃあ、ちょっと行ってみたいお店があるから、そこに行くわね」
待ち合わせ場所だった上野公園の噴水から離れて、笹井さんは駅前の信号を渡って、アーケードとは反対の方の道へ向かっていく。
御徒町方面につながる商店街側とは違って、北側は若干人通りが減ったような気がしなくもない。
その後特に口を開かない笹井さんに着いていくこと五分ほど、丸太風の看板に大きく“タコショップ”と書かれた店の前につく。
独特なネーミング過ぎて、一瞬わからなかったけれど、どうやらここは居酒屋らしい。
「ここよ」
ガラガラと、心地良い音を立てて、小さな扉を開くと、外側から見るより広く見える店内から、一気に喧騒があふれ出す。
イレッシャアセェ! という威勢の良い声に迎えられ、僕と笹井さんはそのまま奥の席に案内された。
筆で書かれたメニューが壁のいたるところに貼られていて、店の中央辺りにはプールがあって、そこでは深紫の軟体をぶよぶよと揺らすタコが何匹も泳いでいた。
最初の一杯目。
僕は中ジョッキを注文し、笹井さんはトウキビハイなるものを頼んでいた。
「今日はありがとね。急に誘ったのに、来てくれて嬉しいわ」
「(こちらこそ、誘って頂いて、ありがとうございます)こちらこそ感謝する。招待状はいつでも大歓迎だ」
やがて運ばれてくる、二つのグラス。
どことなく笹井さんは、やはり神妙な雰囲気だ。
やはり、訴訟なのだろうか。
「(でも、どうして僕を? 謝らなければならないことがあるのなら、遠慮なく教えてください)しかし、不思議だな。わざわざ僕との出会いに感謝するために誘ったわけじゃないだろう?」
「そうね。ちょっと。人生相談みたいな感じかしらね。それに、君と話すのは、楽しいから」
「(人生相談ですか。僕でその期待に応えられるか不安ですね)生きる上での助言が欲しいというわけか。それならたしかに、声をかけるのに僕より相応しい奴はいないな」
だが僕が裁判用にスーツを買わなくてはいけないのではないかという杞憂とは裏腹に、笹井さんはなんと、僕に人生相談をするつもりらしい。
それは、ある意味訴訟よりもよっぽど怖いものだった。
僕みたいなウィンドウズサーフェスよりも薄い人生しか過ごしてきてない奴が、いったい何を語れるというのか。
「まあ、なにはともあれ、乾杯しましょ」
「(あ、はい、そうですね。乾杯です)そうだな、祝杯を掲げるか」
こつんと、控えめに互いのグラスを合わせ、僕は一気にビールを喉に流し込む。
突き抜けるような炭酸が、喉から鼻をかけて吹き通る。
仄かに香る苦味。
麦から生まれた潤いが全身を満たしていく。
「なにか、注文したいの、ある?」
「(じゃあ、タコわさで)タコわさが、こっちを見てるな」
「タコわさね。あとはタコの唐揚げと、タコチップスとタコサラダもいい? あ、タコの刺身を忘れてたわ。これもいいわよね?」
「(もちろん、いいですよ)答えは、イエスだ」
左耳につけた小さなイヤリング。
それを指先で軽く触りながら、注文を終えた後、笹井さんは小さな口でトウキビハイを啜った。
「こうやって君と二人で飲むのは、なんだかんだで初めてよね」
アルコールが身体に出やすいのか、二口、三口飲んだだけで、笹井さんの顔は薄らと紅く色づく。
どこか感慨深そうな表情で、彼女は僕をぼんやりと見つめていた。
「なんか。思い出すわ。そういえば、君と二人でお蕎麦を食べに行ったことがあったわよね。覚えてる?」
「(もちろん、覚えてますよ。そんなに昔のことでもありませんし)当然だ。笹井さんとの思い出を、一つして忘れることはないさ。二人で蕎麦を喜ばせてやった日のことだろう」
「そう。その日よ。あの時はまさか、こうやって君と同じアルバイトをして、二人でお酒を飲む日がくるなんて、夢にも思わなかった」
まずタコサラダとタコわさが運ばれてくる。
僕はタコわさに箸を伸ばす。
ぴりりとした刺激と、肉厚なタコの弾力。
噛めば噛むほど旨味が溢れてきて、わさびのほど良い辛みが、酒を進ませる。
そして、その目の前では、左手首にミサンガをつけた笹井さんが、頬を緩ませている。
こんな日が来るとは夢には思わなかったのは、僕の方だ。
僕はきっと、救われている。
灰色で、孤独で、希望も何もなかった僕の世界を、美しく、華やかに色づけてくれたのは、たぶん笹井さんだ。
彼女と出会っていなかったら、僕は今もただ無意味で無価値なポジティブ発言を繰り返す、ただの不審人物だったはず。
僕は笹井さんに、感謝しても、しきれないんだ。
「(笹井さん、改めて、本当にありがとうございます)感謝するよ、笹井さん」
「なんのことかしら?」
「(笹井さんと出会ってから、僕は本当に救われてます)笹井さんとの出会いは、僕にとってのハイライトだ。僕を救う側になれるのは、君だけさ」
「……はぁ。君は本当に……」
こんなモブで陰気なタコの頭皮みたいな顔をした奴に感謝されても、困るだけか。
僕は押しつけがましい好意を隠すように、グラスの残りを一気に飲み干して、次はハイボールを頼んだ。
苦笑いをする笹井さんもまた、僕に合わせるようにトウキビハイを空っぽにして、また同じものを注文する。
「……人生相談をするには、まだ酔いが足りなさそうね」
ほどなくして運ばれ来た二杯目を何度か傾けると、笹井さんの耳まで赤くなる。
タコチップスとタコの唐揚げが運ばれ来ても、彼女は楽しそうに微笑むだけで、まだ僕に人生を相談しようとはしなかった。
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