2

バイトが終って、アパートへ戻った。


玄関に入った瞬間、101号室のドアが開けられて田中さんが出てきた。まさに、竜の帰りを待っていたのだ。じゃないとこんなにもタイミングに合わせて出てこれるはずがない。


「鈴木君、知っている?」田中さんが大げさに言うので少し気になった。「管理人は今警察に取り調べているらしいよ」


「えっ!なぜですか?」


周りには誰もいないのに、田中さんはわざと周囲をくるり見回して、声をひそめて言った。


「ここだけの話なんだけど、誰にも言っちゃいけないよ」


「はい」


「管理人は無理に内田さんといやらしい関係を持とうとしたらしいの。内田さんは別に気にしていないから訴えないと言ったんだけど、そういうことは内田さんの思うとおりにはいかないんだよ。なにしよう、管理人のあの行為は犯罪なんだからね」


竜は静かに聴いていただけだった。


「あら、別に驚かないのね。好きな人があんな目に遭ったのに」


驚かないのも当たり前だ。昨夜、一部始終を盗み聞きしていたから。


管理人が警察に連れて行かれたことには少しすっきりした感じだ。


「い、いいえ!とても驚きました。うそでしょう。本当ですか?」


わざとらしい竜の反応に、田中さんはそれだけでもとても気にいったらしい。


「もう一つ、とても信じられないニュースがあるのよ」


「何ですか?」


竜はわざとらしい表情を作ってみせた。興味があるふりをするのも疲れるものだ。


「橘さんがあの内田さんの実の母親だって」


この事に竜は心底驚いた。


「橘さんってあの陶芸教室の?」


「そうなのよ。で、橘さんは管理人が内田さんに無理をさせることを知って、今日管理人を殺そうとして襲ってきたの。でも、失敗で終ったけどね」


田中さんはつまらなさそうに言った。成功してほしかったのようだった。


(それで、昼の騒動があったのだね)と竜は納得した。


「このアパートにはこれ以上住めないよ。殺人事件が起こったことはおいといて、管理人があんな人じゃ、怖くて住めないわ。あたしも気を付けないと」


(あんたはそんな心配する必要ないよ)と竜は言い聞かせたかったけど、そうしなかった。


「そうですよね。田中さんはすぐ引越しするんですか?」竜は思っていることと裏腹の言葉を口にした。


「まだ決めたわけではないわ。なにしろ、いろんなことがが相次いでくるから手がまわらないのよ」


あっちこっちでうわさを広げるからだよ、と僕は思った。


「後ね、午前中に大原警部が来たの。あたしの情報は本当に役に立つと言ってたわ。若い警察はあたしの事をおしゃべりなばあさんと思って、相手にしてくれなかったけど、大原警部なら、何もかも話してあげてもいいと思っているのよ。あたしが話した事を疑ったりはしないんだから。でも、やっぱり心配になるんだよね。年もとってるから、あたしが提供した情報をちゃんと覚えているのかしら?」


「全部覚えていると思いますよ、そんなに頭の悪い人には見えないし」


「あら、鈴木君って、たまにはすごく酷いことを言うんだよね」


「そんなことありまんよ」


「心配なものはいつになっても心配なんだよ」


僕から見て、あの警察二人はそんなに駄目って言うわけでもないのに。確かに、大原警部のほうはちょっと漫然な態度がちょっぴりあるけど、仕事を投げやりにするタイプでもないし、若い新居刑事も新人らしく仕事には張り切っているので、きっと大丈夫。


今、ふと思いついたけど、田中さんって、僕と竜の事をどうやって警察に伝えたのだろう?気になる。もし、やばいところを話したら、身の安全に火が飛びついてくるかもしれない。しかし、ここで尋ねるわけにもいかない。


