6

104号室のドアが開けられた瞬間、タバコのにおいがいやなほど嗅がされた。部屋に入ってみると、タバコの煙が天井で雲を成していた。前髪で顔は半分隠されていたけど、色男っていう事実は隠せなかったのだが、ヘビースモーカーだとは誰も思っていないだろう。新居刑事はタバコを吸わないので耐えられない匂いだった。隣の大原警部をチラッと見たけど、警部は別に気にしていないようだ。


鈴木竜は少し緊張していた。二人の警察を部屋の中に案内してベッドをすすめた。


「あっ、水でも持ってきましょうか?」鈴木竜が言った。


「どうも」


今度は新居刑事ももらうことにした。窓を開けて換気をしてもいいものの、ずっとこの部屋のなかにいたら、心身とも錆びてしまうような、不思議気持ちが襲ってきたことに、新居刑事は戸惑った。もともと窮屈な部屋なのに、煙のせいで部屋がもっと狭く感じた。


(早く終わらせて出ていきたいなぁ)と新居刑事は思った。


水を二人の警察に渡して、鈴木竜は手ぶらで椅子に坐った。


「何を話せばいいですか?」鈴木竜の声には緊張と興奮が入り混じった。


「そうですね。先ず昨日、バイトが終ってからの事をお話いただければありがたいですけど」と大原警部。


「昨日、バイトは23時に終りました。そこから電車でアパートに戻りました。確か着いたのは23時半頃だったと思います」


ここまで言って鈴木竜は言葉を止めたので、新居刑事が問いでみた。


「その後は何をしていました?」


「その後はずっと部屋にいました。もちろん、一回トイレへは行きましたけど、それ以外はずっと離れていません」


「長谷川健也とはどういうご関係ですか?」と大原警部。


「顔を知っていて、会えば軽く挨拶をするぐらいです。親しくはありません」鈴木竜の口元は少し上がっていたがすぐ元の状態に戻った。


しかし、大原警部は見逃さなかった。人当たりはいい男だけど、心の奥には残忍さが潜んでいるように思われた。


「昨夜には何か物音が聞こえなかったのですか?」


「すみません。私、眠りが深くて。携帯にアーラムを4回も設定したんですけど、朝はいつも11時に起きるんです」


こう言った鈴木竜は携帯を見せようとしたが、新居警部はいらないと断っておいた。


「1回トイレに行ったこと以外、ずっと部屋にいたことを証明してくれる人はいないっですか?」大原警部の問いに鈴木竜は少し考えた。


「います」と答えた鈴木竜の声は低かった。さっきの喉から発した声とは違って、お腹から声を出しているようだった。


顔も翳っていてなにか変な質問をして、気分を害してしまったのではないのかと、大原警部は思った。


「え!誰ですか?」


さっきの報告書ではずっと一人でいたと証言したのに、なぜこの場において証明できる人がいると言うのかなあ、と新居刑事は不審に思った。


「いません!」鈴木竜の声は元の状態に戻った。


あっけにとられて二人の警察は鈴木竜を見つめているだけだった。


「すみません」鈴木竜はまず謝った。「私、今腹話術の練習をしているので。さっきの事も気にしないでください。口が滑って間違った言葉が出てきただけなんです。あっ、水はもうないみたいですね。もう1杯お代わりしますか?」


