立春
なんだか私は、人生に飽き飽きしてしまっていた。
どうして生きているのか、何のために生きているのか、まるでわからない。
最初は、ただ絵を描ければ、それでいいと思っていた。
それなのに、いつからこんなに不自由になってしまったのだろう。
私が絵を描けば、周りの人を笑顔にすることができた。
それが私は、とても嬉しかった。
家族も、友達も、学校の先生たちだって、みんな私を褒めてくれた。
だからきっと、段々と変わっていってしまったように思う。
自分のためから、他人のためにと、私は絵を描く理由を変えていった。
でも、それは悪くない気分だった。
自分だけを満足させるために描く絵より、誰かを笑顔にする絵を描く時の方が、私はよっぽど気分がよかった。
むしろ、これこそが正しい理由だと。
私の使命だと、盲目的に信じることができた。
私の絵で、他人を笑わせる。
それだけで、私は嬉しかったし、救われたような気がした。
でも、この世界はそう単純じゃない。
全員を笑顔にできるわけじゃなかった。
子供から大人になっていく過程で、私の絵はずっと綺麗になって、喜ばせられる人の数は増えていったけれど、同時に笑顔を消す人達も増え始めてきた。
その嫉妬と呼ぶべき感情に初めて晒された時、私は絵を描く理由を見失い始めていた。
上手く描けば描くほど、不幸に沈む人々が増えていく。
誰かを笑顔にしたかったのに、私は笑顔を奪うばかり。
そんな道を見失った私に手を差し伸ばしてくれたのが、川海創歩という人だった。
『これからさは、僕のために、絵を描いてよ』
その言葉に私は、救われた。
何のために絵を描けばいいのか分からなくなり出していた私にとって、理由を与えてくれる創歩くんは救いだった。
創歩くんがいれば、私は絵を描く理由を見失わないですんだ。
だけど、その偽りの救いは、長くは続かない。
いつからか、創歩くんは、私の絵を観なくなった。
私のことも、見ようとしなくなった。
ただ、私を所有するだけ。
また私は、絵を描く理由を忘れ始めた。
そんな冷たい冬の雨が続く日、私は一人の変わった少年に出会った。
彼の名前は、森山くんといった。
ふざけた人だったけれど、優しい人だった。
もっと早くに出会っていたら、私はもっと違う絵を描く理由を見つけられたかもしれない。
でも少しだけ、会うのが遅かった。
もう私の居場所は、自分では選べない。
そう、思ってた。
思っていた、のに。
「笹井さんを、迎えに来たんだ。彼女には、“僕”の方が相応しい」
なのに、なんで君は、また。
もうこれ以上、傷ついて欲しくないのに。
大講義室の最後尾から、私は一番前に立つ森山くんを見ている。
彼が私のせいで、SNSで心が傷つくような動画を拡散されていることは知っている。
それに彼のバイト先の店長である、谷さんも私のせいで大変なことになってしまった。
私はちゃんと、諦めたのに。
創歩くんのため以外に、絵を描けないことを、きちんと受け入れたのに。
どうして君は、また私の前に立つの?
「度胸だけは認めるよ。“偶然”にもあんな動画が広まっている状態で、この講義中のタイミングで乗り込んでくるなんてね」
「僕にまつわる偶然は、全て必然。僕の選択肢は、常に正しい」
「その度を越したポジティブがいつまでもつかな? はっきり言うけど、君はただ
のストーカーだ。ハルは僕の彼女で、君のものじゃない。友達にすらなれないって、はっきり言われたろ?」
くすくすと、小さな笑い声が講義室の至るところから漏れる。
中にはスマートフォンを二人に向けている人もいる。
このままじゃ、本当に森山くんは元の生活に戻れなくなってしまうかもしれない。
もう私のことは忘れてよ、森山くん。
これ以上君が、傷つく姿を、私は見たくない。
「違うな。僕にはわかるんだ。笹井さんはずっと待っている。僕がくるのを、ずっと待っていた。必要とされているのは、あなたじゃない。この僕だ」
「まさにストーカーの理論だな。話にならないよ。気持ちが悪い。ハルは君なんて必要としてないんだ。いい加減、現実を見たらどうかな? ハルの居場所は、僕の隣りにある」
「あなたの隣りにいても、笹井さんは幸せになれない。あなたは最後に笹井さんが笑った日を、思い出せるか?」
