第7話 きっと桜は見れない



 私が森山くんを飲みに誘った次の日に、あの子に出会ったのは、ある意味、運命のようなものだったのかもしれないと、アルコールで極彩色に染まった頭の中でふと思う。

 とっくに料理は食べ終えた私たちは、それでもまだ席を立つことなく、ドリンクだけを何度も頼み直し続けている。

 それほどお酒に強くないのか、いつものポーカーフェイスを少しだけ柔らかい雰囲気にする森山くんの顔を眺めながら、もはや何杯目かわからないトウキビハイを私は飲む。


「少し、飲みすぎたかもしれないわね」

「飲んで、飲まれて、飲まされて。笹井さんに僕は溺れそうだよ」

「私じゃなくて、お酒に溺れてるだけよそれは」


 いちいち反応していたらきりがないので、普段はスルーしている森山くんお得意の軽口を、私はお酒が進むにつれて突っ込むようになってきてしまっていた。

 わりとお酒には強い方だったはずだけれど、今日は少しばかり酔っているみたい。


「……そろそろ、出ましょうか」


 森山くんの前で、情けない姿は見せられない。 

 本格的に酔いつぶれてしまう前に、ほろ酔いを僅かに超えた今のあたりで、打ち止めにすることにする。

 私は手をあげて、両手の指でクロスマークのジェスチャーをつくり、お会計を呼んだ。

 森山くんは、機嫌良さそうに、もうほとんど空のグレープフルーツサワーをまだ傾けている。

 最初はビールでその次はハイボール、その後にレモンサワーを頼んだ後、途中でジントニックも彼は頼んでいた気がする。

 意外にも、彼はお酒をけっこうチャンポンにして飲むタイプみたい。


「お会計か。任せてくれ笹井さん。僕が全部チップで払う」

「いいえ。普通に料金の半分を払って」


 意味のわからないことを口走る森山くんを無視して、私は代金の半分を彼の手にむりやり握らせると、席を立つ。


「笹井さんと飲んでこれだけしか払わなくいいだなんて。これが幸福のバーゲンセールってやつか」

「ちゃんと払っておいてよ。私は先に出てるから」


 少し冷たい空気を浴びたかった私は、火照る身体を先に外に出す。

 春の夜は、雲が少ないわりに、星はあまり多くは見えない。

 帰路につく他の人たちを視界に捕えながら、私はやはりちょっと酔ったことを自覚する。


「待たせたな。この店の代金は、一切の過不足なく、完璧に支払っておいた」

「ふふっ。当たり前よ。この国で料金の支払いで過不足あったら困るわ」


 馬鹿みたいなことばかり言う森山くんに、酔いに油断した私は笑ってしまう。

 この人は本当に、いつもどんなことを考えているのだろう。

 信じられないくらい、不思議で、愉快な人。

 彼の隣りにいる時、私はたしかに、幸せだった。

 でも最近、私は、それが悩みになっている。

 それが私の、人生相談。


「ちょっと酔い冷ましに、歩かない?」

「笹井さんとなら、太平洋の向こう側にだって付き合うさ」

「そこまで泥酔はしてないわ」


 その時、若干ぐらりと、森山くんの身体が揺れる。

 私はとっさに手を出して、彼の右腕を抱きとめる。

 見た目が普段とほとんど変わらないせいで、よくわからなかったけれど、森山くんもそれなりに酔いが来ているみたい。


「ほら、ちゃんと歩いて。もう、手のかかる人ね」

「笹井さんというコンパスさえあれば、僕はいつだって真っ直ぐ歩けるさ」


 時々、考えることがある。

 私は、森山くんに、救われた。

 今の私が、ここにいられるのは、毎日をこれ以上ないくらいの幸福と共に生きていられるのは、森山くんのおかげ。

 私が絵を描く理由を思い出せたのは、彼のおかげに他ならない。

 でも、反対に、私は、彼に何かをもたらせているのだろうか。

 恩返しは、どうすれば、できるのだろう。


「……ねぇ、森山くん。私は最近、ずっと考えているの。未来のことを。数日後、数週間後、数ヵ月後じゃなくて、もっと未来のことよ」


 ほろ酔いを僅かに超えた辺りで、私はやっと、宣言通りの人生相談を始める。

 どこか頼りなさげな足取りの森山くんを支えながら、私たちは繁華街を通り過ぎて、上野公園の方へ向かう。

 まだ帰る気分にならない私は、駅を背中に、夜を彷徨う。


「未来? ……それは、つまり、僕のことか?」

「さすがに違うわ」


 イノリサキ。

 その名前を、私は知っている。

