第25話 悪い意味で止まらない



 バスルームから微かに聞こえてくる、さあさあという音を耳にしながら、僕は大変なことになったと震えていた。

 居間で土下座をしながら、とりあえず電気ケトルを一度沸かして、いつでもお茶を注げるように準備しておく。


 薄々わかっていたけれど、どんどん僕の思考や行動自体も、イキリに毒されてきている気がする。


 玄関に置かれた、僕より少しサイズの小さめのスニーカーと、僕がここにいるにも関わらず使用されている洗面所から分かるように、今この部屋には僕以外の人間がいる。

 それは信じられないことに、あのもう二度と会うことはないと思っていた、あの笹井さんだ。

 家族すら入ったことのないこの部屋に、まさか僕が女の人、しかも笹井さんを連れ込むことになるなんて。


 まずいぞ。

 もうほとんど僕は性犯罪者だ。


 ただでさえ失敗作なのに、両親に合わせる顔がない。

 笹井さんの供述次第では、曇天より灰色な塀の向こう側にいつだって行けてしまう。

 しかも、なお怖ろしいのが、実は僕が笹井さんをこの部屋に連れてくる際、同意を得ていないという事実だ。


 同意なしなんて、もう字面からしてまずすぎる。まずさしかない。


 雨の中、ずぶ濡れになりながら、何かから逃げるようにする笹井さんに追いついた僕は、とりあえず傘の中に入ったらどうですかと、いつものイキリ翻訳で話しかけた。


 それに対する笹井さんの返事は、なしだ。

 怖ろしいことに、無言だった。

 だけど、黙って笹井さんは僕の傘の内側に入ってきたのだ。


 それで、勢いでそこまでいったはいいけれど、後のことを全く考えていなかった僕は、一旦雨を凌げる場所へ行こうと自宅にまで戻った。

 その間の僕と笹井さんの会話は、ゼロ。

 なんだかやっぱりすでに終わってる気がしてきた。


 自宅についた後も無言を貫く笹井さんは、びしょ濡れだったので、お風呂でも貸しましょうかと尋ねた。

 それに対して彼女は何も言わなかったけれど、小さく頷いた。

 だから今、こういった状況になっているのだけれど、今思えば頷いたのも幻覚か見間違いにも思えてくる。

 これは終身刑は固いか?



 ふいに、古アパートらしくごおごとと騒がしかった給湯器の歯ぎしりが止まる。

 次いで耳を澄ませば、シャワーの流れる音が止まっていることがわかった。

 

 っておい。

 なにを僕は耳を澄ましてるんだ。


 ペチンッ! ペチンッ! と僕は煩悩を振り払うために、勢いよく自分の頬を叩く。

 ただでさえぎりぎりな状況にいるんだ、これ以上余罪を重ねるわけにはいかない。

 精神を統一して、どくんどくんと脈打つ心臓に大人しくするよう注意を促す。

 こんなことなら、もっと普段からお風呂掃除に力を入れておけばよかった。

 きっと笹井さんみたいな綺麗な人は、あんな薄汚れたお風呂場に入ったことは、人生で一度だってないだろう。

 ぎぃーっと、その時、僕の後ろの方から扉を開ける音が聞こえる。

 どうやら笹井さんがお風呂から上がってきたみたいだ。


「……あの、森山くん」


「(うちのお風呂、大丈夫でしたか?)俺のシャワーは、少し熱すぎだったか?」


 お風呂場のぬめりとかで気分を害していないか心配になった僕は、ゆっくりと振りかえる。

 

「あ、あの……」


「(へ?)おや?」


 しかし、半分くらい顔を振りかえらせたところで、僕の動きが止まる。

 湿気を多分に含んで、しっとりとした黒髪。

 少し汗の滲んだ、白くてきめ細かな肌と鎖骨。

 女性らしいくびれと、着痩せするタイプなのか思っていたより豊かな胸元。

 ボディラインが浮き出た身体には、申し訳程度に中サイズのバスタオルが巻かれているだけで、肩口から指先までおしげもなく細い腕が剥き出しで伸びている。


「……あの、服を貸して貰えないかしら?」


「(あああああ! ごごごごめんなさい! 大丈夫ですほとんど見てません! 今すぐ持ってきます!)おっと、これは失礼した。それは魅力的すぎて目に毒だな。勿体ない気もするが、その美しいからだを隠すものを何か持ってこよう」