「ポエマーかな? 何が言いたいのか、よくわからないよ。話を逸らさないで欲しいんだけどさ、僕が言いたいのはね、君みたいな何ももたない普通の人が、ハルの才能を活かせる居場所を提供できるのかってことなんだよ。僕のいう居場所ってのは、そういう意味だよ」
創歩くんは、残酷なまでに強くて、隙のない人だ。
口だけで言い合っても、勝ち目はない。
欲しいものは、全て手に入れる。
知性があり、それに基づいた行動力も持つ。
森山くんのユニークさは、たしかにある意味で特筆されるべきものだけれど、それだけじゃ創歩くんとは渡り合えない。
「ハルには才能がある。正直、これ以上は邪魔しないで欲しいな。芸術家には、その才能を表現する場所が必要なんだ。君がハルの隣りにいて、何をしてあげられる? 僕より君の方が、ハルに相応しいといえる根拠を教えて欲しいな。それが言えないなら、いい加減不審者として通報させてもらうよ」
あくまで理知的に、逃げ場を潰すようにして、創歩くんは会話を進めていく。
スマートフォンを掲げる人の数が、どんどんと増えていっている。
このままじゃ、本当に森山くんの人生が狂ってしまう。
「驕ったな」
「……なんだって?」
しかし、森山くんは、いまだに表情を変えない。
むしろ、どこか誇るように、胸を堂々と張る。
どうして、彼が逃げ出さないのか、私にはわからない。
「笹井さんは、あなたが思ってるほど、弱くはない。居場所なんてものは、いくらでも彼女一人で創り出すことができる。僕らが笹井さんに、何かをしてあげる必要なんて、ない。彼女に必要なのは、居場所じゃない。鑑賞者だ。だから僕の方が、あなたより、笹井さんに相応しい」
ピキリ、と私の中の何かにヒビが入るのを感じる。
必要なのは、居場所じゃなくて、鑑賞者。
私を、私の絵を、観てくれる人。
「あなたは思い出せるか? 一番最近の笹井ハルの絵を?」
「当たり前だろ。馬鹿にするのもいい加減にしてくれ」
「どんな色をしてた? どんな構図だった? 砂時計の中には何が描かれていた?」
「砂時計の中? そりゃ砂……いや、違う?」
「そうだ。違う。笹井さんが砂時計の中に描いたのは、金平糖だよ。よく観ればわかったはずだ。結局あんたは、なにも見ちゃいないんだ。なにもわかってない」
ああ、そうか。
私は、やっと思い出す。
私が絵を描き続けた理由は、いつもたった一つしかない。
「彼女の絵を観て、あなたは何を感じた?」
「……感動だよ。言い表せないほどの感動に決まってる」
「やっぱり、相応しくないな」
「なにがだよ……っ!」
珍しく、創歩くんの口調に苛立ちが混じる。
そうだ。
ずっと私は勘違いをしていた。
私が創歩くんの隣りにいて苦しかったのは、私が上手く笑えないからじゃない。
「川海創歩さん、笹井さんはあの絵を描くことで、あなたを——」
気づけば、私は立ち上がって、小走りで壇上に向かっていた。
いつも私は逃げてばかりだった。
創歩くんの下にも、私は結局逃げ込んだだけ。
逃げてるだけじゃ、本当に行きたい場所には辿り着けない。
本当は私は、絵を描くことで、創歩くんのことを——、
「——笑わせたかったんだよ」
「——笑わせたかったのよ」
私が幸せじゃなかったのは、私の隣りに立つ創歩くんが笑ってくれなかったから。
私が上手に笑えないのは、私の絵が誰を笑顔にできているのか、わからなかったから。
森山くんの隣りに立つ私は、たぶん少しだけ、寂しい顔をしている。
「ハル? いったいなにを……」
「……創歩くん。これまで私のためにしてくれたこと全てに感謝してるわ。ありがとう。でも、やっぱり私は、もうここにはいられない」
深呼吸を一つ。
私は、私の元恩人に別れを告げる。
恩知らずの私を、創歩くんは許さないかもしれない。
それでも、私は、やっぱり誰かを笑顔にするために絵を描きたい。
「僕はここに宣言しよう! 今この時をもって、僕は“笹井ハルファンクラブ”を立ち上げる! 参加資格はたった一つ! 笹井さんの絵を観て、笑ったことがあること! 笹井さんの絵に笑顔を貰った人は、どうか僕に教えて欲しい! そうすれば僕が彼女に伝えよう! 貴女の絵が、また一人誰かを笑わせることができたと! 僕が笹井ハルの耳になる!」
そして、少しお馬鹿で、変わっていて、優しい森山くんは、声高らかに宣言する。
「……ふふっ、なにそれ。笹井ハルの耳ってところだけ、訂正しておいて。なんだか気味が悪いから。だけどいいわ。公認ファンクラブにしてあげる」
