第15話 緩んでしまう頬はなかなか元に戻らない
ぐっと背伸びをすると、ぴきぴきと身体から気持ちの良い快音が響く。
今日のバイトは無事何事もなく過ぎて、そろそろ締め作業が終わるところだった。
相変わらず不安になるほどの客入りの少なさで、今日も全く忙しくなかった。
いったい経営状態はどうなっているんだろう。
自分の意志とは関係なく、そのうち本当に違うアルバイトを探す必要がある気がしてきた。
「森山くーん、キッチンの方はどう? 終わりそう?」
「(あ、はい。大丈夫です)はい。問題ないっす」
コックコートを脱いで畳んでいると、ホールの方から津久見さんの声がする。
どうやらホールの方はもう片付いたらしい。
僕は裏に回って帰り支度を終わらせ、上着を着てホールの方に出ていく。
「準備オーケーみたいね、じゃあ、帰りましょ」
「ほら、行きますよ森山先輩。ぼけっと突っ立ってないで」
「(え? あ、はい。お待たせしてすいません)ああ、美人を待たせるなんて、俺は本当に罪深い男だな。俺の将来性に免じて許せ」
赤のニットにブラウンのトレンチコート姿の津久見さんと、スポーティなナイロンのアウターを着込んで帰宅準備万端の岡田さんは、なんと僕と一緒に帰ってくれるみたいだ。
これまでだったら、お先に失礼しますとか何とかいって、ナチュラルに別々に帰宅していたのに。
これはいったいどういうことだろう。
この人たちは、僕が怖(きも)くないのか?
半人半妖の怪物みたいな気持ちで、優し気に微笑む二人を僕は見つめる。
「あら、美人だなんて。こんな面と向かって言われたの、けっこう久し振りかも。なんか私も森山くんと飲みに行きたいわ。今日はやらなきゃいけない仕事が溜まってるから、むりなんだけど」
「あ、いいですね! うちも久々に優衣さんと飲みたいです! 今度三人で行きましょ!」
「決まりね。近々予定合わせて、行きましょ。あ、そういえば、私、森山くんの連絡先知らないわ。教えてくれる?」
「そーいえば、うちも知らないな、森山先輩の連絡先。仕方ないですね、森山先輩。特別ですよ。この激カワ現役JDの連絡先を、今なら手数料なしで教えてあげます」
慣れないQRコード読み込み機能を使って、僕は半強制的に二人と連絡先を交換することになる。
いよいよ大変なことになってきた。
家族以外には店長と大学事務の連絡先くらいしか登録されていない僕のスマホに、なんと津久見さんと岡田さんの連絡先が登録されてしまった。
どうしよう。
もし僕がこのスマホを失くしたりでもして、二人の個人情報が第三者に拡散されてたら、いったいいくらの賠償金を払うことになるのだろう。
今度から一週間に一度はパスコードを変更しておくことにしよう。
それにしても、やっぱり案外この口は、僕に幸運を運んでくれているのではないか?
「(ありがとうございます。嬉しいですけど、舞い上がってなるべく連絡しないよう気をつけます)ありがとうの言葉は、わざわざ言わなくていいぞ。嬉しいのはわかってるからな。寂しくないように、一日一回俺の自撮り写真を送ってやろう」
「あ、それは大丈夫。本当に要らないわ」
「それはむりです。一度でも本当に送ってきたら、ブロックします。ほんとにむりなんで」
さっきまでにこやかだった二人が、急に真顔で僕から顔を逸らす。
やっぱり気のせいだ。
僕の口は呪われている。
上唇と下唇を縫い合わせるために、帰り道は裁縫道具を買おうか僕は迷った。
――――
冬の夜はひんやりと冷め切っていて、うちはかじかむ手を自分の息で暖める。
手袋もってくるの忘れてきちゃった。
普段は忘れないんだけど、なんか今日はバイトに行く時に妙にそわそわしちゃった。
なんであんなにそわそわしてたのか、自分でも理由はよくわかんない。
給料日が近いからかな。
「森山くんは、彼女とかいるの?」
胸がざわりと波打つ。
なんだろう。風邪でも引いたかな。
バイトの帰り道。
うちは今、バイト先の同僚の優衣さんと森山先輩と、一緒に夜道を歩いている。
「いないっす。まあ、恋の神様は、独占欲が強いってことですかね」
「あら、そうなのね。森山くんの魅力に、中々周りの人は気づいてくれないのね」
「俺の輝きがあまりに強すぎて、周りの人はついつい目を瞑ってしまうんすよ」
「どっちかっていうと、森山先輩の場合、目というよりは耳を塞がれるパターンの方が多いんじゃないですか?」
ふーん、森山先輩、彼女いないんだ。
まあ、そうだよね。
見るからにいなそう。
変人だし。
うちは心が広いから、この森山先輩の奇妙キテレツな発言を許容してあげられるけど、世の中うちみたいに器の大きな女は少ないもんね。
「あらあら、じゃあ、私が森山くんの相手に、立候補しちゃおうかしら」
「ん? まあ、たしかに津久見さんなら、俺のフレアについてこれるかもしれないっすね」
「え? いや、いやいやいや! それはだめでしょ! 優衣さんやめておいた方がいいですよ! というか、優衣さん彼氏いますよね!?」
「彼氏? うーん、そうねぇ。いたようないなかったような」
「優衣さん!」
「もう、わかってるわよぉ。ちょっとした冗談じゃない。森山くんをからかおうと思ったのに、なんで紀夏ちゃんの方が釣れたのかしら」
「もう! なんでうちのバイト先の先輩たち、こんな人たちばっかりなの!?」
また優衣さんの悪い癖が出てる。
この人はおっとりとした雰囲気とは裏腹に、実はけっこう男癖が悪いのだ。
