5

205号室のドアは少し間を置いてから開かれた。若い女性の部屋のいい香りが漂ってきた。淡々とした化粧が施された顔は疲れ切っていた目まで隠せなかった。内田薫をみて、同情できずにはいられなかった新居刑事だった。


「どうぞ」と言って内田薫は身をそらした。


「レディーの部屋に入るのは紳士としてあるまじき行為でございまして」と大原警部は断った。


「立って話すよりいいと思います。立ち聞きされては困りますので」内田薫の声は無力そのものだった。朝からの警察沙汰で気分を害していたのだろう。


「それではお言葉に甘えて」


内田薫の部屋は綺麗に掃除されていた。田中富士子の部屋とは違って純朴だったけど、ところどころにつけた飾りで、女子の繊細を失わなかった。


「お茶でも用意しましょうか?」と内田薫が尋ねた。


「お願いします」


本当に飲むのか?と思った新居刑事は自分は断ることにした。内田薫の事情聴取が終ってからまたお茶を飲みにいかなけれがいいと願い始めた。


「少し待ってください」


歩いて2歩もいらないキチン台の前で内田薫はお茶の準備に取り掛かった。


始めて見た時から内田薫に好感を持った新居刑事はその後ろ姿に見とれた。長谷川健也と何があったかは知らないけど、内田薫は今一人身だ。僕にもチャンスがあるはずだと、新居刑事は秘かに企んだ。


内田薫はお茶を一杯持ってきて大原警部に渡してから、椅子に坐った。目はうつぶせになっていて何か考え事でもしているようだった。


新居警部はその様子を痛ましく見つめながら、心の中で何度も自分は警官だと言い聞かせた。ようやく心を決して話し出した。


「昨夜、0時から2時までどこで何をしていたか、教えてくれませんか?」


「それは、さっきの警官に話したと思いますけど」内田薫はつぶやいた。


「できれば、もう一度話してくれると助かります」


「分りました」内田薫は一息吸った。「0時20分頃に友人たちと別れて最終電車に乗りました。ここに着いたのは0時45分頃だったと思います」


「書類によると、ドアを閉めてからすぐ誰かが廊下を走りわたる音が聞こえたと書いてありましたけど」


「そうです」


「詳しく話してくれませんか?」


「ドアを後ろ手で閉めて靴を脱ごうとした時のことです。誰が走る音を聞こえたので、不審に思いました。足音は階段を駆け下りていきました」


「ドアを開けて誰なのかを見なかったんですか?」


内田薫は急に黙り込んだ。唾を飲み込む音さえはっきりと聞こえてきた。


「昨日はとても疲れたのでわざわざドアを開けて確かめる気はなかったのです。すぐ、ベッドに入りました。それに、怖かったので」


「ベッドに入ったのは何時でしたか?」


「たぶん1時になったと思います」


「今日は何時に起きましたか?」


この新居刑事の問いに内田薫はすこし困惑した様子だった。


「今日はいつもとおり、6時におきました」内田は目を大きく開いて新居刑事に尋ねた。「私が何時に起きたか、この事件と関係ありますか?」


新居刑事はまごつきながら答えた。


「あっ、ええと。一応念のためです」


きまり悪そうな笑顔をして新居刑事はまた質問を出した。


「今朝は何を召し上がったのですか?」


「牛乳だけです」不機嫌な顔をしていたが、内田薫は答えた。


「独身ですか?」


「もう一度お聞きしますけど、そんな事は今回の事件と何の関わりがありますか?」


新居刑事はこの展開にすっかり気をひるんでしまって、口を堅くつぐんだ。


「怒らないでください。駆け出しの刑事なので、いろいろと不束なことを訊いたのですが、どうぞお許しを」


大原警部の穏やかな宥めに内田薫も少し落ち着いたらしい。


「後、何か訊きたいことでもあるんですか?」


「そうですね。事件の話に戻りましょうか?長谷川健也とどういうご関係ですか?」


内田薫はわずかながら眉をしかめた。


「ただの隣人同士です。別に親しくはありません」


「なるほど。そうしますと、長谷川健也の部屋から見つかった凶器にあなたの指紋が着いていたことをどう思いますか?」


「確か前に一度貸した覚えがあります。それっきり返してこなかったのですっかりその事を忘れていました」


「ところで、他の住人たちとも普通の隣人関係ですか?」


この大原警部の問いに内田薫は少し考えてから答えた。


「会えば挨拶ぐらいはします。でも、それ以上関わっていません。私はそんなに人付き合いのいい人ではありませんので」


「悲しいもんですね」


「何がですか?」内田薫は訊きかえした。


「昔はよかったんですよ。隣人同士はまるで家族みたいに助け合いながら暮らしました。おかずを作っては分け合うし、互いの面倒もみてくれるし。それに比べて最近といったら」と言った大原警部は横に頭を何回か振った。いかにも残念そうに。


