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内田薫の会社のすぐ傍に雑誌にも載せてあるほど、うまいと評価される韓国料理屋があった。


「新居君。その前に、食事を済ませてからでも遅くはないと思うけど?甘いものも食べてなかったしな」


「だめです!」新居刑事はきっぱりと断った。「食事は内田薫の事情聴取が終ってからしましょう。時間がないんです」


「なんの時間かね?」


「それは解決までの時間です。ご飯はもう少し辛抱してくださいよ」


「しかしね、新居君。お腹がすいていると、どうしても仕事に精がでないんだ。だからね、ここは先ず食事をとるべきなんだ」


大原警部はすぐ、韓国料理屋へ足を向けた。


「我慢してください」新居刑事は大原警部の腕を引っ張って会社の中へ入った。


大原警部も抵抗はしたけれども、やはり若者には勝てなかった。ぶっきらぼうな顔をしている大原警部に、会社の中にある自販機でジュースを買ってあげた。


「すまんね。気づかってくれて」


大原警部はジュースで、気分は少し晴れた。やはり何かお腹に入らないと気分が落ちづかない。


「早く内田薫のところへ行きましょう」


受付で事情を説明したら、すぐ取り付いてくれた。


内田薫と大原警部、新居刑事は会社の中にある休憩室に案内された。


「何のことですか?」内田薫は元気なさそうだった。


「橘れいこについて何かご存知ありませんか?」大原警部が言った。


「道路の向こうにある陶芸教室の先生だということは知ってます。でも、挨拶とかをしたことはありません。殆ど会えないので」


「今日、橘れいこは管理人を殺そうとして襲いました」


内田薫は驚いたけど、すぐ無関心の表情に切り替えた。


「内田さん。あなたのためだと言ってました」


「私が管理人を殺しなさいと、指図したわけではありません」


「そういう意味ではありません。誤解しないでください」大原警部は言いたい言葉を選んでつづけた。「内田さんの両親は今どこにいらっしゃいますか?」


「死にました」感情のこもっていない声だ。


「今までは誰と暮らして来ましたか?」


「孤児院でくらしました」


「もし、お母さんに会えるとしたら、あなたは会ってあげますか?」


「会いたくありません」


「しかし」


新居刑事の事ばを遮って大原警部がつづけた。


「橘さんがあなたのお母さんです」


内田薫はかすかながら動揺した。目には涙が湛えていて、流させないと必死で堪えていた。


「橘さんは昨日とおとといの夜の事を全部、陶芸教室から見ていました。あなたの無実を証明できると思います」


内田薫は何も言わなかった。ポケットからハンカチを取り出し、目じりにある涙を拭った。


新居刑事が何か言おうとしたのを大原警部は何も言わないでというサインを送った。


誰も沈黙に耐えられない。内田薫はしゃがれた声で話しだした。


「小さい時から両親がいない事に気付きました。物心ついたら、おばあさんと暮らしていたのです。その後、私が12歳になった時に、家は破産し孤児院へ入れました。中にいる人はみんなとても優しいです。そんな優しい毎日の中で、私は楽しく過ごしました。けれども、心の中では物足りない気持ちがしたのです。孤児院に入って4年たったある日、私は近くの住宅に引越してきた男と友達になりました。あの男から私は今まで感じたことのない気持ちを知りました。誰もが私の優しい一面しか知らないけど、あの男だけは私の心の奥に潜んでいる悪魔を見出すことが出来たのです。反抗期ともいえるべきでしょうか。私は、あの男にすべてを捧げました。付き合って半年もたたないうちに、男は駆け落ちしないかときいたのです。私は快く同意しました。


二人は大都市に着きました。そこには今まで見たことのない世界が広がっていたのです。男はすぐ心を奪われて私から離れて行ったのです。私は恨んでいません。こんなすばらしい世界があることを教えてくれた男に感謝しています。


その後、私はまた天使の仮面を被って毎日をすごしました。バイトをしながら夜間高校を通い、大学も卒業して今の会社に入りました。何回か恋愛もしましたけど、あの男が私にくれたような刺激はなかったのです。私は私の心の中にある悪魔をおびき出せる人がすきでした。でも、そんな人はいなかったのです。長谷川君に会うまでは。

始めて長谷川君に会ったのは、春のある日でした。私は一目で分りました。長谷川君が私の捜し求めた人だと。長谷川君もそんな私の気持ちを見抜いたように、積極的に近寄ってきました。


長谷川君は二人の関係を公開したくないと言いました。私も秘密の恋に興奮していましたので、反対はしませんでした。毎日が楽しかったのです。他人の目を盗みならがする恋は。


そんなある日、私は自分が妊娠したことに気付きました。その時にはもう2ヶ月はなっていました。思いあぐねた私はすぐ、長谷川君にどうしようかと相談しました。すると、長谷川君は堕胎しなさいって言いました。その事で二人は喧嘩をしました。あの時のことを田中さんに見られたのでしょう。