新居刑事は断ったが、大原警部はもらうことにした。


鈴木竜はなぜかまた曇った顔をした。グラスに水を入れて再び大原警部の手に渡した。この時の鈴木竜の表情は最初に戻った。


そんな鈴木竜の顔をじっと見つめながら大原警部は穏やかに訊いた。


「恋人とかいないかね?」


大原警部の出し抜けた質問に鈴木竜は一瞬びくっとした。


「恋人、といえるほどではありませんけど。大切に思う人ならいます」鈴木竜の顔には赤みがさした。


「それがまさに恋心ですよ」とからかうように大原警部がいった。


「そうかもしれませんね」鈴木竜はなんとも言えぬ笑顔を浮かべて思いに耽った。


「その人はだれですか?」


新居刑事の言葉に我に返った鈴木竜は答えた。


「片思いですので、言いたくはありません。警察はそんな事まできくんですか?それとも僕の片思いしている相手は事件となんの関係があるんですか?」


鈴木竜の問いに新居刑事は決まり悪そうなそぶりを見せて「一応念のために」と答えた。


この時、大原警部がさりげなく口をはさんだ。


「もしかして、内田薫さんではありませんか?」


大原警部の言葉を聞いて、鈴木竜の顔はますます赤みを増した。


「鈴木さんのご様子からは、図星ですね」


鈴木竜は何も言わなかった。頭はだんだん胸の中に沈んでいった。


「それはだめです!」ときっぱり言う新居刑事の言葉に鈴木竜ははっとして顔を上げた。


完全に内田薫を諦めていないなあ、と大原警部は思い、苦い笑いを浮かべた。


大原警部は次の質問に入った。


「仕事は飲食店もバイトと書いてありましたね」


「はい」


「人の世話をするのが好きっていうんですか、ただのお節介じいさんかも知れないんですけど、就職する気はありませんか?」


鈴木竜の顔にいやだという表情が一瞬表れてすぐ消えた。


「今はまだ、考えていません」


「それはためですよ。もう二十歳も過ぎているんだから、これからの人生をちゃんと計画して実行しないと、遅れてしまいますよ」


「計画は一応あるんですけど……」鈴木竜の声は段々消えていった。


「ほおう、もしよろしければ教えてくれませんか?」


「すみません。まだ実現していないので、言いたくはありません。もし実現できたら、その時、まだ私の事を覚えてくれたら、分ると思います」


「もしや、エンターテイメント方面にご興味ありますか?」


大原警部の問いに鈴木竜は何も言わず俯いた。身体が小刻みに震え出し始めた。


大丈夫?と声をかけても頭をうなずくだけで、話そうとはしない。


これ以上何も得られる情報がないと見込んで、別れの挨拶を言った後、大原警部は新居刑事を連れて104号室を出て行った。その時も鈴木竜も椅子に坐ったままだ。


「なんか変な感じがしますね」


「君にもそんな感じがしたかい。実は僕もそうなんだよ。鈴木竜は何かを隠しているに違いないけど……」


「けど、なんですか?」新居刑事は先をすすめるように促した。


「鈴木竜と初対面する人なら、誰もが好きになれそるだね」


「あの目にじっと見つめられて、いたたまれない気持ちもするんですけど……」


「でも、魅力的だよ。あんな人の目を見て話を聞く人がすきだからね。もちろん、そんなことに抵抗がある人も沢山いると思う。もう少し、明るい性格になったらきっとモテモテの色男になれるんだけど、そうなるとまた別の問題がいっぱい起こるから、今のままでいいかもしれない」


大原警部はさっきまでの鈴木竜と会話した場面を思いながら言った。


「それより、鈴木竜を見て君はどう思うのかね」


「人は見た目によらずってところですかね」この答えに、新居刑事は少し自信を持っていた。


「そう、新井君。そのとおりだよ。鈴木竜のような人はいつも感情を押さえ込んでいるから、自分にも知らないうちに心がねじれてしまうから」


「心がねじれてしまうまではいかないでしょう。ただ、ちょっと暗いなあって思ったまでです」


「鈴木竜みたいな人を沢山見てきたから、分るんだよ。心がねじれているほどでもないと言ったね。実はそうはいかないんだよ、新居君。なぜ僕たちは一人の人間を評価する時、優しいという言葉を使うのかね?考えたことはある?」


「それが、うん、よく分りませんけど。見た目は大人しい感じがして、人にいつも笑ってくれて、困った時には助けてくれる、こういうことをすると、優しいと言いたくなるかもしれません」


「大体はそのどおりだよ。つまり、『優しい』を僕たちが評価した人は、いつも自分の本当の心を隠していることになる。そうするとどうなると思う?人の心にはね、『厳しさ』もいないといけないんだよ。でないと、心理的バランスがとれなくなって、病と化してしまう」


「大げさではありませんか?」新居刑事は信じていないらしかった。「もし、大原警部の言葉どおりだと、そんな人はこの世にいっぱいあるんじゃありませんか?」


「確かにいっぱいあるよ。ただ、一部の人は心理的バランスを保つ方法を見つけたから、普通に暮らせるんだよ。しかし、鈴木竜の場合はね、まだ見つけていないらしいんだよなあ」


