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二人の警察は104号室の前に立った。
「今度はこの部屋ですね」新居刑事はこう言ってノックした。
しかし、何の返事もなかった。ドアのノブを回してみたが鍵がかかっていた。玄関口に立っている警察に訊いてみたら、出ていったらしい。
「尋問が終るまで、誰もこのアパートから出してはいけないと言ったんじゃないですか!」少々怒り気味の新居刑事だ。
「すみません。すぐ戻ると言っていましたので」
「まあまあ、そう怒る必要はないよ。まず、他の住民から当たってみよう」と大原警部が宥めた。
「そもそも、これは警部のせいですよ」階段をのぼりながら新居刑事は不満をもらした。「警部がやたらと時間を延ばしたから、こうなったんじゃないですか。今頃、104号室に住んでいる人はきっといろいろと企んでいますよ。もし、104号室に住む人が犯人だったら、今頃、証拠を消したのかもしれませんよ」
「そうだね。それはすまなかった」
大原警部は朗らかに笑って優しい眼差しで新居記事を見た。新居刑事も自分が言いすぎたと思い謝った。
「誰から話を聞きますか?」
「そうだね、内田薫は後にしよう。先ず、長野卓男の話から聞いてみようか」
「なぜですか?」
「長谷川健也の部屋に入ったことを聞かれたら、長野卓男はどんな反応を示すかが気になって仕方ないんだよ。事件が起きたんだから、長谷川健也の部屋に入りましたと、正直に話さないからね」
「僕もどうして長谷川健也の部屋に入ったのかが気になります。でも、本当の事を話してくれるんでしょうか?」
「多分、正直に話してくれないと思うんだが……」
「なら、なぜ聞くんですか?」
「いいかね、新居君。僕が気になるのは、長谷川健也の部屋に入ったことを聞いて、長野卓男はどんな反応を示すのかだよ。しかし、君が気になるのは長谷川健也の部屋に入った理由。どちらが結果からして、分りやすいと思う?」
「反応でしょう。現に長谷川健也は殺されたので、なにか変なことでも言ってしまったら、たちまち容疑者にされるのではないかという恐怖心理があるからでしょう」
「それだよ、それ。長谷川健也の部屋に入ったことを訊くんだけど、今回は訊くだけ。それ以上は追求しない。いいよね、新居君」
「なぜですか」
「僕たちが攻めれば攻めるほど、相手が穴の奥に怯むからだよ。ここでやるべきことは、信頼なんだよ。正直に話しても容疑者にはされませんよ、っていう気持ちを長野卓男に与えることが大事なの。そうすれば、自然と心を開いてくれるんだよ。だから、今はまだその時期ではない。とりあえず、入ってみようか」
203号室のドアをノックしたら、「どうぞ」という男の声が聞こえた。二人はドアを開け、中に入った。
長野卓男の部屋は壁と天井一面にアイドルのポスターが貼ってあった。小さい部屋のなかに、32インチテレビが置かれてあって本棚にはDVDでいっぱいだった。ベッドがなかった。気安く座れることができてよかったと新居刑事は思った。
長野卓男は正座して両手を膝の上に置き、顔を俯いたまま何もしゃべろうとしない。前髪は長く、表情もはっきり読み取れない。
「単刀直入に訊きますけど、昨日の0時から2時の間どこにいました。」新居刑事は坐るなり、鋭く尋ねた。
「部屋にいました」長野さんの声は震えていた。
「一人ですか?」
「はい、一人です」声がしゃがれている。しかも小さいので、かろうじて聞き取れるほどだ。
「本当ですか?」
「はい、本当です」
「一歩も外に出ませんでしたか?」
「は、、はい」長野卓男は言いよどんだ。
「嘘つけ!」と新居刑事は怒鳴った。
びっくりした長野さんはその時始めて顔をあげた。顔色は青白く、口もとがびくびくしていた。
「あなたは昨日0時15分頃長谷川の部屋から出てきたという証言が取れたんだよ!」
「見間違いです、きっと」今にも泣き出しそうな声だった。「本当に一歩も部屋から出ていません」
すこしばかり興奮しているようだ。
大原警部はまた何か言おうとする新居刑事の肩に優しく手を置いた。
「藍星が好きですか?」穏やかな声で大原警部が尋ねた。
「は、はい。知ってます?」
「見てのとおり、この年ですけどアイドルには興味を持っていまして。今、藍星はもっとも人気がありますね。同僚にもファンが沢山いますよ。半年前に彗星のごとく現れて、抜群の歌唱力と天使のような顔で大勢の人を魅了した、今もっとも旬のアイドルですからね」