自分の子供を殺しなさいって、あんな酷いことを言うとは思いませんでした。もともと、悪い人だってことは知っていましたけど。


私は生むことに決めたのです。自分の決意を言ったら、長谷川君は責任を取らないと言ったのです。責任は取らなくてもいいとはっきり教えました。でも、不安でならないでしょう。すぐ、歌手としてデビューするんですもの。もし、ある日私が自分の身分を明らかにしたら、きっと、長谷川君の歌手人生の汚点となるでしょう。


あの日から長谷川君は甘い言葉で私を騙そうとしました。どこの病人の人工妊娠中絶は痛みがなく、身体にも悪影響もないとか言って、私に行かせようとしているのです。もちろん、私は全部断りました。すると、態度が豹変して、私をののしったり、侮辱したりしました。私が身ごもったこともはどこの馬の骨かもしらない男の子供だと言いました。私はとても悲しくて」


内田薫は紙コップを手に取って、水を一口飲んだ。


「事件があった夜の事を教えてもらえないでしょうか?」と大原警部。


「はい。あの日、部屋の前に立ったら急に寂しくなったのです。翌日になると長谷川君が引越しするので、最後のチャンスだと思いました。心の中では私のお腹にある子供を認めてほしかったのです。長谷川君の部屋の前でノックしましたが、返事がなかったのです。ノブを回してみたら鍵が掛かっていなかったのです。ドアを開けた瞬間、私は気絶しそうになりました。長谷川君は心臓に包丁が刺されていたままだったからです。その後すぐ、管理人が来ました。長谷川君の様子を見て、確かに死んだと判断しました。私の涙は止まりませんでした。


管理人は私に、死体を発見するのは明日にすると言い聞かせました。あの時の私はすっかり動転していて、ただ管理人の言ったことに従っただけでした」


「その事で管理人から無理な要求をされましたね」


「どんな無理な要求ですか?」新居刑事は躍起になって大原警部に訊いた。


大原警部は答えに窮している時、内田薫が話した。


「無理な要求っていうほどでもありません。私も言ったのではありませんか、誰か私の心の中にある悪魔をおびき出しでほしいって。管理人はそうしてくれました。昨夜、管理人室に呼びつけた時には、不安と興奮、二つの気持ちが渦巻いていたのです。その感じを思いだしただけど、わくわくするのです。管理人室へ入ったら、思ったとおりでした。男の人はみんな女の身体に興味があるものです。抵抗はしました。けど、抵抗すればするほど、伝わってくる快感が増していく一方です。時々、自分も自分は正常な人間ではないと思います。こんな私なのだから周りはいつもロクでない男たちがよってくるでしょう」


新居記事は内田薫の告白に驚いて、恍惚状態に陥った。


「私の話は以上です。管理人を訴えたいと思っていません。反抗をしたとは言え、心のどこかでは喜んでいたから」


「お母さんのほうは?」


この問いに内田薫は少し戸惑った。


「お母さんは今末期癌だそうです。後、半年の寿命しか残っていません。最後だけでも普通の親子のように暮らしてはいかがでしょうか?お母さんも十分、罪悪感にとがめられたと思います」


大原警部は優しく言い聞かせた。


「私も薄々感づきました。あの人が自分のお母さんじゃないかと。あの人から伝わってくる視線にはいつも、優しさが含まれていました。とても温かくて、感じたことはないんですけど、あれは母の愛情がこもった視線とでも言えるでしょう」


「なら、どうして?」


「分りません。いざという時にはなかなか踏み出せないのです」


「これはただのおじさんの助言ですけど、今を逃したら一生後悔することになりますよ」


内田薫は何も言わずにうなずいた。


これ以上言っても、内田薫は聞き入れない。そっとしておいて、自分で答えに辿るついたほうがいい。


内田薫からもらえる証言を十分だと判断した大原警部は新居刑事を連れて会社から出てきた。


新居刑事はまだ内田薫の告白のことで気が動転している。


大原警部は新居刑事を連れて隣にある韓国料理屋に入った。


注文を入れても新居刑事の両目は焦点を失っている。


「新居君」


「は、はい!」


「私が言ったじゃないか。内田さんは君の手に負えない人だって」


「でも……」


「まだ一緒にいたいと思うかね?」


「今は何とも言えません」


「諦めたほうがいいよ」


ちょうどこの時、料理が運んできた。


「ほら、新居君。おいしい物を食べて元気だしなさい。いつまでもそんな渋い顔をしても、過ぎ去った恋は戻ってこないよ」


「恋なんかじゃありません!ただ…ただ」


「なんだっていいんじゃないか。とりあえず、料理が冷めないうちに食べよう」


「はい、いただきます!」




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