「じゃ、鈴木竜はどうなるんですか?」


「さあね、どうなるかはもっと話してみないと分らないものだから、今はなんとも言えない」


大原警部は考えながらつぶやいた。


「赤い髪の毛にも注意したのかい?」


「もちろん、注意しましたよ。ただ、明かりの下でしか赤に見えないんですね。いっそう真赤に染めればいいのに」


「それはね、鈴木竜は注目浴びたいと思うけど、そうする勇気がないからだよ。いつも、他人が見つけ出して褒めてくれるのを待つ。髪の毛を真赤し染めたいけど、そうする勇気がない。あの髪も自分で染めたのに違いないなあ。理容師なら、あんな下手に染めるわけがないんだから。明かりがないと普通の黒い髪に見える。だから、鈴木竜が外部の力を求めているんだよ。自分からは少しの努力をしました。だから、残りは全部あなた方がやってください。こんな甘い考えが芽生えるものだよ」


大原警部は少しの間、口をつぐんだ。


新居刑事は大原警部が言った言葉をじっくり考え始めた。なんとなく分った気がするけど、何が分ったかと訊かれてもはっきりとした答えが出てこない。


「タバコもそうだよ」大原警部がまた話し始めた。


「タバコとなんの関係があるんですか?」


「鈴木竜はね、『鈴木さんもタバコを吸うんですか?』と驚いて訊かれるのを楽しんでいるたちなんだよ。見た目からだと、誰もタバコを吸っていると思わないでしょう。そんな、他人の口から聞きたい言葉を言わせるより、他人の口から聞きたい言葉を言わせるようにしないと、鈴木竜はずっとあのままに、なにも成功することができないね。根性がないからかなあ、なかなかの好青年のように見えるのに。実に、かわいそうだ」


「なら、部屋に入った時そんなお褒め言葉でも言ったらもっとペラペラとしゃべってくれたのかもしらないじゃないですか?」


「鈴木竜のようなタイプの人間はね、内向的だから、聞かれたことにしか答えないんだよ。田中富士子みたいにおしゃべり好きな人ではないから。会話を続けたくていろいろと頭の中で必死に考えているけど、会話は自分が思ったほどスムーズに続けないのが常なんだよ。そんな自分を責めつづけるけどどうしようもない。その苛立ちもどんどん心の奥に溜まって……」


「溜まって?」


新居刑事は大原警部の次の言葉を待っていたが帰ってきたのはまったく別の言葉だった。


「そう言えば、今はもうお茶の時間になったんだね。新居君、一緒に行こうじゃないか」


新居刑事は何か文句を言おうとしたけど、大原警部は大股で歩き出した。


近くにある喫茶店に入ってお茶を頼んだ。ついでにお菓子も注文した。


「警部。ここで油をうってもいいですか?」クッキーを食べながら新居刑事が訊いた。


「なにがいけないのかね」


「同僚たちは今も事件をいろいろと捜査しているのに、二人はここでのんびりとお茶とかを飲んでいるんじゃありませんか?」


「それは違うだよ、新居君。のんびりお茶を飲み、お菓子を食べているわけではないよ。のんびりというより、ゆっくり、じっくりお茶とお菓子の香りを嗅ぎながら味わう、と言ったほうがこの場合に相応しいと思うんだね」


「別に、なんの変わりもないじゃないんですか」


「大ありだよ、新居君。のんびりは僕たちが仕事をサボっているように聞こえるんじゃないかい」


「今はまさに、サボっているでしょう」と言って、新居刑事はお茶を飲み干した。


「僕たちはここでサボっているわけではなく、体と頭を休ませているだけなんだよ。もっと効力よく働くためにね」


「本当ですか?」訝しげに新居刑事は言った。


「本当だよ。だからね、新居君。今までの事情聴取から見て、君はこの事件をどう思うかね?」


真剣な顔で、こんな質問したので、新居刑事は一瞬口ごもった。


「僕から見ては、一番怪しいのはやはり内田薫だと思います。認めたくはありませんけど。0時45分に帰ってきて、長谷川健也を殺した。恋人同士だったので、部屋に入っていても長谷川健也はなにも疑わないと思います」


