7
アパートの前に着いた。
大原警部はすばやく車から降りて、アパートへ入り、管理人の部屋へ向かった。突然、管理人室から「殺してあげる!」と、女性の叫び声が聞こえてきた。間違いなく橘れいこの声だ。
管理人室のドアには鍵が掛かっていなかったので、すぐはいれた。
橘れいこはナイフを手にとって畳みの上に倒れている管理人を狙っていた。
「橘さん、落ち着いてください」大原警部は優しく声かけた。
「警部さん、邪魔しないでください。この男を殺さないと薫はずっと苦しみの中で生きることになります。せめて、せめてわたくしが生きている間だけでも、何かしてあげたいのです!」
「人を殺しだって、傷跡が消えるわけではありません。どうやって、傷跡が残してくれた痛みを乗り越えるほうがもっと大切です」
「しかし、しかし、」橘れいこは泣き出した。
「さあ、落ち着いてください。大丈夫ですよ。すべてがうまくいきます」
大原警部は橘れいこがぼうっとしている隙を狙ってすばやくナイフを奪った。橘れいこは大原警部と一緒に陶芸教室に戻った。管理人の事情聴取を新居刑事に任せた。
教室に着いてから橘れいこはずっと黙っていたままだった。
「あっ、すみません。何か飲み物でも持ってきましょうか?」
「いいえ、おかまいなく」
その後はまた沈黙が訪れた。訊き出すのではなく、橘れいこが自分からすべてを話すのがいいと大原警部は思った。取り乱しているけど、必死で平然を装っている橘れいこの忍耐力に感心しながらも、さっきの事だけはうなずけない。
もし、娘のためだとしたら、警察にすべてを話すべきなのに。今、この情況になったのは自分のせいだと思い込んでいるのだろう。だから、あんな衝動的な事をしたのかもしれない。
「わたくしは内田薫の母です」橘れいこは淡々としゃべり出した。「夫はとても優しくて思いやりのある方でした。でも、3年の結婚生活は退屈でつまらなかったのです。薫を生んでからすぐ離婚しました。不倫ともいうべきでしょう。その時、情夫が現れたのも一つの原因です。夫と別れ、情夫と暮らすようになりました。情夫と結婚はしませんでした。わたくしが結婚生活を拒んでいたからです。情夫もその気はなかったと思います。情夫と暮らして2年経った頃、夫が死んだという知らせを聞きました。わたくしはすぐ昔の家に戻りました。
でも、すべたは遅かったのです。お母様はわたくしを認めてくれませんでした。葬儀にも出させてはくれませんでした。せめて娘を一目みたいと申しましたら、もうあなたの娘ではない、とおっしゃいました。わたくしはそのまま情夫のところへ戻りました。
戻ってみたら、情夫には他の女が出来ていたのです。あの時はとても怒りました。結局情夫と分かれることになりました。その後も何人かと付き合うことになりました。情夫と付き合っているというより、情婦としてつき合わされているようになりました。
そんな日々が続いている中、娘に会いたくなりました。すぐ、お母様の所へ行きました。夫の実家は工場をやっていたのです。だけど、その工場は破産して、他人の手に渡り、娘は孤児院に入れたと近所の人から知りました。わたくしは狂ったように孤児院を転々と探し始めました。
娘の居場所を見つけ出したのはつい最近です。運命って皮肉なものですよね。自分が末期癌だという事を知ったすぐ後に、娘が見つかったのです。わたくしへの罰でしょう。
この教室を借りて毎日、娘を見守ることをしました。なぜ、アパートへ入らなかったのかと思うかもしれませんが、これ以上、娘には近づけないのです。長年にわたって出来てしまった距離ですから
遠いところで見守るのがわたくしの精いっぱいの努力です。」
橘れいこはさっきより楽な顔をしていた。今まで我慢してきた話を誰かに訴えることが出来て、重荷が下された気持ちになったのだろう。
「ところでですが、橘さん。事件が起きた夜の事を教えていただけませんか?」
「はい。あの夜も駅へ行って娘を待っていました。何時に帰るのかを知りませんので、いつも午後5時から待つことにしています。あの日、娘は確かに終電に乗って帰りました。娘が見えたので、わたくしも腰をあげ家に向かいました。娘と道路をはさんで歩いていました。なぜでしょう、娘を見ると自分の若い時を思い出させるのです。道の向こうでもくもくと歩く娘をみるのが毎日の楽しみなんです。娘がアパートに着いたので、わたくしも早速、教室に戻りました。窓越しに確かに見えました。娘は2階へ上がり、自分の部屋の前で立ち止ってから中には入らず、長谷川さんの部屋へ行きました。その後ろに管理人がついていました。娘は長谷川さんの部屋のドアを開けた瞬間、すぐ床に崩れました。本当です。部屋の中に入っていきませんでした。管理人は娘の様子に驚き駆け寄っていきました。管理人は長谷川さんの部屋を見てから、二人で何かを話して部屋のドアを閉めてから、各自の部屋へ戻りました」
「管理人はあの夜のようによく内田薫の後ろについて行くのですか?」
大原警部の質問に、橘れいこはどう答えればいいか迷っていた。
「正直に話してください。事件の真相が分れば内田薫にも迷惑がかからないと思います。それに、ここで話した内容は名誉にかけて誓います。絶対に口外しません」
