第三章

1

「警部、ご飯も食べ終わったし、これからは住人の聞き込みに行きましょうか?」ご飯のお陰なのか、新居刑事はすこぶる元気だった。


「そうあせるんじゃないよ。その前に……」


大原警部が言い終わる前に新居刑事が口をはさんだ。


「早く行きましょう。警部」


「住人も証拠も逃げはしないよ」


「犯人が証拠を消滅するかもしれないじゃないですか?」


「警察が見張っている中でかい?そんなにも大胆な犯人はいないと思うけどね」


渋い顔になった新居刑事に大原警部はさらにつづけた。


「証拠は今全部警察が押さえてあるから、新しく出たところで何の役に立たないね。新しい物証を捜し求めるより、新しい証言を捜し出すのがもっと事件に役立つって事を覚えておいて」


「はい。しかし、犯人が自分に都合のいいことを考えて話をまとめることだってあるんじゃないですか?そうなるとどうします?」


「そうだね。あるかもね。しかし、よく考えてみたまえ。一つの嘘を実現するためには、後もう九つの嘘をつかなければならない。そのうち、ぼろを出してくれる犯人もある」


「さらに九つの嘘が必要ですか?ずいぶんと正確な数値ですね。そんなの数えてるんでしょうかね?」


「ただの例えだよ、例え」


「えっ?そうですか?」新居刑事は何か考え出たらしく話をつづけた。「今回の犯人が、頭の回転がすごくいいやつだったらどうするんですか?ぼろを出さないという可能性もあるんじゃないですか?」


「犯人がどんなに頭を絞って巧く私たち警察を騙したとしても騙しきれないんだよ。新居君。それに、ぼろをださないなら、僕がぼろをだすように仕向ければすむ問題さあ。そうじゃないかね?新居君」


もっともらしい大原警部の言葉に新居刑事は何も言わなかった。


結局のところ、新居刑事は大原警部のコーヒー時間にも付き合わされる羽目になった。いよいよ聞き込みに入れると思った新居刑事の思いと裏腹に、大原警部は近くを歩き回った。


「現場のアパートにはいかないんですか?」と新居刑事。


「アパートがよく見える場所がないのかねぇ?」


「なんでですか?」


「目撃情報が見えるかもしれないんだろう?」


「そうですね!」新居刑事は喜んだ。ようやく大原警部がやる気を出すと思ったからだ。


二人はアパートの周囲を見回った。


それに周りにある商店や住人にいろいろと聞き込みしたのだが、特に有用な情報はもらえなかった。


「いまいち、大事な情報はないんですね」と新居刑事は半ばあきらめた口調で言った。


「なぜそう思うかね?」


「だって、こんなに歩いたのに、大した情報がなかったのですから」


「つまり、真実に近づいていくってことになるんだ」


「どういう意味ですか?」


「つまりだね」


大原警部はアパートの正面に戻った。


それから向かいにあるビルに目を付けた。


「そこからはアパートがよく見えるんだね」


「そうかもですね。真正面だし、窓も大きいし」


「じゃ、行ってみようか?」


「今からですか?」


「今から」


二人は例のビルの前に着いた。


「二階の陶芸教室へ行ってみよう」と大原警部。


「なぜですか?」


「刑事の感?」


「そんな曖昧な表現で大丈夫ですか?」


「だってほら、一階は貸出になってるし、三階からはオフィスになっていて、殺人時間には誰もいないからよ」


こう言って二人は陶芸教室の見学に入った。


「警部、なんで現場に行かないんですか?」新居刑事は看板を見ながら、「陶芸教室?なぜここに来るんですか?意味あります?」


「意味があるかどうかは話してみてからわかるもんだよ。一階は売買に出てる部屋だから二階のこの陶芸教室を調べた方がいいと思うからね」


「どんな意味ですか?まさか目撃情報?」


「目撃情報があったらいいけど、期待できるかねぇ」


陶芸教室は事件のあったアパートと道路を挟んで真向かいに建ってある5階建ての2階にある。


大原警部はコンコンとドアを叩いた。


迎えてくれたのは着物姿のすらっとした女性。淡い化粧が効いていて、実際年齢が分らない。一重の目に寂しさが流れてて来る。いたわしく思われる。


「こんにちは、陶芸教室にご参加なされるお方でしょうか?」声もずっと若い。


「いいえいいえ、ドアの前に飾られた陶芸品はあまりにも立派なもんでして、見学にと思い、伺いました」


大原警部はもっともらしい嘘をついた。


「そうですか。ではお入りください」


ごちんまりとした陶芸教室には新居刑事と大原警部以外に誰もいなかった。大原警部はまっすぐに窓へと向かった。窓からは向かいの殺人現場、つまりアパートが見える。同じ高さ、それに隔てている道も広くないので、アパートの二階がはっきりと見える。警察たちが忙しく205号室から出入りしている。ここはアパートを監視する絶好の場所だと大原警部は思った。


窓から離れて棚に飾られた陶芸品を大原警部はじっくりと鑑賞した。陶芸には門外漢だが、飾られた品々は素晴らしいと一目でわかる。新居刑事はその後ろをいらいらしながらついていた。