まだそんなに長い付き合いじゃないのに、うちが知ってるだけでも二回は恋人を乗り換えている。
こういうちょっと京風美人っぽい人が、案外一番男を惑わせるんだよね。
元カレがうちのことをビッチ呼ばわりしてたけど、本人には失礼になっちゃうから言わないけど、よっぽど優衣さんの方がその気がある。
「ごめんねぇ、森山くん。私、年下は守備範囲外なの。森山くんすっごい可愛いんだけどね」
「いえ、いいんすよ。俺は人類皆守備範囲内っすけど、彼女より可愛い彼氏なんて、ふつうは手に余りますもんね」
でも、森山先輩は案外優衣さんの誘惑を受けても、特に態度を変えていない。
人生に疲れました、みたいな真顔のまま、いつも通りにうちだったら恥ずかしくて清水の舞台から飛び降りたくなるようなことをのたまわっている。
ふーん。
女っ気なさそうなのに、意外にこういうのには動じないんだ。
うちはじっと森山先輩の横顔を見つめてみるけれど、地味に肌綺麗だなってことくらいしかわからない。
「じゃあ、紀夏ちゃんはどう? 彼氏と別れたんでしょ? ちょうどいいじゃない」
「は? なにがですか?」
「そうだな。ジャストフィットだな。岡田さんにはちょうど俺の形をした心の隙間が空いてる」
「いや、いやいやいや! ないから! それはないから! 森山先輩も調子乗んな! その心の隙間とかいうの前も言ってたけど、べつにうち空いてないから! しばらく彼氏とかそういうのは要らないです!」
「あら、そうなのね。というか、今日の紀夏ちゃん、いつもより凶暴じゃない? 普段はもう少し余裕をもって、かわすのにねぇ。そんなに強く否定したら、森山くん可哀想じゃない」
「大丈夫っすよ、津久見さん。強い否定は、否定の二乗。否定の二乗は、肯定の意味。俺には岡田さんの本当の気持ちがわかってますから」
「まあ! そうだったの。それは失礼したわ。二人は私からは見えない、もっと深いところで繋がり合っていたのね」
「しつこい! 優衣さんもいつもより悪乗りが過ぎますよ!」
「うふふっ、ごめんなさい。たしかにそうかもね。ちょっとお姉さん、はしゃいじゃった」
「しつこい男は嫌われる、って奴か。また一つ、学んでしまった。俺の成長は留まるところを知らないな」
優衣さんに指摘されて、うちはたしかになと、内心で自らの不調に気づく。
このくらいの恋バナというか、冗談交じりの軽口なんて、ありふれたもの。
これまでにも幾らでも経験があるし、うちはけっこうこういった話題を上手く処理するのが得意だったはず。
それなのに、どうしてか今日は変なやりにくさを感じた。
なんでだろう。
前の彼氏と綺麗に別れられなかったことを、地味に引き摺ってるのかな。
「あら、でもそろそろ駅ね。森山くんは、たしか電車使わないのよね?」
「家が一駅先なんで、メトロポリターノには歩きっす。電車は俺が乗るには、狭すぎる」
「じゃあ、ここでお別れね。私と紀夏ちゃんは、電車だから」
「あー、そういえば森山先輩、歩きでしたね」
そして気が付けば、もう最寄りの駅に辿り着いていた。
なんとなく、消化不良。
もうちょっと森山先輩の馬鹿な台詞を聞いていたい気持ちもしたけど、まあいっか。
連絡先も教えてもらったことだし、これからは話そうと思えば、いつでも話せる。
暇で暇で仕方ない時は、友達いなそうで可哀想だから森山先輩にラインしてあげよっと。
「ばいばい、森山くん。またね。今度、飲み行こうね」
「おつかれさまでーす、森山先輩。いくらうちのことが好きだからって、つまんないラインしてこないでくださいよ」
「おつかれ。そう、悲しがるな。俺はいつでも、すぐ傍にいる」
「それはちょっと、きもいですね」
「今のは若干、余計だったわね」
なんて言いながらも、うちの優衣さんは二人とも互いに顔を合わせて、笑ってしまっている。
森山先輩は基本的には面白いし、ふざけすぎてつまんない時も、逆に面白い。
得な人だ。
狙ってやってるんだったら、けっこう策士かも。
手を振って、森山先輩とお別れをして、改札の内側に入る。
電車の方向が反対なので、すぐに優衣さんともお別れをして、うちは一人になる。
ホームで電車待ちの間、暇潰しにスマホを取り出してみれば、そこには何人かの友人と、また元カレの陽介からラインが来ていた。
それらを一旦無視して、うちは試しにラインを森山先輩に送ってみることにする
一応うちの方が後輩だし、一番最初の連絡くらいは、こっちから送っておくのが礼儀かなと思ったのだ。
《お疲れ様です。岡田です。よろしくでーす》
簡単に、適当なメッセージを送る。
意外にも、すぐに既読がついた。
どんなふざけた返信がくるのかと、うちはちょっとだけワクワクして返事を待つ。
《どうもお疲れ様です。森山です。いつも変なことばかり言ってすいません。今日もありがとうございました。これからもよろしくお願いします》
いや、真面目かよ。
でも全く予想外の返事がきて、思わずうちは噴き出してしまう。
一人で急に笑い出したうちに、周りから怪訝な視線がくる。
すごい恥ずかしいじゃん。
まったくもう、ほんとにこの人はふざけてるなー。
自然と緩んでしまう頬は、なかなか元に戻らない。
冬の風はいまだにうちの髪を揺らしていたけど、不思議と今はあまり寒さを感じなかった。
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