「私の故郷はそんなことありません。人の心が冷めたのは大都市だけだと思います」内田薫は静かに自分の意見を述べた。


「そのとおりです。人情味あふれる場所はまた沢山いますとも。けど、だんだんなくなっていくのは認めざるを得ません」


内田薫はかすかにうなずいてみせた。


「これからの話はただのおせっかいなおじさんの優しい心遣いからのものだと思ってください。会社では気になる男性なんかはありませんか?」


この問いに新居刑事は耳をそばだてた。そして、内田薫がないと答えたのを訊いて安堵の息を漏らした。


「なら、うちの警察でもご紹介しましょか?なかなかの好青年がいっぱいおりまして。どうです?」


「ご好意には感謝しますけど、」


「そう言わずに、例えばですね」


自分の事を言ってくれるんじゃないかと新居刑事は少し心を躍らせた。


「うちの課に石山という若いものがいまして、逞しくて優しくて思いやりがあって」


内田薫は作り笑いをしてやめさせた。


新居刑事はがっくりした。


「余計なお世話でしたか」大原警部は気まずそうに言った。


「いいえ、ただ、今はそんなことを思う気分じゃありません」


「そうですか。何にかいやな思いをなされたのですか?恋愛に?」大原警部は穏やかに尋ねた。


「そういったところです。なぜかいい男には巡れなくて。私の運命なんでしょう」苦い笑いを浮かべた内田薫は拳をぎゅっと握りしめた。


こんな内田薫の姿をみて新居刑事は抱きしめたく気持ちをぐっと押さえ込んだ。


「またお話しを戻りますが、昨夜一緒に居酒屋へ行かれた友人の連絡先を教えてもらえないですか?」


「はい。分りました」言い終わって内田薫はメモ用紙一枚に友人の名前と電話番号を記して大原警部に渡した。


「ありがとうございます」メモ用紙を受け取って大原警部は礼を言った。「それではここで失礼いたします」


205号室を後にして新居刑事が言った。


「レディーの部屋には入りませんと言いながら、入りましたね」やや皮肉めいた口調だった。


「しかしね、新居君。レディーの誘いを無駄にするわけにはいかないんだよ。紳士としては」


「田中さんの部屋に入るときは何の断りもしなかったんじゃないですか」


「辞書でレディーの定義を捜してみればよい。ところでだが、内田薫のことが好きかね?」


新居刑事の顔はたちまち赤くなった。


「その様子では図星だね」


「でも、」


「躊躇う必要はないと思うよ」


「そうですね。やはりこういう時は男性の方から積極的に近寄っていくべきですね」


「だが、新居君」


「分ってます。今はまだそういう話を持ち出すにはやや早いですね。何日が過ぎてから内田さんに連絡します」


「違うんだよ、新居君。君は僕の言っている意味を誤解しているんだ」


「えっ?」新居刑事は困った顔をした。「どういうことですか?」


「きっぱりその片思いを打ち切るべきだと僕は思うんだがね」


「なぜですか?」新居刑事は納得がいかなかった。


「君には相応しくない女だよ。内田薫は。君も内田薫に相応しくない男だ」


「そんなこと決め付けないでください」


「決め付けるんじゃなく、事実なんだよ。内田薫はね、君みたいな人を好きになったりはしないんだよ」


「そんなの認めません」むっとした顔になった新居刑事だった。


「君にはもっと年がとった女が似合うんだがね。例えば20歳ぐらい離れた女がびったりかもね」大原警部は意地悪く笑った。


「いやですよ。20歳も離れたらお母さんレベルじゃないですか」


「すまん。今のは冗談だよ。しかし、年が取った女が似合うのは本当だ。5歳がちょうどいいかな」


「でも、」新居刑事はまだ内田薫の事が気になっていた。


「内田さんはね、小さい頃から大人しく暮らしてきたと思うね。だから性格が悪い男に惹かれるんだよ。自分もいい男といたがっているつもりだけど、心はどうしても今まで味わってこなかった刺激ても言うべきものを求めるんだ」大原警部は新居刑事を優しく見つめた。「そう落ち込むことはない」


「忘れたことがあるんですけど。長谷川健也と争ったことをちゃんと訊いていなかったんです」


「そんなことは今訊かなくてもいいよ。いずれ明らかになるんだよう。さあ、104号室の住人が戻ってきたか見に行こうじゃないか」大原警部はこう言って先頭に立って階段を下りた。


ちょうどその時だった。104号室のドアが閉じる音がした。


「戻ってきましたね」と新居警部。


「行きましょうか。男の住人だからお茶をいれてくれるほどのもてなしはしないけど、ジュースでもあったら嬉しいんだけどなあ」


「あっ、そういえば」


「なんだね、新井君。」


「ちょっと待ってくれませんか。トイレ行くのをずっと忘れました」


大原警部はやれやれと頭を振った。


トイレから戻った新居刑事は、たった今思いついたことについて聞いた。


「警部」


「なんだね?」


「内田薫と一緒に居酒屋へ行った友人の連絡先は報告書に書いてありましたけど、なんでわざわざもう1回聞いたんですか?」


「新居君、もし、君が罪を犯した場合……」


新居刑事はすばやく口をはさんだ。


「僕は犯罪なんかしません!」


「いやいや、例えばの話なんだけど。警察に現場不在証明を証明できる証人があるとしたら、君はどんな表情をすると思う?」


「僕ですか?」


新居刑事は考えこんだ。


「多分、ほっとすると思いますが、」


「しかし、君は内田薫の表情を見たかね?」


「なんていえばいいでしょうか。魂が別のどころにあるような……」


「そこが引っかかるんだよ。自分の現場不在証明について全然興味ない顔をしている。別のもっと大きなな事に気が取れれているらしい。確かに、長谷川健也の死で衝撃を受けたのかもしれないけど、恋人を失った女の表情でもない。分らない女なんだよ」


内田薫への推理もいったん終ったので、二人は104号室のドアを叩いた。

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