講義室中に広がっていた騒めきの質が変わっていく。
人を小馬鹿にするような嘲笑の雰囲気から、エンターテインメントを観た時のような、興奮に近い雰囲気へ。
私のことも、森山くんのことも知らない人たちが、楽しそうにこちらを見つめていた。
今、私と森山くんは、皆を笑わせている。
「……ハル、本当に行くのかい?」
色めき立つ講義室内で、ぽつりと聞こえる、寂し気な声。
いつもとは少し違う、縋るような瞳で、創歩くんが私を見ている。
真冬の中、凍えるように創歩くんは一人で、立ち尽くしている。
でも、ごめんなさい。
私はもう少しだけ、自由になる。
「ええ、行くわ。ごめんなさい。そして、ありがとう」
私はそっと、横に立つ森山くんの手を繋ぐ。
私の熱と、森山くんの熱が繋がる。
穏やかな温もりの中、私は彼の表情を見る。
そこに浮かぶのは、春のように暖かな微笑み。
「川海さん」
「……なんだよ?」
打ちのめされた創歩くんに、そして森山くんは私に見せたものと同じ暖かな笑顔を向ける。
「笹井ハルファンクラブの入会、待ってるぞ」
「……ははっ。君より先に、それをつくるべきだったね。“イシュウ”くん」
創歩くんは、疲れたように笑う。
この笑顔を、本当は私がつくってあげたかった。
いいえ、まだ、終わったわけじゃない。
むしろ、この先いつか私は、創歩くんも笑わせられるような絵を、描けるようになりたい。
私は久し振りに、自分すら笑ってしまうような絵を、上手に描ける気がしていた。
「行きましょう、森山くん」
「ああ、行こう、笹井さん」
傷つけてしまった分だけ、笑顔を。
償いというわけじゃないけれど、だけど今は隣りに立つこの人のために、絵を描きたい。
いつも私を笑わせてくれる森山くんのことを、笑顔にしてあげたいと思った。
________
緩やかな陽射し差す午後。
ちょうど今日は、立春と呼ばれる日だった。
まだ一応冬まっさかりだけれど、やけに暖かい。
バイトに向かう道を歩きながら、僕は一週間ほど前の大立ち振る舞いを思い出しては、心臓が底冷えする思いを抱いた。
あれから僕は、特に若い世代の中で、ちょっとした有名人になってしまった。
大学でも、ちょいちょい声をかけられることがある。
半分は若干小馬鹿にした感じで、もう半分は割と好意的な感じだ。
これまで見知らぬ誰かに話しかけられることなんて、ほとんどなかったから、最初はテンパリまくっていたけれど、最近は段々と慣れてきた。
中には僕に握手やサインまで求めてくる人がいて、それには困ってしまう。
もちろん僕は、自分のサインなんて書けないので、いつもわけのわからないイキリ台詞と共に、丁重にお断りしていた。
「先輩、おはようございます」
メトロポリターノがある雑居ビルが見えてきた辺りで、肩をつんつんとつつかれた。
隣りを見て見れば、少し髪が伸びてきた岡田さんがいた。
マフラーに口元までうずめて、寒いのか鼻の頭を赤くしている。
「おはよう、今日も相変わらず可愛らしいな」
「……殴っていいですか?」
そして僕の口調も、相変わらずコントロール不能の絶好調だ。
いつセクハラで起訴されるかわからない、刺激的な毎日を過ごしている。
「はあ、ほんと最悪。なんでうちはこんな人のことを……」
「ん? なんだ? どうしてこんな素敵な人に惚れてしまったのかって?」
「い、言ってないし! まだ言ってないから! そのポジティブ過ぎる難聴やめてください!」
ちょっと訊き返しただけで、いつも通り僕はイキリ散らかしてしまう。
でも岡田さんも、珍しく言い間違えをしている。
まだ言ってないって、これまた派手なミスだ。
それじゃあ、まるでこれから先、本当に言う予定があるみたいじゃないか。
やがて僕の外見と同じ地味さを醸し出す雑居ビルにつくと、狭い階段をゆっくり上がっていく。
メトロポリターノの看板が見えると、がちゃがちゃと騒がしい音が漏れ出ているのがわかった。
「森山ァ! おせぇぞぉ! 早く着替えろ! それともなんだア!? あたしが着替えさせてやろうかアア!?」
「いやいや、店長。それともなんだの後が、絶対繋ぎ方間違えてるって」
「店長と悟さん、おはようでーす」
「店長、茂木さん、お二人とも、おはよっす」
