第七章

1

大原警部は朝起きて最初にすることはミルクを1杯飲むことだ。糖分の摂取を何より最優先する。


食卓の前に坐って、焼きたてのパンをかじりながら事件のことを考える。つけっぱなしのテレビからは朝ニュースがながれていた。


事件のことでなにか閃きそうになった時、アナウンサーがとある有名芸能人のスキャンダルを報道したので、そっちに気をとられ、閃きも流星のごとく流れて消えた。


興味津々にテレビを見ている時、携帯が鳴った。


「警部、今どこにいますか?」元気のある若者の声だ。もちろん、新居刑事である。

「家なんだけど、何かあったのかね?」


「いいえ、何もありません。昨日みたいに一人で捜査に行ったのではないかと心配になって連絡しました」


「40をすぎていても、若者に心配されるほど、身体が衰えているわけでもないよ」と言って、大原警部は笑った。


「そうじゃありません。今日は、朝から大原警部と一緒に行動したいんです。家で僕を待っていてもらえますか?」


「いいとも」


「わかりました。すぐ行きます!」


新居刑事の家からここまで、どれほどの時間がかかるかは分らないけど、コーヒー1杯を飲むには十分だと大原警部は思った。


コーヒーの香りに浸っている大原警部を現実世界に連れ戻したのは、けたたましい呼び鈴の音だった。


ドアを開けてみたら新居刑事が額の汗を拭きながら立っていた。


「走って来たのかね?」


「は、、、はい」


「早く中に入って少し休んだほうがいいよ」


「あ、ありがとう、ございます」


部屋に入るなり、新居刑事はソファーに坐って荒々しい息を調節している。当分、元に戻りそうもない。


大原警部はすぐグラスに水を入れて新居刑事に渡した。


「ありがとう、ございます」


「なんでそんなに焦るのかね。僕は逃げも隠れもしないよ」


新居刑事は水を一気飲みして答えた。


「早く来て、早く捜査に行きたいんです」


「若い頃は張り切って仕事をするのは、素晴らしいことだよ。僕の年になると、体に問題が一杯出てきて、なかなか思うどおりにいかないんだ。しかしね、この年になってから感じられるものも沢山あるんだよ。君には分らないんだがね」


「それはそうでしょう。だった、僕はまだ20代前半ですから。それより、行きましょうか?」


「どこへだい?」


「もちろん、警部の行きたい所ですよ。捜査のために役たちそうな情報を集めるために。昨日も一人で情報収集したんじゃないですか?今日は僕も一緒ですからね」


「そうだね。どこへ行こうか?まず」


「はい、まず?」


「コーヒーをもう1杯淹れることから始めよう」


突っ込む気力もなくなった新居記事はソファーの上で横になった。


「新居君はもっと休んだほうがいいよ。朝からエネルギーの消耗が激しすぎるんだ。一日はまだ長いから。朝食は食べたのかい?まだなら一緒に食べない?」


「食べて来ました」


「激しい運動の後はきっと腹が減るから、少しいかが?」


「じゃ、言葉に甘えていただきます」


「そうだよ、年配の人の好意を無にするのは感心しないからね。今時の若者は自己中心が多いから、困ったもんだよ。自分さえよければ、周りの人にどんだけ迷惑をかけても平気でいられるだから」


「警部、若者のことより、事件について話ませんか?」


「事件ね~」


新居刑事も食卓の前に坐って、大原警部が用意してくれた食パンに蜂蜜を塗りながら、テレビの中の女子アナに夢中になった。


「綺麗だね」


大原警部のからかいに、我にかえった新居刑事は何事もなかったように、事件を語り始めた。


「管理人と、内田薫と、長野卓男が犯人でないなら、残りの中で誰が犯人ですか?」


「物証を掴むには多分むずかしいと思う。だから」


「だからなんですか?」


大原警部が言いさしたことが気になった。


「その事は後にして、コーヒーもう1杯いかが?」


「警部!そろそろ行かなくてはいけません。コーヒーだけでも、30分はかかったんじゃありませんか」


「君が女子アナに見とれた時間もそれぐらいだと思うけどね」


新居刑事は答えないまま、残りのパンを口いっぱい頬張った。


大原警部がまだ食事を取っている間、新居刑事は部屋を見物することにした。大した変わりもない。ただ、大原警部は本好きっていうことははっきりと分った。本棚には、隙間なく本が並べられていて、その半分以上がミステリー小説だった。