「なら、管理人の35分に聞こえたという物音はどう説明するのかね?」


「物音は毎日聞こえるものですよ。その音がしたからといっても、何の証拠にもならないと思います。現に、田中富士子は聞こえていないと証言したんじゃありまんか」


「つまり、管理人は嘘をついたと」


「いいえ、嘘をついたとは言っていません。ただ、管理人が聞こえたというあの物音は今回の事件と、関係ないと思います」


「なら、新居君。田中富士子が聞こえたのに、聞こえなかったと証言することだってあるのではない?」


新居刑事は黙っていた。


「35分に物音が聞こえた。45分に部屋に入ったら誰か走る音が聞こえた。まるで、35分に犯行を犯した犯人が45分に出てきて逃げたというふうだなあ」


「本当ですね。だから、やはり内田薫が犯人ですかね?」


「もし、そうだとすると、偽証をした管理人も今回の殺人事件に関与していることになるんだね。嘘をつくなら、もっとうまくついてほしいんだね。35分から45分までに10分の間隔があるのに、その間、犯人は何をしたと思う?まあ、それはそれとして、」


大原警部はお茶をもう1杯頼んで話を続けた。


「包丁に内田薫の指紋が残っていることをまたこだわっているんだね」


「違います」


「よく考えたまえ。内田薫は部屋に入って廊下を走る足跡が聞こえたという。けれど、田中富士子はそんな音が聞こえたなど、一言も言っていない。もし、田中富士子の話を信じるなら、内田薫はなぜそんな嘘をついたのか?もし、内田薫の話を信じるなら、なぜ田中富士子は本当の事を言わないのか?そういう事にもっと頭を絞って考えなければならないけどね」


「でも、警部。長谷川健也が死んで、楽になるのは内田薫しかいないんじゃありませんか?」


大原警部は朗らかに笑った。


「田中富士子の話をよく思い出してみたまえ。長谷川健也と内田薫が争うのを見たと言って、教えてくれた途切れ途切れの会話の断片から解釈してみると、多分長谷川健也が別れ話を切り出して、内田薫は離れない、という具合だと僕はねらっている」


新居刑事は、あんないい女をふる長谷川健也への怒りの気持ちが湧き上がってきた。


「だから、内田薫が長谷川健也を殺したとしても、なんの意味もないと思うんだよ」


「分かれるなら殺してあげる、と思う可能性は?」


「その可能性がまったくないとも言い切れない。しかし、内田薫はとっちかと言うとずっと一人で堪え続けるたちの女なんだよ。忍耐力については、男より女のほうがもっと優れているからね」


「もし、内田薫じゃなかったら、誰が犯人なんですか?」


「そうだね。まだ隠された真実は沢山ある。早いうちに全部見つけ出さないと。それでは……」


「現場に戻るんですね」と言って、新居刑事は椅子から立ち上がった。


「晩ご飯を食べに行こうか?」


「え?!」


「腹をすかしていては、仕事に集中できないからね、新居君。近くにラーメン屋があったから行こうじゃないかい。ラーメン好きだろう」


「まあ、好きですけど」


「晩ご飯を食べて、今日の仕事は終わったことにしよう。新居君、今までの証言をよく考えてみることを忘れちゃいかんよ」


「はいはい、分りました。お茶とお菓子を食べたばかりなのに」


「よく言うのではないかい。食事の胃とデザートの胃は別々だと」


「それは、女の子の事を言っていると思います」


「女の子たけでなく男の人にも適用するんだよ、新居君」


「でも、大原警部も健康のことを考えないといけないんじゃないですか?そんなに食べているから太るんですよ」


「体のことは大丈夫。見てのとおりまだまだ健康だ」


「そんなの病院でちゃんと検査しなければわかりませんよ?今年、健康診断はしたんですか?」


「ほら、そこにラーメン屋が見える。早く行こう」


「今、話をはぐらかそうとしましたね?もしかしてしてないのではないんですか?」


大原警部は答えなかった。


「行ってるんですか、行ってないんですか?」


新居刑事の質問に大原警部は何も言わなかった。


「ラーメンのいい匂いがするね。早く食べようか」

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