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「新居君、遅いんじゃないかい?」


「すみません。めまいがしたもので」


「早くなれないとね」


「そうですよね。早くなれたらいんですけど」


「二三回見たらなれるよ」


「そんなもんですかね」


「そんなもんだよ」


新居刑事は一人でいろいろと考えながらイチゴ牛乳を一気に飲み干した。


糖分を摂食した新居刑事の気分が大部よくなった頃を見計らって大原警部はまた話し出した。


「今回の事件をどう思うかね」


「恨みによる衝動的殺人っていうところじゃないですか?それ以外には考えられません。ドアも壊された形跡がないし、部屋が荒らされた形跡もないし。通り魔の殺人には見えませんね」


「衝動的だったら手近なものを凶器とする。でも今回はわざわざキチン台にある包丁を取りにいって殺したんだよ。まあ、キッチンはすぐそばにあるけどね。それに、倒れた状態から見ると、殺される前にはキチン台の方を見ていると思うんだがね」こう言って大原警部は口をつぐんで考え事をした。


「ならどういうことになるんですか?」新居刑事が尋ねた。


「住民たちの証言を集めないかぎりなんともいえないね。ところで、聞き込みはまだ終ってないのかね」


「後もう少しで終ると思います」新居刑事は何か思いついたらしく言葉を続けた。「警部は『聞き込みだけは他人に任せない』と言ったんじゃありませんか?」


「うん、言ったよ。しかしね、一応見ないと同じ質問応答が繰り返されるから、それがまた嫌われるんだよ」


「そんなもんですかね。二回訊いたら違う証言が得られるかもしれないじゃないですか。それに、言い忘れたことを思い出すかも知れない」


「一理あるね。確かに違う証言が出てくるかもしれない、言い忘れたことを思い出すかもしれない。しかしね、新居君。証言を集めて本当か嘘かを判断するのは僕たち警察の仕事だってことを忘れてほしくない。後はね、事件っていうのは細かい点まで知る必要はないんだよ。知れば知るほど事件は複雑になって、あえて難航しがちなもんだから。俺たち警察はね、物証より人間のふとしたところに示す仕草をもっと注意を払うべきなんだ。そうすると嫌われなくて済むんだから。物証で『あなたは犯人です』と決め付けるより、犯人がついた嘘を見破るのが警察のすることなんだよ。分ったね?」


新居刑事は黙っていた。大原警部の話に少しは納得したけど、犯人を突き止めるにはやはり物証が大きな役割を働いていると思った。


新居刑事が書類を見ている時に、ノックの音がした。入ってきたのはあの大柄の鑑識で、証言を集め、書き示した書類を渡して出て行った。


ざっと見渡した限り、内田薫と管理人の証言が一番役に立った。


内田薫は昨夜、仕事帰りに友人と居酒屋へ行って戻ったのは0時45分頃だという。ドアを閉めて靴を脱ごうとした時、廊下を走り渡っていく音がしたという。


管理人の証言によると、昨夜23時35分頃に上の階で、つまり長谷川健也の部屋でなにかが床に落ちたドカンという音がしたので目が覚めたという。時間はその時確認して、今度また大きな音を立てたら文句言いに行こうと思ったけど、それきりだったのでそのまま布団に入ったという。


「これで死亡推定時間は絞りましたね」と新居刑事。


「本当にそう思っているの?新井君」


「どういう意味ですか?」


大原警部は含み笑いをしながら頭を横に振った。


「仮に、時間が23時35分に起こったとしたら、その後君はどうするつもりかね?」


「最初にすべきことは聞き込みでしょう。このアパートの住民だけではなく、周りの住宅に住んでいる人達にも訊くべきだと思います。でもその時間は普通寝ているので、目撃情報は得がたいと思います」新居刑事は顔をしかめた。


その時、鑑識が入ってきて包丁に残ってあったもう一つの指紋が誰のものかが判明したといった。内田薫の指紋だった。


「犯人は内田薫じゃないですか?」新居刑事は素直に言った。


「指紋で犯人は内田薫と特定するのは強引だなあ」


「やはりそう考えているんですね。では、犯人が内田薫じゃないと思うのはなぜですか?」新居刑事が尋ねた。


「犯人が内田薫ではないと確定したわけではないよ、新井君。犯人が内田薫と決め付けるわけにもいかないよ。それに、今時の犯人は指紋を残すほど間抜けじゃないからなあ。ドラマ、小説、アニメ、漫画などに推理に関する情報がいっぱい載ってあるだろう。誰でも指紋は拭き取るべきだということくらいは分っているよ」