「警部。ミステリーが好きですか」


「うん、そうなんだ。どうだい、読んでみたくないのかい?」


「僕はあんまりミステリー小説を読まないんです。現実に、そんな事が起こるわけがないじゃありませんか」


「君の言っていることは分るよ」


「それに、トリックが分ったら、読者がまねるかもしれないんじゃないですか?そのところについては各作者は注意してほしいんですよね」


「どういうことがね?」


「例えばですよ、小説の中で、犯人はある言葉をうっかり話してしまったとか、ある証拠をうっかり落としてしまって、探偵役に捕まえられたとします」


「うん。それで?」


「なら、読者は現実でそのような犯行を犯して、犯人だと決め付けられる言葉とか、証拠品を落とさないように努力すれば完全犯罪になるんじゃないですか?」


「それはどうかね。現実にはいろいろんな不確定要素が存在しているから、小説中の犯人がやらかしてない愚行を現実の中でしでかすかもしれない」


新居刑事は考え込んだ。不服な顔をした。


「なら、この話はどうですか?首吊りの死体が発見された。小説の中では多分、足踏みにした椅子がないから、これは自殺ではないと判断するかもしれない。もしくは、その死体は裸足で、椅子に足の指紋が残されていないから、自殺ではないと判断するかもしれないじゃないですか?ならば、現実では、そのようなぼろが出ないよう、犯人は全部事前に準備できると思います」


「そうともかぎらないんだね。人が自殺か自殺ではないかについては、君が言った物理的条件だけではなく、前後の物語にもとづいて判断すべきだよ。はやとちりしたらいけないよ、新居君」


「また、不自然な事もいっぱいありますよ。例えば、靴紐の結び目がさかさまだからと言って、それは被害者ではなく、犯人が結んだと判断することです。あの人は時々、そういうふうに、変な結びかたをするのかもしらないじゃないですか。兎に角、ミステリー小説とかアニメとかは嫌いです。潜在的犯人にいろいろんな情報を与えすぎだと思います。」


「しかしね、新居君。こんな言葉を聞いたことはないのかね?」


「どんな言葉ですか?」


「本当にミステリーを愛する人は犯罪を犯さないっていう言葉を」


「ずいぶんと大それた絵空事のように聞こえますけど」


大原警部は何もいわず、笑っただけだった。


二人は、書斎から出てきた。ニュースには殺人の報道が流れていた。


「殺人はこの世界から消えないんですね。」と、新居刑事は感嘆した。


「永遠に消えないだろう」


大原警部は食卓の上にあるコーヒーを一気飲みして言った。


「食事も終ったし、行こうか」


「はい、了解です!」


車に乗った二人はアパートに車を走らせた。


「そういえば警部」


車が赤信号を待っている間、新居刑事が聞いた。


「なんだね?新居君」


「警部はもしかして、安楽椅子探偵を目指してわざと太ったのではないでしょうね?」


「そんな事がありえると思うかね?」


「ありえないこともないじゃないですか」


「僕の場合は違うよ、昔からこんな身体だったから。それに、安楽椅子探偵だからと言って絶対太っているというわけでもないよ」


大原警部はあえて昔の自分のことを言おうとしなかった。もし、二十代の写真をみたら、新居君は仰天するかもしれない。今とは全く別人に見えるからだ。


「そうですよね」

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