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大原警部は104号室のドアをノックしてみたが、返事がなかった。今日のところは帰った方がいいのかもしれない。署に戻る前に、あの渋茶という喫茶店に寄ることにした。
玄関から出た大原警部は管理人とばったり出会った。
「おはようございます」
「おはようございます。誰もいなかったので、勝手に中へ入ってしまいました」大原警部はお詫びをいれた。
「いいえ、警部なら大丈夫でしょう」
「どこへ行ったのですか?」
「買い物ですよ」
「それにしては、両手には何も持ってないですね」
「お財布をうっかり忘れてしまいまして。取りに戻ったまでです」
「忙しくないなら、ちょっとお聞きしたいことがありますけど、時間よろしいですか?」
「時間なら、大丈夫ですけど。昨日、全部話したと思いましたが」
「『人』っていうのは面白いものですよ」
大原警部のこの言葉に管理人は理解できないという顔をした。いきなり何の話をするかと、管理人は大原警部の顔をのぞいた。
「当時にはこれでいいと判断をするけれど、家に帰ってから、もしくは寝ようとしてから、いろいろと思いが浮かび上がってくるんですよ。あの時こんなふうにしたらもっとよかったのかも。あの時こんな事を聞いたらもっとよかったかも。こうやって、僕も昨日は考えて考えて、訊き忘れたことを今日こそ訊きたいと思って伺いました」
「そういうことですか」おぼつかない顔をした管理人は「それで、聞きたいことは何ですか?」
「0時35分に本当に物音が聞こえたんですよね」
管理人は大原警部の強い口調にびっくりした。穏やかな人だと思っていたから。しかし、顔には平然を装っていた。
「は、、はい。本当です。本当に聞こえました」
「すみません。急に大きな声を出してしまいまして。しかしですね、管理人さん。部屋の情況から見て、床に落ちたものなど一つもいなかったのですよ」
管理人は口を堅くつぐんで、目をきょろきょろし始めた。
「もしかしたら、長谷川君は壁にもたれて、滑り落ちた時に発した音かも知れないんじゃないですか」
「そういう事もありうるですね。でも、そういうことになったら、ドカンという音が聞こえるんですかね、管理人さん。あなたの話によると、滑り落ちた時に発した音はそれほど大きくはありません」
「違います。多分、犯人が起こした音なのかもしれません。例えば……」
「例えば?」
「例えばですよ。犯人がうっかり何かを落として、それをまた元の場所に戻した。可能性としては、ありえるでしょう」
「可能性としてはありえます。しかし、45分までの10分の間、一体何をしていたと思います?」
「犯人じゃないから、知りません」
「そうでしょう。多分他の人がまたその後に長谷川健也の部屋に入ったかもしれません」
「そのとおりです、警部。きっと他の人が入っていって、何か物音を立てて離れたのに違いありません。きっとそうです。だから、長谷川君は35分に、または35分前に殺されたことになると思います」
「はっきりとおっしゃいますね。どんな根拠から、それほど自信ありげに言うのですか?是非、理由をお聞かせください」
管理人ははっと我にかえって、自分がさっき言った言葉を思い出して、後悔をしているようだった。
「あっ!いいえ、殺人事件で動転していて、頭がおかしくなったのですよ。どうか、さっきの言葉を気にしないでください」
殺人事件で動転したという口実を今日も使うつもりだね、と大原警部は思った。管理人はまだ本当の事を言おうとしない。犯人ではないとすると、誰かを庇うために、犯行時刻を35分にしようと思って、警察に聞こえもしなかった物音の事を言ったのかもしれない。なら、庇おうをした人は誰なのか?普通の場合から考えてみれば、おやじなら100パーセント内田薫を庇おうとする。
この管理人、変な企みをしているんだな。でも、今は何も明確な証拠がないからどうしようもない。
内田薫が会社から帰る時、ご飯に誘おう。内田薫もきっと何か重大な証言がある。信用させて事実を話せることが大事だと、大原警部は秘かに思った。
「他に何かまたあるんですか?」大原警部がずっと黙りこくっていたので、管理人が愛想ようく訊いた。さっきのミスをごまかそうとしているだろう。
内田薫の事を考えていたので、管理人に何を訊こうとしたのかを全部忘れてしまった。「ないんです。今日はありがとうございました」
管理人は逃げるようにアパートへ入っていった。
駅へ向かっている途中で偶然、田中富士子が道路の向こうでおばさん3人と話をしていた。軸は田中富士子らしい。とても偉そうに胸を張って唇を高速度に動かしている。何の話をしているんだろう。
そのまま素通りしようとしたけど、田中富士子に見つけられた。
田中富士子はおばさんになにか言いつけて、大原警部のところへ走っていった。
「もう帰られるんですか?」
ちょっと興奮ぎみの田中富士子だ。
「はい、この後、田中さんが話してくれて渋茶という店に行ってみたくて……」
「なるほど。それで、アパートの誰かに聞き込みをしたのですか?」
大原警部の日程にはなんの興味もない田中富士子。彼女の一番気にしているのはアパートの住人たちに何かを聞いたのか、だけだ。
大原警部は、こんなに積極的に聞いてくるとは予想していなかった。
守秘義務といるもっともらしい口実で誤魔化そうとした時、長野卓男から得た足音の情報が脳裏をかすめた。
田中富士子はなんで長野卓男の足音の事だけを言って、他のは口外しなかったのだろう?次に機械に話すつもり?それとも、隠したいことがあるから?
ここで一度探りをいれてみようと、大原警部は決めた。
「実はですね」
大原警部はここまで言って、わざと区切った。田中富士子は早く続きを話しなさいと、目を訴えていた。
「長野卓男かなら、田中富士子も知らないかもしらない情報をもらったのです」
「そんなのありえないですわ!あたしに知らない情報があるなんて、信じられません!」
田中富士子は意地を張った。こういう時こそ、人は思わず本当の事を滑らすから、大原警部は心の中で笑った。
「足音が聞こえたらしいです」
大原警部はなるべく鷹揚な口調で話した。これが、また田中富士子を刺激したらしい。
「足音なら、あたしも聞きました。長野君が長谷川君から出て行く足音を。その事はもう警部に話したと思いますけど!」
「その足音ではなく、また足音があったのです」
「なんですって?」
「長野卓男は自分の部屋に戻ってから、4回、長谷川健也の部屋から行き来する足音が聞こえたらしいです。どうです?田中さんにはなにか思い当たるふしはありませんか?」
田中富士子は軽蔑するような笑みを浮かべた。
「そんなこと、あたしも同然知っています。足音でしょう。あたしも聞きましたの。確かに4回です。はっきりと覚えています」
「ならなんで、話してくれなかったんです?」
「情報があまりにも多いので、忘れてしまいました」
田中富士子の口調からすれた忘れいたのではなく、言う機会をうかがっているに違いない。
「ほかにまだ話してない情報がありますか?」
大原警部は問いかけた。
田中富士子はしらばくれて返事をしない。
大原警部は黙っている田中富士子の目を見据えた。
「あら、やだわ、警部さん。そんなにじろじろ見つめられては困りますの」
「それはそれは、失敬。では、ここでお別れします」
「はい、さようなら」
「さようなら」
田中富士子はあっさりと大原警部と別れた。
(この段階で何をいっていいか一人で考えているのだろう。まぁ、直に話してくれるだろう。それまで待ってみよう)
大原警部は角を曲がる時に振り向いて、田中富士子のほうをちらっと見た。また、おばさんたちの所に戻って何かを自慢げにしゃべっている。
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