竜がぼうっとしていると、田中さんは話題を探し出した。


「長野君はずっと降りてこないんだよね」


「えっ!はい、そうですね」


急に長野さんの事を話したので、わけが分らなくなった。さっきの場合だと、田中さんは警察の悪口をもっとたたくかと思ったからだ。


「今日、あたしと話し終えた後にね、大原警部は長野君を訪ねたの」


なんで、知っているのだろうと不審に思いながらも、田中さんの話を遮ろうとはしなかった。


「ふたりは一体なにを話していたのだろうね?」


「知らないんですか?」


田中さんはびっくりして竜を見つめた。


「やだね、鈴木君。あたしは盗み聞きとかする人じゃないのよ」


「いいえいいえ」竜はすばやく弁解した。「そういう事ではなく、田中さんは何でも知っていると思って言っただけです。誤解しないでください」


田中さんと竜は笑い声で気まずい雰囲気を吹っ飛ばした。


「後で大原警部から聞いたんだけど……」


やはり知っているんた、と僕はちょっとあきれた気分になった。


「長野君が4回、行ったり来たりする足音を聞いたらしいの。大原警部は、その足音をとても重要だと思っているらしいけどね」


「足音ですか」


まずい、その中には僕の足音も混じっている。でも、4回だからと言ったから、必ず僕だとあの警部が当てるわけでもない。


「しかしね、鈴木君」と言って、田中さんは自分の顔をもっと竜の前に近寄せた。1階にはもう誰も二人以外、誰もいないんだから普通にしゃべってもいいのに。ありきたりなことをいかにも大事そうな効果を作り上げるのが、おばさんの会話に欠かせない要素なのかもしれない。


「これほどの事が起こったのに、アパートのオーナは何もしないんだよね。住人たちにお詫びの言葉をいれてもいいと思うのに」


「そうですね」


この「そうです」という句をしゃべりすぎて、棒読みな感じになった。


しかし、田中さんは全然気にしていない。自分のペースで話しを進めている。


「そうだ、さっき長野君が出て行くのを見たの。あたしはびっくりしてどこへ行くのかと聞いたら、アイドル応援同好会に参加するんだって。あたしはね、大体の事には驚かないたちなんだけど、長野君の笑顔をみたら、びっくりしたよ。信じられないほどだからね。オタクという先入観がいないと思っていたんだけど」


「そうですね」


竜が会話に混じりたくないという気持ちに田中さんは感づいた。


「あら、ずいぶんと疲れてるんじゃない!」


「はい、今日大変でした。お客さんがいっぱい来たので」


「じゃ、早く帰って休んでね、鈴木君、お休み」


「はい、おやすみなさい」


田中さんが部屋に入っていくのを見届けてから、僕たちは自分の部屋に入った。田中さんは耳をドアにくっつけて盗み聞きするのではないかと、心配しているからだ。もともと、一度盗み聞きをしたから、されるのを恐れている。それに、田中さんはうわさをどこからでも入手できているから、怖い。


「田中さんは、僕たちの事をどんなふうに言いふらしているのだろう。」


僕はベッドに横たわっている竜に話しかけた。


「分らない。一人言をいう変や人だと言ってるんじゃない?」


「そうだね」


次の言葉が思い出せなくて僕は黙っていた。もし、あの日、僕が急に現れなかったら、竜は普通の人として生きていたのかもしれない。


「気にしないで、私はそんな事なんか、全然気にしてないんだから。あなたのお陰で、私は孤独から逃れたし、毎日が楽しくなったの。それに、デモ曲も作ってもらったし。本当に感謝している」


もし、デモ曲が僕の作ったのではないことを竜が知ったら、どんな反応を示すんだろう。僕を追い出すのかな?それとも、今までとおり仲良く生きていけるのかな?


あのデモ曲の真相がばれたら、ただことではすまない。どうしよう、僕が竜を窮地に追い詰めたことになる。でも、竜にはわかってほしい。僕は絶対竜を傷付けるためにあんなことをしたのでない。


それに一つだけ確かなことは、僕は竜から離れたくない。竜と一緒にいたい。

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