第17話 休みの日でも変わらず元気いっぱい
見知らぬ青年からイベントチケットを貰ってから数日経ち、いつも通り何の予定もない週末がやってきた。
笹井さんの作品が見られるというイベント会場に向かうため、僕は今土曜日のメトロに揺られている。
正直言って、もう笹井さんに会う機会なんてないと思っていたので、ちょっとばかり心がどきどきしてしまっていた。
それによく考えたら、僕の方から笹井さんに会いに行くのは、これが初めてだ。
今更だけれど、これ、僕ストーカー扱いとかされるんじゃないか?
だけど、イベントに行かなかったら行かなかったで、あの心優しい青年に失礼な気がする。
これは困ったぞ。いや、でも大丈夫か。
笹井さんに会う気満々だったけれど、冷静になれば、べつに必ずしも会う必要はない。
僕はあくまで、イベントに行きたいだけで、笹井さんの絵が見れればそれで十分じゃないか。
人間の、とくに僕のような瓶底の湿ったカスみたいな人間が欲張ると、ろくなことがない。
イベントでは、とにかく大人しくしておこう。
なるべくイキらないように、静かに目立たず過ごすことを誓って、僕は目的地の駅で降りる。
そこは都内にしては緑の多い街だった。
晴天から注ぐ陽の光は、冬にしては暖かい。
それなりに人通りの多い道を、事前に設定しておいたスマホのナビを頼りに一人歩いていく。
イベント会場に近づいてくると、変に緊張してきて、歩く速度が落ちてくる。
一旦、精神を落ち着かせるために、通りかかったコンビニに寄る。
やけに喉の渇いていた僕は、トイレを借りて、ペットボトルの緑茶を買って店を出た。
なんとなく自分の口臭が気になったので、緑茶を一気に三分の一ほど飲み干す。
たしか緑茶の成分に口臭を抑えるものがあった気がしたから、これで多少はマシになったはずだ。
あまり喋るつもりはないのだけど、笹井さんたちのイベント空間を、僕の陰鬱な呼気で汚染するのは、最低限にしなくては。
そして幼児にも劣る遅々とした歩みを進めていくと、とうとうイベント会場についてしまう。
せっかくチケットを無料で頂いたのだし、行かないと失礼だと勝手に思い込みを抱いていたけれど、考え過ぎだったかもしれない。
僕みたいな干からびたウミウシみたいな奴、べつに来ても来なくても変わらない。
急速に気分が悪くなってきた。
やっぱり帰ろうかな。
「……あらぁ? もしかして、森山くんじゃない?」
なんてイベント会場前で、もぞもぞとしていると、いきなり後ろから声をかけられる。
驚いた顔で僕のことを見つめるのは、妖艶な雰囲気を醸し出す和風美女。
「(え、津久見さん?)おお、津久見さん」
僕の方に小さく手を振るのは、バイト先の先輩の一人の津久見さんだった。
やっぱり森山くんだー、と可愛らしい声を出して、津久見さんは僕の方へ近寄ってくる。
「すっごい偶然ね。でも意外だわ。森山くんって、こういうアート系に興味あったの?」
「(いや、アートとかあんまり詳しくないんですけど、たまたまチケットが手に入って)俺の生き様だけでアートは間に合ってるが、アート側がどうしても俺に見て貰いたいらしく、頼んでもないのに気づいたらチケットが手元にあったんだ」
「あらまあ、休みの日でも変わらず森山くんは元気いっぱいね」
僕の芸術性を微塵も感じさせないイキリっぷりを、元気いっぱいで片付けてくれる津久見さん。
これが大人の余裕だろうか。
感謝のしるしに、お中元を送った方がいいかもしれない。
「(そういう津久見さんは、アートに関心があるんですか?)そういう津久見さんは、俺以外のアートにも興味があるんすか?」
「まあね。こう見えて、私は美大出身なのよ? ちょっと浪人しちゃったけど」
もう一年くらいバイトしてるのに、僕は初めて津久見さんが美大出身だということを知る。
しかも浪人してるらしい。僕と同じだ。
謎の仲間意識を感じるけど、口にしたら失礼な気がして黙っておく。
「もっとも、今日は趣味だけじゃなくて、本業関連だけどね」
薄っぺらな記憶を辿れば、そういえば津久見さんはフリーランスのライター業をしていたと聞いた気がする。
ということは、何かしらの記事を書くためにこのイベントにやってきたのか。
いつか津久見さんの書いた記事を読んでみたいなと、少し思う。
「でもまあ、取材まで時間あるし、せっかくだからそれまで一緒に見て回りましょうよ。紀夏ちゃんが妬いちゃうかもだけど」
「(岡田さんがですか? 岡田さんも芸術系でしたっけ?)岡田さんも芸術系なんすか?」
「うふふっ、森山くんはお馬鹿さんねぇ。紀夏ちゃんは英米文学科よ。まったく、見た目通り鈍いんだから」
津久見さんは何がそんなに楽しいのか、にやにやといやらしい笑みを浮かべている。
岡田さんは文系だけど、アートに興味があるタイプということなのだろうか。
それとも、このイベントに出演しているアーティストの中に岡田さんがファンをしている人がいるとか?
やっぱり僕はまだまだ、バイト先の人達のことに関して知らないことばかりだ。
「あ、そうだ。記念に二人で、写真とりましょ」
「(えっ!?)ん?」
すると、津久見さんは急に僕の腕を掴んで、身体を密着させてくる。
柔らかくて豊満な何かが僕の腕に当たっている気がするが、これは意識したら終わりだ。
その瞬間、僕はハラスメントの化け物となってしまい、この世から消し去られてしまう。
香水なのか、トリートメントの類のものなのか分からないが、頭をくらくらさせるようないい匂いがする。
そんな僕を一瞬で混乱状態に陥れた津久見さんは、何も気にすることなく片方の手ではスマホを掲げて、角度を調整している。
「はい、ちーず。さてさて、どうかしら……うん、ちゃんとイベントの看板も映ってるわね。うふふっ、森山くんはいっつもその顔なのね。可愛い」
そして硬直したままの僕を無視して、さくっと写真を撮ると津久見さんはやっと僕から離れる。
心臓がハードロックなドラミングを叩き鳴らしていて、とてもうるさい。
これだから社交性のある美人は困るんだ。
僕はもうちょっと念入りに服にファブリーズをかけておけばよかったと後悔する。
「よし、あとはこれを紀夏ちゃんに送っておこうっと。これくらいした方が、私、紀夏ちゃんと仲良くなれる気がするのよね。あの子、誰にでもオープンなようで、一線引いてるから。うふふ。性格の悪さじゃ、まだまだ若い子には負けないわよぉ」
うふふふ、と津久見さんは心底嬉しそうにスマホをぺたぺたといじっている。
どうやらたった今撮った写真を、岡田さんに送って自慢するらしい。
そんなにこのイベントに岡田さんは憧れがあるのだろうか。
「さっ、じゃあ行きましょ、森山くん。お姉さんと展示デートよ。嬉しいでしょ?」
「(え、えと、はい。ありがとうございます。あんま詳しくないんで、津久見さんがいてくれたら、心強いです)もちろん、最高の休日になりそうだ。津久見さんがいてくれるほど、心が踊ることはない」
「ありがと。森山くんの、そういう素直なとこ、けっこう好きよ……ちょっと大げさで、お馬鹿さんっぽいけどね」
ほんのり頬を染めてはにかむと、津久見さんは僕の鼻先をちょこんと突く。
僕のバイト先の人達が、皆いい人ばかりで本当に助かると、改めて思うのだった。
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