準備中の看板が下がった扉をぎいっと開けて、岡田さんと一緒にメトロポリターノの中に入ると、店長がいきなり叫び声を浴びせてくる。
それを収める茂木さんは、今日もワイルド系イケメンで、勤務中なので当然しらふだから、ちゃんと突っ込み側に回ってくれていてありがたい。
店長も警察に連行された時は、どうなるかと思ったけれど、なんやかんやこうやって戻って来てくれてありがたい。
「あ、森山くん。みてみて〜。やっとアトリエできたのぉ。これ、私がプロデュースしたのよ〜?」
すると店の奥から津久見さんやってきて、じゃじゃーんといった声に合わせて店の半分のスペースを披露してくれる。
そこには幾つかの絵画が、まるで美術館のように並べたてられていた。
これまで置いてあった椅子や机は綺麗に取り払われていて、無作為のようでいて、秩序立った小洒落たデザインセンスが感じられる配置で絵が飾られている。
見覚えるのあるタッチで描かれたそれらの絵を観ていると、自然と口角が緩む。
「あー、すごい。ほんとに店の半分を公開アトリエにしちゃったんですね。いくらお客さんがこないからって、店長、大胆だなー」
「でも、むしろこっちの方が客くんじゃね? 今日とかリニューアルオープン初日だけどよ、予約とか入ってるぜ?」
「え? まじ? すご」
「うふふ。うちの新人ちゃんのだけじゃなくて、メトロポリターノの方のSNSも始めたのよ〜。そっちの運営は私がやってるんだけど、こっちもフォロワーバンバンって感じなの! たぶんお客さんはそれ経由で来てるんじゃないかしら〜」
「さすが優衣さん。転んでもただじゃおきない女ですね」
「でしょでしょ。まあ、転んだのは私じゃなくて、店長と森山くんだけだけどね〜」
アトリエの集客効果を自慢する津久見さんは、まさに鼻高々といった様子だ。元々芸術系の大学に通っていたこともあって、やはりその知識や経験が仕事を含む実生活に活かせるのが嬉しいのだろう。
「津久見さんの優秀さは僕の歴史ミュージアムに記録してもいいくらいですね」
「うふふ。ありがと、森山くん。森山くんの歴史ミュージアムの運営も私がやってあげるから、開館したら教えてね?」
楽し気に声を跳ねさせながら、津久見さんはウインクを飛ばす。
そのあまりに可憐な不意打つを食らった僕は、うっかり恋に落ちる前に慌てて視線を逸らす。
目線を移した先には、色とりどりの絵が見えて、僕の意識は自然とそちらに注がれる。
冬の中で、このアトリエだけがまるで春の中にあるように、暖かい。
賑やかな皆の笑い声を背にしながら、僕は飾られている絵を眺めて回る。
モノトーンなものからカラフルのものまで、様々な趣向が凝らされた油絵は、そのどれもが一級品でかつユニークな優しいセンスが見て取れる。
丁寧な筆致に、どことなく冗談染みたユーモラスな構成。
金平糖でできた砂時計が、スノードームみたいに重力を感じさせないように、自由に描かれていた。
「……どう? この絵の感想は?」
そんな僕へ隣りから、声がかかる。
隣りを覗けば、今日から入る新人のアルバイトの子がいた。
身長は女性にしては高めで、僕とはあまり変わりがない。
きりりと整った眉と、筋の通った鼻筋から醸し出される凛とした雰囲気。
西洋画のように均整のとれた目元と口元が、どちらも楽しそうに細まっている。
絵具塗れのコックコートを着て、黒い髪をまとめたその綺麗な女性は、優しく笑っていた。
この先も、ずっと見続けたいと思えるほど、魅力的な笑顔。
「最高に面白いよ、笹井さん」
「そう。楽しんでくれているみたいでなによりよ、森山くん」
僕の隣りで笑う彼女——笹井ハルは、美しく、見惚れるような笑みを輝かせる。
彼女のファンクラブ運営で、最近結構忙しいけれど、彼女が笑ってくれるならあの程度の労力は何も疎ましくない。
強制ポジティブな日々も、悪くはないということだ。
ふと、窓の外を見れば、一羽のカラスが電線に止まっているのが見える。
笹井さんの隣りに立つ僕と目が合うと、何かに安心したかのように、翼を大きく開き、そのカラスは飛び立っていく。
宙に舞う、真っ黒い羽根の向こう側から差し込むのは、冬を暖める陽射し。
春近い僕らの毎日は、星よりよっぽど眩しい笑顔で溢れかえっていたのだった。
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