2
朝になったので竜を呼び起こした。なかなか起きようとしない竜。
寝返りをうってまた眠りに入ろうとしている竜を何とかして起こすことに成功した。
「バイトは夜からだよ、こんな早く起きったってやることはなにもないよ」
眠たげな目を揉みながら竜は服を着始めた。
「やることがない?そんなことはないでしょう。ギターの練習でもしたら?」
「本当に朝っぱらからうるさいなぁ」
「僕も朝からこんな話したくないよ。でも、竜がちゃんとしないとだめじゃない?もう東京に来て2年も経つんだから。なにか結果を出さないと年だけとってしまうよ。竜もそんなのいやでしょう?」
僕の話に耳もかさないで竜は部屋を出て行った。
冷たい水で顔を洗っても竜の目は寝不足みたいだ。
「朝の日差しは気持ちいいでしょ?毎日、お昼までベッドのなかで転がると身が錆びてしまうから。これからも早く起きるように、ちゃんと見はるね」
「……」
竜は何の返事もしない。
「竜、ちゃんと聞いていいるでしょう?今日からは僕も動くからね。竜がちゃんと夢に向かって進めるように」
竜は口もとの歯磨き泡を洗ってから部屋に戻ろうとした。
「僕の話を聞いてる?」
「はいはい」
竜にまた何を言い聞かせてやろうと思って口を開けかけてやめた。ちょうど、101号室に住む田中さんが出てきた。
田中さんは40、50代ぐらいの女性だ。化粧が効いていてうんと若く見える。若く見えるのは見た目だけで、こころはすっかりおばあさんになっている。他人のうわさをするのが一番の楽しみ。やはり、顔の化粧は心まで若くしてくれない。
竜は洗面台の前に立って田中さんが寄ってくるのを待った。別にうわさが好きっていうわけではなく、ここで先に帰ると変なうわさがたちまち近所に広がっていくからだ。
「おはようございます」竜が挨拶をした。
「おはよう、竜君。今日は随分と早いね」
「はい、たまにはいいじゃないかと思って」
「そうだよ。早起きはすっきりするからね」田中さんはにっこり笑った。「バイトはどうしたの?あっ、そうだった。バイトは夕方からだったよね。じゃ、今日はゆっくりごはんも食べれるんだ。ご飯をちゃんと食べるのは体にいいよ。今は何も感じないけど、年を取ったら健康の大切さがしみじみとわかるから」
竜のスケージュールはいつのまに、田中さんが全部把握しているらしい。
「はい、そうですね。健康は大事ですよね」
「あたしは今からバイトに行くの。どこで働いているかは前に言ったわよね。そう、コンビニなんだけど、店長がね、それはそれは無能ったらありゃしないよ。受注とか全部バイト達にまかせっぱなし。それなのに少しのミスがあったらすぐ怒ったりして。この間の店長は見ものだったわ。女房が店にまできて暴れだしたのよ。それなのに店長はね、頭を下げてぺこぺこと謝るだけだったの。女房が帰ったとたん、腹いせにバイト達をののしるのよ。あんな大人って嫌われるよね。えっ、あたしは?あたしはね、長く働いたから逃れたんだけど、新人のバイトは大変だったよ。中には女子高生があって、つい泣いてしまった子もいるのよ。かわいそうに」
かわいそうに見えたらなんで庇ったりしなかったのか、と僕は思った。かわいそうな感情より面白いと思って野次馬根性を丸出したのに違いない。
また何かを話そうとした時、階段を下りてくる声がしたので、田中さんはそこに目をやった。竜も気になったらしく階段の方を見た。
降りてきたのは201号室に住む長谷川健也。長谷川健也はギターを背負って降りてきた。竜にあざけるような眼差しを向けてから、すぐ田中さんには軽く会釈して玄関を出て行った。
「あの子は人をばかにするところがあるね」窓から長谷川の姿が見えなくなったことを確認して、話をつづけた。「最近になって態度がますますでかくなったのよね。話によると、どこかの大手音楽会社に入ったらしいの。性格ががそうでは、売れっ子になれないと思うの。最初は人気が出るかもしれないけれど、すぐ下り道を歩くわ。あんないやな性格に少女たちは惚れるけど、すぐ目覚めるの」
「そうですね」
これは、竜が返事に困った時の決まり文句だ。
「そういえば、あなたはずっとバイトする気なの?就活は始めない?若いからといって、のんびりしていると手遅れになるんだよ……」
これは竜の大嫌いな話題だ。もともと計画性がなくて、行き当たりばったりな生き方をしているから、先の事を考えたりもしない。歌手になりたがっているのは竜の夢であって、手の届かない夢でもあった。実現できる未来ではない。その事に早く気付いてほしいけど。
竜はいやな感情を顔に出さないよう努めた。
「そういえば彼女はないの?」
竜は頭を横に振った。
「もったいないね。いい男なのに。そういえばこの間にね、面白いことをみたのよ。あの長谷川君と」ここまで言って田中さんは口をつぐんだ。また誰かが階段から降りてきたからだ。