橘れいこはこの言葉を聞いて安心したらしく、話を続けた。
「たまにはあります。でも、娘は気付いてないらしいんです。管理人は階段を上がって角を曲がらず、娘の部屋のドアが閉まるとそのまま引き返します」
「そうだったのですか」
大原警部は少し考えてから問いかけた。
「今日はなぜこんな衝動的な行動をとったのかを教えてくれませんか?」
橘れいこの顔は怒りに満ちていた。
「もしかして昨日の夜のことで」
はっとした橘れいこは大原警部の顔をじっと見つめた。
「ご心配なく。その事はまだ誰にも話していません」
大原警部の言葉を聞いて、橘れいこも安堵の吐息をもらした。
「昨日の夜、薫が管理人室に入っていくのを見ました。これまでに一度もなかったことです。その後です。104号室に住んでらっしゃる方が管理人室の前で立ち聞きをしていました。あの方が部屋に戻っても薫は管理人室から出てこなかったのです。時間が過ぎていくにつれ、だんだん悪い予感がしてきましたので、管理人室へ行こうと決めた時、薫が出てきたのです。髪の毛が乱れていました。その様子を見たとたんに、涙が流れてきたのです。すぐ薫のところへ飛んで行き、抱きしめてあげたいですけど、不器用なわたくしですので、何もしてあげることが出来なかったのです。今さら母親面をするわけにもいきませんので」
104号室だと、鈴木竜だ。多分、田中富士子と同じ内容の事を聞いたんだろう。内田薫の好感をかういいきっかけになるのに、何でそのまましりごみしたのかが分らない。鈴木竜はただの臆病なのか?それとも他の理由があるからなのか?
橘れいこは話し続けた。
「今朝、薫が出かける時、管理人のいやらしくて汚らわしい目つきを見たのです。このままでは薫の人生はめちゃくちゃになるんだと、直感しました。アパートの住人が全部出かけて、管理人一人が残るのをずっと待っていたのです。その後のことは見てのどおりです」
大原警部はゆっくりとうなずいた。橘れいこに少し休みの時間を与えてから、つぎの質問をした。
「この間、長谷川健也と会ったことがありましたね」
「はい」
今の橘れいこに何を言っても驚かないだろう。
「会った時に話した内容を教えてくれませんか?」
「分りました。薫はたまに長谷川さんの部屋へ行って、夜を過ごすことがありました。恋に落ちたとすぐに分りました。毎日、薫の幸せを祈りました。しかしある日、偶然にも二人が争うのを見たのです。恋人同士が喧嘩するのは当たり前だと思いました。けど、近所の人から長谷川さんが大手音楽会社の歌手になり、ここから引越しするのと聞いて、あの時の喧嘩はただの喧嘩ではないと思いました。わたくしはすぐ長谷川さんと会う約束をしました。喫茶店でわたくしは頭を下げて、薫と別れないでくださいと頼みました。長谷川さんは頑なに拒みました。いくら頼んでも聞いてくれません。
自分はこれからスターになるんだから一般人と付き合うきはまったくないと。娘とは気晴らしで付き合ったのだと。こんなひどいことを聞いて黙っていられる母はいます?正直、殺したい気持ちもありました。しかし、薫の愛する男を殺めるわけにはいけないと、自分に言い聞かせました」
ここで大原警部は穏やかに口を開いた。
「内田薫を助けるには殺人ではなく、他にもいろいろんな方法があるのではないかと思いますが」
「警部の言うどおりです。わたくしが愚かだったからです。薫を捨てなかったら、あの子もこんな目にあわなかったのかもしれません。すべて、わたくしが悪いんです」
橘れいこの目で涙が見えた。
「自分をあんまり責めないでください。内田薫には本当の事を教えた方がいいと思いますが」
「なかなか言えません。薫を捜してる時、とても見込みがなくて、諦めたことがありました。自分が癌にかかったことを知り、また捜し始めたのです。勝手に家族を捨てて、今は勝手に探しに来て、母親としての責任をはたしたことは一度もないのに、どうすればいいでしょうか?」
「大丈夫ですよ。内田薫もきっと分ってくれます。今からでもすべてを話してあげたほうがいいと思います」大原警部は優しくなだめた。
大原警部はふと橘れいこが気になっていたアパートに住んでいる思いつめた顔をした男性の事を思いだした。ポケットから2枚の写真を取り出して見せた。
「この間おっしゃっていた男性の事ですけど、どなたかまだ覚えてますか?」
「はい、確かにこの方です」
「なぜこの男性の事がひっかかったのですか?」
「なぜかというと、雰囲気が違ったからだと思います。普通の時はとても感じのいい方でした。しかし、あの日にかぎって別人のように見えましたので、覚えていたと思います」
大原警部の考えどおりに、鈴木竜だった。
鈴木竜の別人のように見える場面は自分も目撃したと大原警部は思い出した。一瞬の出来事だけど、あれは確かに演技ではなかった。
これ以上、聞き出すことはないと判断した大原警部は、橘れいこの事を駆けつけた他の警察に任せて陶芸教室を離れた。
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