「ありがとう。助かるわ」


 やらかした。

 バスタオルを渡して安心してしまっていたが、よく考えたら元々着ていたものは、雨でびしょびしょなんだから、着替えが必要に決まっているじゃないか。

 他人にバスルームを貸す経験なんてこれまでなかったため、すっかり失念していた。

 大慌てで、僕はタンスを漁る。

 最悪だ。

 ヘンテコなまるでセンスのない服ばっかりだ。芸術家に着せられるようなものがまるでない。


「なんでも構わないわよ?」


「(ダサい服ばっかですいません! ましなの持ってきます!)あんたの美しさを損ねないよう、最低限の気は遣わせてもらうさ」


 待たせすぎて、せっかく暖まった笹井さんの身体が、また冷えてはいけない。

 僕は無地の白Tシャツとグレイのジップパーカー、それにアウトドアメーカーのスボンを抱えると、僕はなるべく視線を下に向けながら笹井さんに渡す。


「助かるわ。それじゃあ、ありがたく借りるわね」


「(はい! どうぞ!)おう、構わないさ」


 風呂上がりの笹井さんに近づくと、ふわりとありえないような良い香りがした。

 どうなっているんだ。

 僕の家なのだから、僕と同じボディソープやシャンプー類しか使えないはずなのに、どうしてこんなに甘くて色っぽい匂いがするんだろう。

 女子という生き物は、細胞から良い匂いがするようになっているのだろうか。

 不思議すぎる。


 僕から服を受け取った笹井さんは、バスルームに戻る。

 胸のドキドキが止まらない。

 心臓が口から飛び出てひとりで勝手にスラムダンクをしてしまいそうだ。

 あれほど露出の多い女性を目の前にしたのは、もちろん人生で初めてのことだ。


 これは非常によくないぞ。

 こんな幸せな体験をしたら、後で必ず痛い目を見るに違いない。

 バスタオルの巻きが甘かったせいか、僅かに見えていた艶やかな胸元が、自動で脳内にフラッシュバックして、僕はそれをブルブルと頭を振って掻き消そうとする。


 電気ケトルのスイッチを押し直すと、数十秒後に再沸騰して、僕はそれで二人分のお茶を注ぐ。

 ただ座って待っているだけなのに、身体中の色々なところから汗が滲んでくる。

 暖房の温度を一度だけ下げて、雑念を振り払うように深呼吸を繰り返した。


 よし、少し落ち着いてきたぞ。

 やっと冷静さを取り戻し始めてきた僕は、何の気なしに自分のスマホを手に取る。

 するとメッセージが一つきていた。



《いまから、いえにいく》



 僕の身体が、またビタリと硬直する。


 は? ……は?


 思わず、止まる呼吸。

 メッセージの送り主の名前は、“谷真冬たにまふゆ”。

 それは僕の知っている名前ではあった。


 でも、おかしい。

 そもそも連絡が来るのは初めてだし、文面がおかしすぎる。


 今から、家に行く?


 何を言っているんだこの人は。

 この人が僕の家にやってくる理由なんて、何一つ思いつかない。

 僕は眩暈がするようだった。


 ――ピン、ポーン。


 嘘、だろ?

 

 鳴り響くインターホン。

 

 ――ラァインッ!


 手元のスマホが悲鳴をあげる。


《ついた》


 ついた?

 返事もしていないのに、進んでいく事態に、僕は戦慄する。

 とても、怖ろしいことが起きているということだけは、分かった。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 ピンポーン。


 インターホンは鳴り響き続けている。

 僕はいまだ動けない。

 ふいに鳴り止むインターホン。

 生唾を飲み込む僕。

 胸のドキドキが、悪い意味で止まらない。

 

 ――ラァイン。


 スマホが震える。

 視線を下に落とすと見える、決定的なメッセージ。


《いるでしょ? はいるね》


 ガチャ、と鍵が開きドアノブが回る音。


 え、なんで?


 僕以外はカギを持っていないはずの錠前が、いとも簡単に解錠されるのを見ながら、まるで全てがスローモーションに感じる。


「森山くん? お客さん?」


 ちょうどのタイミングで、バスルームの扉も開く。

 ひょいと顔を出した笹井さんは、不思議そうな顔で、僕の方を見る。

 だめだ、今、顔を出したら――、



「ヨオ、森山ァ?」



 ――無情にも開かれた玄関。

 その向こう側から、土砂降りの雨をバックに姿を見せる、ベリーショート金髪に鼻ピアスの女性。

 一瞬、僕の方を見て、すぐに笹井さんの方を見て、その人は、邪悪に嗤った。



「……ナア、森山? あたしは、どっちを殺せばいいんだ?」



 うーん、どうだろうね? 


 まあ、そりゃ殺すなら、僕になるのかな?


 玄関口で凶暴に犬歯を見せる店長――谷真冬さんに、僕はハハハと渇いた笑みを見せることしかできなかった。



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