さっきの女性は奥にある部屋に入って出てこない。


「警部、そろそろ現場に行ったほうがいいと思いますけど」


新居刑事は大原警部の耳元でつぶやいた。


「新居君、人間が作り出したものには必ずその人間の感情が映し出すもんだよ。この作りかけたものを見てごらん」


新居刑事は大原警部が指で指した作りかけた粘土を見つめた。


「よくわかりません」新居刑事は素直にいった。


「分らないのは僕も同じだよ」そう言って大原警部は笑った。


なにか文句でも言おうと新居刑事は口を開いたけどつぐんでしまった。ちょうどその時、あの女性がお茶を持って出てきたからだ。


「よろしければお茶でもいかがですか?」


「それはありがたいお話しです。ちょうど喉が渇いていまして」


大原警部と新居刑事は誘われるがままソファーに坐った。女性は上品な物腰でお茶を配ってくれた。


お茶を一口飲んでから女性の方から口を開いた。


「もしかして、警察のお方じゃございませんか?」


「はい、そのとおりです」


「なんで分ったんですか?」新居刑事は不思議そうに尋ねた。


「わたくしの年頃になると人を見る目が勝手にうまくなるもんです」こういって女性は落ち着いた口調で続けた。「やはり、殺人事件の捜査ですか?」


その問いかけにはおばさんたちの好奇心のような感じがなかったので、大原警部も世間話のように答えた。


「殺人事件です」


「いやですね。こんなのどかな町並みの中であんな恐ろしいことが起こるなんて。わたくし、ここではもう30年以上暮らしましたけど、強盗とか窃盗とかそんな類の事がおこったなんて一度も聞いておりません。恐ろしいですわ」女性の方はわずかながらびくっとした。


「事件っていうのは思いがけない場所で起こるんですよ」と大原警部。


「そうでしょうね」


女性は俯きながら答えた。


「ところで、あのアパートに住んでいる住人の事はご存知ありませんか?」


出し抜けにこんな事を聞かれたので女性は少々驚きはしたが、すぐ答えた。


「わたくし、どうしても苦手なんです。人と関わるのが。いろいろな人を見てきましたけど、どんでもない人見知りなもので。お恥ずかしいことばですが、この店のためにももっと宣伝はしたいですけれども、不器用なものでして。だから、こんな時間にも習いにくる生徒が一人もいないんですよ」


「なら、どうやって続くんですか?収入がないなら」


新居刑事はすぐ尋ねた。


「そうです。だんだん赤字になってるので、もうそろそろやめて田舎にでもいこうかなぁ、と思い始めたところです」


こう言いながら女性は苦笑した。


「女将さんがもっと働きかければ、この店もきっと繁盛するでしょう」


励まそうと大原警部はこう言って聞かせた。


「お褒めの言葉、ありがたく受け取りいたします」


とっくに熱いお茶を飲み干した新居刑事はこの緩やかな会話をこれ以上聞けなかった。


「警部、そろそろ……」


新居刑事の合図を受け取った大原警部はうなずいた。


「そうだね、もしよろしければお茶をもういっぱいいただけますか?」


「違います!」


むっとなって叫びだした新居刑事は自分の失態に気付き、女性に軽くお詫びの会釈をした。


「早く戻りましょう。やらなければならないことがいっぱいあります!」


「若者は元気が溢れていて羨ましいです。それではここでお暇します。お茶、ご馳走様でした」


「いいえ、どういたしまして。いつでも遊びにきてください。お待ちしております。」


「それはありがたいことです」


ドアまで見送った女性は大原警部を呼び止めた。


「あの、実はお役にたつかどうか知りませんけど」躊躇いながら女性は言い出した。


「何か気がかりでもおありですか?」大原警部が尋ねた。


「気がかりというほど大それたことではないかも知りませんけど」


女性はまだ迷っていた。


「ぜひお話しください」


「はい、実は昨日の夕方、駅から帰る途中の事です。あそこに住んでいらっしゃる方を見たのです」


「アパートの住人ですか?」


「はい、なにか思いつめたような顔をしておりましたので、はっきりと覚えております。ずっと俯いて歩いていました。確かにあのアパートの住人だとは知ってますけど、名前まではしりません」


「その男性の顔は覚えていらっしゃるんですか?」


「特徴といえばあの男性の方は前髪を長く伸ばしておりました」


「どんな服装をしていましたか?」


この問いにも女性は戸惑いはしたが、まず謝ってから話し出した。


「わたくし、人の服装より顔をみるのが好きです。変わった癖だとよくいわれますけど、もう直すようがございません。わたくしの癖でここをやめた学生さんもおりましたので」


女性の顔は少し紅潮した。


「お役に立ったかどうか?」


「大変貴重な話を聞かせてくださってありがとうございます。ところで、ここからはアパートの様子をはっきりと見渡せるんですよね」


大原警部の問いに、女性は気まずそうな顔をした。何も訊かない方がいいと思った大原警部は別れの挨拶を交わして陶芸教室を出た。


陶芸教室を後にして、二人は殺人事件が起こったアパートに向かった。

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