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本日休業という札がドアにかかってたので、大原警部はそのままアパートへと足を運んだ。
「来るのではないかと思いました」
玄関の前に陣取っていた田中富士子は大原警部が近づくのをみて、小走りて走り寄った。
「それはそれは、何か心をかけている住人さんが現れましたか?」
「そうなんです。あたし、心配で心配で。しかし、こういうことは面と向かって話すわけには行かないんです。あの子は普段からあたしを嫌がっているみたいなので。今朝も『困ったことがあったら、あたしに話して』と声をかけたんですけど。すると、あの子が何を言ったと思います?」
大原警部は知らないふうに頭を振った。
「『人事には首を突っ込まないでくれます?』というんですもの。あたしはとても悲しくってたまりません。親切心で尋ねただけなのに。しかもあんなことまであったんですもの。若い娘にはきっと大きなトラウマになるんですわ」
田中富士子は自分が導き出した答えが満足だったらしく、重々しく首をうなずいた。
若い娘の言葉で大原警部は内田薫の事を言っているのと分った。
「そうですね。殺人事件は確かに人の心を変えてしまいますね。特に、若い娘は感受性が高いから」
「ごもっともです。でも、若い人は私たちの思いやりをいつもめんどうくさがっていて、本当に困りますわね。これだけ長く生きているんだから」
大原警部も自分の言葉に納得している様子をみると、田中富士子は喜びの微笑みを絶えなかった。
「さっきの面と向かって話せないって言うことは何のことでしょうか?」
自己満足に陥ってしまった田中富士子を呼び戻した。
「そうでしたわ。昨日の夜、管理人室から声が聞こえてきたんです。盗み聞きをしようとする下心は決してありません。あたしの部屋は管理人室のすぐそばだから、いやでも聞こえてくるものです」
ここで大原警部は、昔のアパートは全部そういうものです、と相槌を打った。
「本当ですわ。声が全部聞こえてくるんですから、前にも一度管理人に壁を防音になるよう改装してくれないかと頼んでみたら、『自分で金だしてするのは勝手だが、こっちはそこまでやってあげる義理はない』というんですもの。酷いですわね。あたしだって管理費はちゃんと払っていますよ。それなのに、これなんです」
本当に改装したいのか?と心の中で大原警部は思った。
「でも、自分でする金もないですしね」と田中富士子は苦い笑みを浮かべた。ここで漸く本題に入った。わざと周りを一周見回しもした。誰もいないことを確認してから「あっ、そうだった。昨日の夜の事でしだね。いつもとおり部屋でくつろいでいたら、管理人さんから内田さんの声が聞こえてきたんです」と言った。
「どんな話をしていたんですか?」大原警部は興味を示して訊いた。
「内田さんの声が聞こえたまでです。はっきり会話の内容が聞こえてきたわけではありません」田中富士子はもったいぶっていやな顔をした。
「ごもっともです。ですが、話し声が聞こえてくるのは、田中さんにもどうしようもないことではありませんか。最近の若者の声は特に大きいですから、いやでも聞こえてくるでしょう」
大原警部の言い回しに田中富士子は納得がいったらしく話しを続けた。もともと、田中富士子はこの話しをしたくて警部を待っていたから、すっかりその気になった。
「そうですね。所々、声が壁の向こうから伝わってきたものですので、明確には分りませんが、確か『そんな事、やめてもらえませんか?』とか『私がやったのじゃありません』とかを言ったと思います。その後は……」
ここで田中薫は言いよどんだと思ったら、急に顔が赤くなった。
「その後は?」と大原警部が訊いた。
「その後は、なんと言えばいいでしょうか。男女の交じり合いのような声、といったところです」
そういえば、今日の内田薫はどこは変な感じがしたなあと大原警部は思った。もしかして、管理人が内田薫の弱みを掴んで脅かしたりしたのでは?睡眠薬はこの世界と別れをするため?それとも管理人と無理心中をするため?いろんな仮説が大原警部の頭の中で飛び回った。
大体の事は分ったので大原警部は礼を言った。
「いいえ、あたしの話しでこの事件に少しでもお力になれればいいかと思ったまでです」
「田中さんは実にすばらしい。あなた方みたいな住人がいれば警察の仕事もさぞかしはかどるでしょう。それに、周りの人の事も気にかけている本当に優しい人なんですよね。私の金城にも田中さんみたいな人がいたらどれだけいいんだろうと思いますよ」
