幕間

笹井ハルは彩らない



 私からみた、森山伊秋もりやまいしゅうという青年は、一言でいうと夢想主義者ロマンチストだ。

 彼は基本的に、他人を、世界を、希望的に眺めているような気がする。

 森山くんが口にする言葉は、どれもこれも大袈裟なほどに楽観的なものが多い。

 でも、べつに私は、その言葉を聞いて、彼を夢想主義者だと感じているわけじゃない。


 目、だ。


 森山くんの瞳に、私は光を見る。

 私は、彼の瞳に、希望を感じていた。

 森山伊秋というフィルターを通して、この世界を見てみたいと、時々強く思う。

 どんな風に、どれほど鮮やかにこの世界が視えているのか、知りたい。



「笹井さん、そろそろ羽休めをしてもいいぞ。いくら華麗に飛び続けることが得意だといっても、翼をはためかせ続けるのも疲れるだろう」


「ええ、休憩時間のことね。わかったわ。ありがとう」


 

 そんな、明るいものの見方をする森山くんが、過修飾気味のセリフのわりに穏やかな声で、私に声をかける。

 最初は中々意味を理解するのが難しかった、森山くん特有の言い回しにも慣れて、だいたい何が言いたいのかすぐにわかるようになってきた。

 ちょうど今私は、メトロポリターノというイタリア料理店でアルバイトをしている。

 ここは森山くんに紹介してもらった場所で、接客の仕事以外にも、ありがたいことに私の作品発表用アトリエとしても利用させていただいている。

 この場所にいる人たちは、森山くん以外もみな暖かい人ばかり。

 人によっては壁をつくられがちな私にも、寛大に接してくれる人が全員だった。


「それじゃあ、ありがたく、休憩をいただくわ」


「ああ、存分に羽を伸ばすといい」


 平日の夕方ということで、お客さんも今はいない。

 十分一人で回せると判断したのか、森山くんは私に休憩を勧める。

 そのお言葉に甘えて、私は一度バックヤードに戻り、接客用のエプロンを脱いで、絵の具まみれのキッチンコートに着替えることにした。

 私にとっての休憩は、この殺風景な部屋で一人で座り込むことじゃない。

 着替え終わった私は、すぐにまた表に戻り、何を考えているのか、ぼんやりと宙空を見つめる森山くんの隣りに立った。


「ちょっと絵を、描かせてもらってもいい?」


「……呼吸をするのに、許可なんていらないだろう?」


「ふふっ、それは私好みの褒め言葉ね」


 絵描きにとって、絵を描くことは息を吸うのと同義。

 狙ってやっているのか、自然なものなのか、森山くんの変な言葉は、若干変わり者の気のある私の心をくすぐる。


 穏やかで、そしてまた希望に満ちた瞳で、彼はまた私を見つめる。


 それを真っ直ぐに見つめ返すのが、無性に恥ずかしかった私は、僅かに熱を帯び始めた体温を下げるためにも、真っ白なキャンバスに向かう。

 お気に入りの鉛筆を三本用意して、ラフ画を描き始める。


「綺麗だな」


「……まだ何も描いてないわよ」


 森山くんの囁くような言葉に、私は一瞬、手が止まる。

 本当はどういう意味で言っているのか、彼に慣れている私はわかっていたけれど、妙な羞恥心を抑え込むために、意味がわからないふりをした。

 今、このお店には、私と森山くんの、二人しかいない。

 落ち着くけれど、落ち着かない。

 普段以上に、インスピレーションは湧くけれど、筆を滑らせる勢いはいつもより鈍い。

 ちく、たく、ちく、たく、と時計の針の音が進む音が、明瞭に聞こえてくる。

 でもその音は、どうしてか私の心臓の音にかき消されてしまう。


「森山くんは、絵を描かないの?」


「僕の手は筆を握るには、あまりに大きすぎるのさ」


「そう? どちらかというと、小さめの手だと思うけれど」


「それは俺という存在が大きすぎて、相対的に小さく見えるだけだ」


「ふふっ、そうなのね。なら仕方ないわね」


 森山くんは、絵を描かない。

 きっと彼には、あまりに世界が美しく見えすぎている。

 だから、筆を握る必要がないのだと思う。

 これは私の持論だけれど、芸術家という種類の人たちは、どこか悲観的というか、諦観的な物の見方をしているような気がする。

 だから、自分で、彩る。

 より美しく、こうあって欲しいという願望を、描写する。

 昔から、私は誰かを笑顔にしたくて絵を描いてきた。

 でもきっとそれは、私自身に、誰かを笑顔にする才能が不足しているという思いがあるからだ。


 そう、これは、もはや、憧れに近い。


 いとも容易く、他人を笑わせる森山くんという芸術に、私は近づきたかった。

 きっと私が森山くんだったら、絵を描いていない。

 まだ、彼には届かない。

 でも、いつの日か、森山くんと同じくらい他人を笑顔にできる絵を描いてみたい。


「それは、鳥か?」


「……いいえ、違うわ」


 私のラフ画を横から覗いて、森山くんは、いつもと同じ感情の読み取れない眠そうな顔をしている。

 翼を生やして、嘴を伸ばす。

 羽根を細かく入れていって、翼の内膜に星を書き込んでいく。

 夜空を翼の中に抱え込んで、目の辺りだけ人間的な描き方を加える。

 今にも眠り込んでしまいそうな、穏やかすぎるくらいの眼差し。

 


「でも、今にも飛びそうだな」


「それも少し、違う。もう、飛んでるのよ、彼は」



 私は、たぶん、この絵は彩らない。


 絵の具なんて塗らなくても、もう十分に、カラフルに輝いて見えるから。

 

 

 森山伊秋というフィルターを通して視る世界は、眩しくて、穏やかで、そして綺麗で、それを私はどこまでも愛おしく感じていた。

 

 


 

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