「でも、そこが犯人の狙いなのかもしれないじゃないですか?」新居刑事は負けずに自分の意見を述べた。


「そういう可能性もありうるね。でもね、新居君。そうすれば、容疑がかけられて警察にひどく問い調べられるんだよ。そんなことする人がいると思うかね」


「そうですね」新居刑事も認めはしたんだが、「でも、」


大原警部は片手を挙げて止めた。


「そういう話は後にしよう」


「聞き込みに行くんですか?」元気をちょっと取り戻した新居刑事は言った。


「違うよ」大原警部は頭を振った。「もう正午だから、昼ごはんを食べないと。先からお腹がべこべこだったからね」


新居刑事は頭を力なく垂らした。


他の警部の下で働いたらもっと、いろいろんな現場の経験を教えてもらえるかもしれない、と秘かに新居刑事は思った。大原警部のようなのんびり屋は警察に向いていない。警察は人のためにいつも全身を捧ぐのが当たり前、大原警部の行動からは、そんな熱意が微塵も感じられない。今回の事件が終わったら移動しようかと、新居刑事は本気で思い始めた。


(今回の事件が終ったら、移動を申し込もう)と新居刑事はひそかに思った。


大原警部が新居刑事の心を見透かしたようだ。


「警察はいつも必死で頑張らなければならないのかね?」


一瞬、びくっとしたが新居刑事はすぐ答えた。


「僕の考えは、警察がそうするのが当たり前の事だと思います」


「でもね、新居君。警察も人っていう事を忘れてはいけない。疲れる時だってある。すべての事を必死でやらなくてもいいんだよ。そうやるべき事と、そうやらなくてもいい事があるからね」


「なら、どんな事に大原警部は必死でやるんですか?」


「殺人事件ではない事にはいつもそうやっているつもりだけどね」


「なぜ殺人事件は必死にやってはいけないんですか?」


「いいかね、新居君。人が瀬戸際に立って助けを求めている。僕は必死で現場に向かう。人が人を傷付けている最中なら、僕も必死で現場に向かう。しかしね、殺人事件はもう事の成り果てた結果なんだよ。必死になったところで死者は蘇れない。だから、僕たちは冷静に解決しなければならないんだよ。被疑者に悪い思いをさせではならない」


「でも、速く現場に向かわないと大事な証拠がなくなるかもしれないんじゃないですか?」


「日本の警察は優秀だ。そんなことが起こらないように必死で頑張る。だから私たちは冷静になって真犯人を逮捕することに集中することだね。」


「真犯人?」新居刑事は、犯人ではなく、真犯人といった大原警部の言葉にいぶかしく思った。


「冤罪の事だよ。物証だけに目をとられ、早く解決しようと焦って、証言と人間関係に隠された真実を見つけないと、冤罪になりがちなんだよ。よく、覚えておくんだなあ、新居君」


「はい」


まだ迷いのある新居刑事の答えに、大原警部は優しく笑うしかなかった。いずれ分る時がくると、大原警部は信じている。


大原警部が資料をまとめているので、新居刑事はてっきり次の仕事に取り掛かると思ってしまった。


「警部、行きましょうか」


「うん、そうだね。今からでも遅くないから、早く言ったほうがいいよね」


「はい、了解しました」


大原警部はさっき一人でアパートの周りを観察した時、カレー屋とイタリアンレストランが見つかったので、電話番号を携帯に入力した。


立ち上がった大原警部は窓際に行った。


「新居君」


「はい!」


「カレーとイタリアンレストラン、どっちが好きかね?」


食事の話に新居刑事はあっけに取られた。


「なんですか?」


「カレーとイタリアンレストラン、どっちが好きかね?」


大原警部のおかしな問いに新居刑事はまじめに考えて答えた。


「カレーです!」


「なら決まり!」と大原警部は言って、カレー屋の番号を押した。「もしもし、カレー屋ですか?カレー2人前お願いします。」


大原警部が電話をきるの待って、新居刑事は不平を言った。


「警部、なんですか?あの電話は」


「まあまあ、先ずご飯から食べて仕事をしようじゃないか」


新居刑事はまたさっきの事を考えた。この警部の下で働くと何を学べられるか。多分、太って行くのが唯一の影響かもしれない。


絶対太りたくないと新居刑事は筋トレを毎日しようと決めた。

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