 ほんの一年前に突如、アートの世界に現れた超新星。

 ここ最近の潮流でもある、Web出身の新世代を代表する芸術家の一人。

 その彼女が今日を、私を訪ねてきた。

 そして、彼女は言っていた。

 私は、止まっている、と。


「きっと私は、今のままでいい。今のままで、十分、幸せなのよ。私は今、満たされている。でも、それは、いつまで続くのかって、最近、どうしても考えてしまうの」


 安住と停滞は、隣合わせ。

 メトロポリターノの店内の半分を、私の絵の発表場所にして貰ってから、しばらく経つ。

 それなりの評価を得て、今や、新しい絵を発表するたびに予約が殺到するようにはなった。

 ここは一つの到達点だ。

 心優しい人々に囲まれ、何不自由することなく、私は絵を描いている。


「永遠はないと、そう言いたいのか?」

「違うわ。今の自分が永遠に相応しいのか、自信がないの」


 私はたしかに今、満たされている。

 だけど、それは、ありとあらゆる条件が揃った今だけの話。


 森山くんは、いつまでここにいてくれる?


 彼が私のマーケティングをSNSを通して携わってくれているのは知っている。

 でもそれは、あくまでバイトの一貫とか、そういった側面が強いはず。

 店の半分をアトリエにして貰ってるのは、それがお店の広告にもつながるから。


 いつまで私は、このまま幸せで、いられる?


 いつかは、森山くんもアルバイトをやめて、どこか別の場所に行くはず。

 そんな時、私はまた一人で、絵を描けるのか。


 そこに、現れた、イノリサキ。


 たった一人の力で、同世代の頂点に立つ、異色の芸術家の言葉。

 私は、止まっている。

 その言葉には、私はたしかにノーと、答えられなかった。


「どう思う? 森山くんは、私に永遠の未来は、掴めると思うかしら?」


 私は、止まってる。

 私の絵は、これまで通りの、変わらぬ輝きがあると、自分では信じている。


 だけど、それは、あくまで、変わらぬ輝きだ。


 これまで以上の輝きでは、決してない。

 今いる場所の居心地が良すぎて、私はきっと甘えてしまっている。

 それでいいのか、このままでいいのか、私には分からなくなり始めていた。


「掴む必要はない。笹井さん自体が、自分にとっての永遠の未来になればいい」


 しかし、迷い始めた私に対し、森山くんは迷わず、前しか向いていない言葉をかけてくれる。

 


「心配は要らない。笹井さんならなれるよ、きっと。なんなら、僕からすれば、もうなってる」



 ああ、やっぱり、だめね。

 この人と一緒にいると、いつだって自分の歩いていてきた道が、正しかったと思えてきてしまう。

 彼はさっき私のことを、コンパスにたとえたけれど、きっとそれは逆だ。

 森山くんは、いつだって、私に道を指し示してくれる。


「……ありがとう。森山くん。私の人生相談に乗ってくれて。おかげで決心がついたわ」


 また、助けて貰ってしまった。

 森山くんは、私に居場所をくれた。

 でも、それは、そこに私が住み着くためじゃない。

 

 きっと彼は、教えてくれただけ。

 幸せとはどういうものなのか、目指す場所はどこなのか、手本を見せてくれただけ。

 だから私は、きっと、自分自身で居場所を創り上げないといけない。


 森山くんが教えてくれた通りに、今度は私の手で、私という居場所を創造してみせる。


 だって私は、芸術家だから。


 私の人生は、私が描く。


 三月の春には、まだ桜が咲くには早い。



「私に未来を教えてくれて、ありがとう」


 

 僅かな名残り惜しさを、少し滲む弱さを隠すように、私は掴んだままの森山くんの腕に顔をうずめる。

 彼を支えていたつもりで、きっと支えられていたのは私の方。

 だから、酔いが醒める前に、彼の形を、色を、熱を、覚えておく。


 筆は、一人でしか、持てない。


 ここから先は、しばらく、生みの苦しみに耐えないといけないもの。

 この瞬間だけは、少しくらい甘えても、いいでしょう。


 あの子への返事に、ノーは返さない。



 今年の春は、森山くんと一緒に、きっと桜を見れないことだけが、ちょっとだけ心残りだった。


 

 

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