「そのとおりです。藍星がこのまま続けていけば間違いなく世界の注目を浴びるに違いません」
「デビュー同時からずっと応援してきたんですか?」と大原警部。
「いいえ、実は僕、藍星が練習生時代の時からのファンなんです」
「でも、ニュースには藍星の練習生時代の事を何も書いてませんけど」
「はっはっ!」自分が勝ったというように長野卓男は笑った。「実はですね。それが秘密の練習なんです。僕もある日偶然、たまたま見つけたんです。僕は新人アイドルが好きでいつもいろんなアカデミーを廻っています。ある日、藍星の練習を見てしまったんです。その時から僕は確信しました。この女の子はきっとビッグスターになると」
「すばらしい予見ですね。見事に的中しましたから」
「自分の口から言うのもなんですけど、スカウトマンになったらもっと沢山の素質のいいアイドルの卵を見つけられると思います。今まで、将来ブレイクすると思った練習生たちは皆、売れっ子になったんです。なったんですが…」
「ですが?」大原警部が促した。
「スカウトマンになるより、一人でひっそり応援するのが好きです」長野さんは照れて頭を掻いた。
「ところで、藍星の所属している音楽会社に長谷川さんは入りましたね」
大原警部の不意打ちに、長野さんはさっきまで生き生きとアイドルを語る気力をなくして、最初のおどおどした様子に戻った。
「そう、そうみたいですね」
「知らなかったんですか?」
「し、、知らなかったんです」長野さんが嘘をついていることははっきり分った。
「昨日の夜、何か物音を聞きませんでしたか?」
大原警部が話題を急に変えたので、長野さんはすこしばかり戸惑ったが答えた。
「何も聞こえませんでした」
「0時から2時の間に何をしていましたか?」
「新発売のライブビデオを見ました。イヤホンをしていたので……」
「分りました。それでは失礼します」と大原警部は言って腰を上げた。
新居刑事はまた聞きたいことがあるらしく目で訴えたが、大原警部は優しく笑って顎でドアをさしただけだった。
「自分が長谷川の部屋に行ったことを隠していますね」ドアを閉めてから新居刑事は言った。
「そうだね。予想してたことだから、驚くほどでもないんだがね。君は長野が犯行をしたと思っているのかね?」
「今のところはそうともいえません。みんなの事情聴取が終らない限り」
「しかし、事情聴取なら他の警察が全部やって資料にまとめていたんじゃないかね」大原警部はやや皮肉に言った。
「やはり、自分で訊きたいです」
「お前も他の警察たちの事情聴取はまったく同じ形式だから、新しい事実は聞き出せないと思うんだがね」
「そんな事ないです」向きになった新居刑事は反論した。「田中富士子の訊いた長野が長谷川の部屋に行ったという証言は、報告書にはなかったんじゃないですか」
「いずれ、田中富士子は言うつもりだったよ。お偉いさんじゃないと話さないと決めていたからね」
「人を選んで話をするなんて、見栄を張る時じゃないのに」
「確かにね。しかしね、新居君。年寄りは若者と話をするのを好んでいるんだが、何もかも話すっていうわけにもいかないね。一番大切なことはやはり、同じ年頃の人と話したがるもんなんだ」
「よく分りませんけど」新居刑事は正直に答えた。
「年を取ったら分るのさあ。新井君。それに、田中富士子の知っていることはまだまだいっぱいあると狙っているんだがね」
「どうやって真実を相手の口から釣り上げられるのが大切。そういうことですよね」
「田中富士子に対してはその手を使わなくてもいいんだ」
「なぜですか?」
「話したくてたまらないはずだから、きっとそのうち進み出て教えてくれるものに決まっているんだ」
最初、大原警部が言ったことを半信半疑の態度で聞いたんだけど、今はじっくり言葉の意味を味わうようになった。どんな先輩からでも、一つや二つくらい見習うことはあるもんだなあ、と思った。
この時、大原警部は急に振り返った。
「そろそろお茶の時間だと覚えているんだがね」
「そんな事言わないでください。お茶は内田薫の事情聴取が終ってからでも遅くありません。それに、内田薫がお茶とかジュースとかをご馳走するかもしらないじゃないですか」
「うん、そうだね。しかしね、新居君……」
大原警部が言い切らないうちに、新居警部はすばやく205号室をノックした。
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