「本当ですか?」
田中は微笑みが絶えなかった。
「本当です」
大原警部の褒め言葉にすっかりいい気になった田中薫はまた思わぬ事を漏らした。
「実はですね。昨日、晩ご飯を食べてから近所といろいろと話しをしたんです。そこで、水野さんから、水野さんはすぐ近くのマンションに住んでいる主婦ですけど、同じ店で働いているので仲良くなったんです。とてもおしゃべりが好きな人で、昨日もいろいろ話してくれたんです。前まではあたしたちの話すことをじっと聞いただけだったんですけど、最近はどうしたのか、誰も知らない情報をいっぱい持っているようになりました。その事であたしの前で偉そうな顔をしているんですけど、あたしは別に気にしてはいません。あたしは確かに情報屋と言われるほどでした。しかし、そんな綽名にこだわってはいません」
こだわっていないといいながらも、田中富士子の表情は切なくて悲しかった。悔しいながら、妬んでいるようにも見えた。完全に気にしていないと言い切らない。
話が本題から外れたので大原警部は軽く咳払いをした。
「あら、すみません。で、その水野さんがこの間、東京方面へ行ったらしいんです。そこで誰に会ったと思います?」大原警部は分りませんと言ったので田中富士子は続けた。「橘さんですよ。あの陶芸教室の」
田中薫は顎で道路の向こうにある陶芸教室を指した。
「一番驚いたのはあの橘さんが長谷川君と一緒に喫茶店へ入ったことです。何かあるかと思って水野さんも付いて入ったんですけど、あいにくあの二人は個室に入ったのでそのまま帰ってきたらしいんです」
「喫茶店の場所はご存知ですか?」
「確か渋谷にある『渋茶』と水野さんはいいました。渋茶って変な名前じゃありませんか。オーナーのセンスも悪いもんですね」
まだ話がずれそうだったので、大原警部は隙を狙って口をはさんだ。
「その時の二人の表情は分りますか?」
大原警部の田中富士子は少し考えてから答えた。
「はっきり覚えているわけでもありません。ただ水野さんの話によると橘さんはうな垂れて長谷川君の後をついていったそうです。何だか怪しいんですね。こんなに近く住んでいるのに、人の見損ないともいうべきでしょうか。橘さんも変ですのよ。3ヶ月前に急に引っ越してきて」
「えっ!本当ですか?」
大原警部のびっくり様を見て田中富士子は、自分がうっかり口をもらしてしまったことに気付いた。
「あら、そんな事を言いました?」ちらりと腕時計をみて、「あたしバイトに向かわなくてはなりませんので、ここで失礼します」と言って田中富士子は背筋をびしっと伸ばして歩いていった。急いでいる様子はまったくなかった。
田中富士子はまだいろいろんなことを隠している。次に会ったら話してくれるんだろう。
それにしては、橘さんは何を隠しているのだろう。なぜ、3ヶ月前にここへ引っ越してきたのに30年前からここに住んでいたと嘘をついたんだろう。しかも、向かいはアパート。この中には何かあるかもしれない。新居君に頼んで橘さんの過去を探ってもらうほうがいいね。
大原警部は携帯を取り出して、新居刑事の番号を押した。
「新居君がね」
「警部!今どこにいるんですか?なぜ署には帰ってこないんですか?会議はどうなると思いますか?電話しても全然繋がらないし。早く帰ってください」
新居刑事は激しく言い切った後、大原警部は穏やかに言った。
「それより、調べてもらいたいことがあるんだよ」
「なんの事ですか?」仕事の話になったので、新居刑事も落ち着いてきた。
「昨日行った陶芸教室の女性を覚えているんだよね」
「はい、もちろんです。忘れるわけにはいきません」
「ならいいんだが、橘という苗字なんだ。橘さんについていろいろと調べてもらえないかね」
「それはなぜですか?橘さんはアパートの住人と関わりがないと僕は思っていますけど」
「関わりがあるかもしれないんだ。昨日、橘さんが言ったことを覚えているんだよね。確かに、30年前に引越してきたと言ったが、今日偶然に田中さんの話から新たんだが、橘さんは3ヶ月前に引越してきたというんだ」
「それはおかしいですね」
「だから、まず橘さんの事を調べてくれ。頼んだよ、新居君」
「はい。分りました!あっ、ちょっ、ちょっと待ってく……」
大原警部は新居刑事の話を最後まで聞かずに電話をきった。
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