第六章

公園を出て、アパートに向かう途中、田中さんが近所のおばさんと話しているのが見えた。


田中さんも竜に気付いて、手招いた。行こうか、このまま家に帰るか迷ったけど、一応、なんのことなのか聞いてみることにした。事件のことで何か話してくれるかもしれないから。


「こんにちは」と竜は挨拶した。


「こんにちは、鈴木君。こちらは知っているよね」


確かに見覚えはあるけど、名前までは知らない。けど、知っていますと言った。知らないと言ったら、竜の悪いうわさが広がるからだ。


「さっきはあのぼけおやじ警部が一人で来たの」と田中さん。


「で、なにか聞き出したの?」と近所のおばさん。「一人で何を調査しに来たのでしょうね?」


「ねぇ~」と知らないおばさん。


「もちろん事件についてでしょう。ほかに話すことなどないんですもの。こっちはいろいろと教えたのに、お礼だけ言えばいいっていうもんじゃありませんよね。それにアパートではなく、知りたいことがあったらあたしに聞けばいいのに」


何が気に入らないか、田中さんはすごく不機嫌だった。


「ね~」と近所のおばさんが相槌をうった。


「あたしは証人としての義務もありますから、礼とかにこだわりませんけど。犯人が早く見つければあたしは満足です」


「田中さんはそんなに沢山の情報を知っていると、犯人に知られたら、次に狙われるんじゃなくて?」


「そうよ、そうよ」


「心配だわ~」


近所のおばさんは心配そうな顔で聞いたけど、声には明らかに興奮の色が漂っていた。


「心配いりませんわ」と田中富士子。「自分の身は自分で守れるからよ」


「随分と自信持ってるんですよね」


「犯人に怯えているなら、ぼけおやじに情報なんか提供しません!」と田中さんは自分の立場を固めた。


「すごいですわ、田中さん。私なら怖くて怖くて何も口にしないですもの」


おばあさんたちの会話はすっかり田中さんの自慢話になってしまった。これ以上ここにいたら時間の無駄使いになるので、竜は別れの挨拶を言った。


「すみません。私これからスーパーへ行きますので」


「あら、そうなの。じゃ、いってらっしゃい。そうだ、スーパーに行くなら今日はお肉の特売日よ」


「ありがとうございます」


2mぐらい歩いた竜は振り向いて田中さんたちを見た。近所のおばさんは手を少女のようにぱちぱちしていた。田中さんは人から崇拝されるのを喜んでいた。警察をバカにして、自分の情報がいかに大切かを見せびらかすのがそんなに楽しいことなのか?僕には理解できなかった。


「悪い人じゃないのはわかるけど、嫌だよね」と僕が言った。


「そうだね。噂話をするのは面白いのはわかるよ。でも、あんな人にはなりたくないね」


「大丈夫、竜は絶対なれないんだもの」


「なんで?」


「だって、竜はおじさんになるんでしょう。おばさんにはなれないんだから」


「なんなの、そんな屁理屈」


でも、こんなつまらないことで竜の顔は少しほころんだ。


スーパーで冷凍食品を買って、部屋に戻った。竜の食事は冷凍食品とインスタントラーメンが主になっている。田中さんの教えてくれたお肉は買わなかった。買っても料理をしないから。


たまに野菜を炒めたりするけど、レシピとか全然しらないので、野菜を買って、油に炒めるだけにしている。調味料は塩のみ。そんな質素な食事をしている竜をみると、心がつんとしてくる。どうしても、こんな生活から竜を連れて逃げたい。だけど、そのためにはしなくてはいけないことがある。


「竜、ギターの練習をしてよ!」


「いやだ」


「せめて、デモ曲だけでも練習して」


竜は何もしないまま未来予想図を描き始めた。僕がなにを言おうとしても、聞き流すだけ。


「今練習しないで、面接の時にばれたら知らないからね」


「大丈夫、大丈夫。その時はあなたが私の変わりに弾けばいいでしょう」


なんと楽天できな人でしょう。でも、僕もギターを弾くことができないから、竜を助けることはできない。


「ねえ、いい考えでしょう」


竜は無邪気に笑った。


ここであの曲は僕が書いたのではない、それにギターも弾けないと言うわけにはいかない。


でも、ここで何とかして竜にギターの練習をさせないと、面接の時が来たら本当に大変なことになる。


「いいよ。その代わりに、歌も僕が歌う、すべてを僕一人でやる。竜はただ見ていてね。出番はこれからないと思う」


「だめだめ!歌も何もかも全部私がやる」


「でも、練習してないなら、何もやらせないよ」


僕の脅しに竜はしぶしぶ承知して、ギターを弾き始めた。


竜はギターの初心者の中の初心者なので、コードをあてるのに散々苦労した。何回か諦めたけど、2時間は頑張った。


「もう、やりたくてもやれない。バイトの時間だ」


いつもより、15分早くバイトへ行こうとする。


「今日は早いのね」僕が冷ややかに言った。


「ついでに本屋へ寄ってギターについての本を買おうと思ったんだ」


「ギターの本なら買ったんじゃない。わざともう1冊買う必要はないと思うよ」


「分ってないよね。今のギター教科書は時代遅れなの。もっと最近のものを買って練習しないといけないんだから」


そんな言い訳で僕は騙そうとしている竜が少し可愛かった。僕もそれ以上ないも言わないことにした。


服を着て部屋を出ようとドアを開けた瞬間、警察がアパートへ入ってきた。竜はドアを完全に閉めたのではなく、その隙間から外の様子を見た。目的地は管理人室らしい。


すぐに、陶芸教室の先生が大原警部と一緒に出て行った。


何があったのだろう。気になるんだけど、警察が見守っている中で、立ち聞きのような真似はできない。


竜は平然を装って部屋から出て行った。


駅近くにあるコンビニで夕刊を見た。その中にも、アパートの殺人について記事は一つもいなかった。


竜の失望は一瞬のものだった。あのデモ曲がまだ残ってあるから。


デモ曲は必ず成功すると思った竜はご褒美にちょっと高いお菓子を買ってバイトへ向かった。

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