「おはようございます」内田さんは明るい笑顔を浮かべて挨拶した。内田さんは205号室に住んでいるOLだ。腰まで伸びた髪はつやがあって綺麗。内田さんをみると、いつも人形を思い出させる。
「おはよう。会社?」田中さんが訊いた。
「はい」声は優しくて聞き飽きはしない。品のよい物腰。これこそ日本のナデシコかもしれない。
竜は内田さんに見とれて玄関から出て行くまでずっと視線で追った。
「あら、鈴木君は内田さんの事が好きなの?」田中さんは面白がって言った。
「えっ!ち、違います」竜はすかさず否定した。けど、顔は紅潮しはじめる。
「人は見た目で判断しちゃいけないわ」
「そういうもんですかね」迷いながら竜は答えた。
この答えに田中さんは満足してないらしく、声をひそめて話し出した。
「きっぱり言ってそうだよ。さっきの話なんだけど、この間長谷川君が内田さんと一緒にいるのを見たのよ。なにかもめごとをしているみたいで、すごい剣幕だったわ。あたしは別に立ち聞きがすきだからじゃなくてよ。ちょうど角を曲がろうとした時、長谷川君と内田さんが争うのを見ちゃって、そのまま通るのも気難しいから、離れるのを待ってたのよ。そこで、聞こえてきたんだけど、内田さんはいろいろと酷いことを言ったのよ。それに対して長谷川君は冷ややかな態度で『それで?』とか『俺には関係ないことだろう』とか言ったの。痴話喧嘩というより、あれは夫婦喧嘩みたいなもんだったわ。あんなにおとなしそうな女の子がそんな、はしたないことを口にするのはどうかと思うけどね」
田中さんは気付いてないけど、僕は竜の心にわきあがってくる失望の念を感じた。思い寄せている人が他の人と付き合っていたと知ったら、きっと悲しむだろう。そもそも、竜には自分から進んで付き合いを申し込む度胸などないから、いつもの結末だけど。
話はいつも間にか203号室の長野さんになっていた。
「長野君には最近ずっと会ってないないわ。夜にね、スーパーへ買い物に行くと何回か会ったことはあるんだけど。今は全然姿をみせないんだから。オタクって怖いよね。部屋に引きこもって何をやらかしているか、まったく分らないんだから。好きなアイドルの写真なんかを見て、一人でにやにや笑うところを想像するだけで寒気がするわ。不気味だもんね」と田中さんは身震いした。
自分の考えが確かだという確信をもらいたくて、目をぱちぱちしている田中さんに竜は「そうですね」と答えた。
田中さんがまだ何か言おうとしているのを見て取って、竜が先に切り出した。
「あの、時間が」
「あら!もうこんな時間。あたしはもう行かなくちゃ」玄関の戸口まで行った田中さんは部屋に行こうとしている竜を呼び止めた。「そういえば、今日は家賃の支払い日ってこと覚えているわね。あの管理人はいつもにこにこして優しそうだけど、金だけにはとてもうるさいんだから。あたしね、先月の家賃を一週間遅れて払うと言ったのよ。それでどうなったと思う?」
礼儀上、竜はどうなったんですか?と訊いた。
「それがね、毎日電話してくるのよ。毎日だよ」ここでいったん言葉を切らしてあの時のいやな思い出を追い払うように頭を振った。「少なくとも毎日三回はしたんだと思う。一番酷かったのはね、深夜にも電話掛けてきて『家賃を忘れないでください』というのよ。そういって勝手に電話を切るの。それであたしは寝不足になって、大変だったわ。それでクマもできてしまったのよ。クマを消すのにたいへんだったんだからら。高~いアイクリームを買ったの。思い切って。でもね、高いだけあって効果は抜群なのよ」
田中さんはまた何か話そうとしたけど、腕時計をちらっと見た。
「本当に行かないと、遅刻してしまう。すっかり長話になった」
「いってらっしゃい」竜はほっとしたような顔付きで言った。
「いってきます」
竜は玄関を出て行った田中さんの後ろ姿を目でおった。
「そんなにのんびりしながら歩いていくと、絶対遅刻するけど、大丈夫かな」竜はいった。
「大丈夫もなにも、遅刻しても自業自得でしょう」僕はそっけなく言った。
「冷たい」
「冷たいわけではない」
「それが冷たいっていうの」
この問題で竜と言い争う気はなかった。部屋に入った竜がすぐベッドに上がった。
「何してるの?」僕が訊いた。
「ちょっと休ませて」
「何もしてないのに、何を休むの?」
「田中さんと話したら、疲れてきたの」
人が何かをしたくないと心で決める時、いつもいろいろんな理由をこじつけられるのでそのままほったらかした。
後で後悔するくせに、と心の中で冷やかしたけど、こんな竜を見ると口の中にすっぱい唾が広がるような感じがした。このまま竜にすき放題、時間の無駄使いをさせたら一生駄目人間になる。でも、竜は今までこんな生活の中で生きてきた。底のない沼の真中に立っている。唯一助けられることは夢という縄なのに、僕にはどうすれば手伝ってあげられるのが分からない。
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