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バイトへ行く前に管理人室によった。家賃を払うため。


ノックする前にドアが開かれ、管理人はにこにこしながら出てきた。待っていたかのようだった。


「家賃かね?」


「は、はい」竜は少し戸惑いながら答えた。


「鈴木君はいつもちゃんと家賃を払ってくれるから助かるよ。それに比べたら長谷川君は社会人としての常識っていうもんがない、まったく」一瞬、顔は曇ったがすぐ笑顔になった。「昨日、いきなり訪ねてきて来月から出て行きますっていうんだから。酷い話だよね?普通そういうのは一ヶ月前に申し出ることだと思わない?」


竜はそうですね、と相槌を打って肩越しに見える管理人室の壁にかかってある時計にちらっと目を向けた。後2分愚痴をきいてから離れようと考えた。はっきり断らないのが竜の優しさなのかそれとも弱さなのか分らない。切羽詰った情況にならないと竜はいつものんびりする。


管理人は田中さんも家賃を決めた日時に払わなかったことを言って話を矢先をまた長谷川に向けた。


「先月の家賃も期限までに払わなかったから、電話を掛けてみたんだね。そしたら、『この電話番号は現在使われておりません』となってるんだよ。それで本人に確かめてみたら、『自分は携帯持ってないんで』と答えるんだから、どうしようもないじゃない。来月で部屋を引き払うのはありがたい話だけどね」


そのわりに、管理人の顔は残念そうだった。


「つぎに入ってくる人は常識とかをわきまえてほしいものね。ギターとか歌の音で騒いだことも大目でみてやったのに。これだから今の若者はだめなんだ」管理人はすぐ言葉をつづけた。「勿論、竜君は違う。本当にしっかりした子なんだから。ふるさとを離れて、一人で上京して、大変だろう?」


「いいえ、そんな事ありません」竜は恥ずかしそうに答えた。自分は何の苦労もしていないから。本当の自分を知ったら管理人はどうおもうんだろう?


「まあ、これからもずっとここに住むつもりだよね?」


「はい。問題がなければ」


管理人は竜の言った「問題」を間違って解釈した。竜の「問題」は、夢が叶えたらすぐここから出て行く意味だった。でも、管理人は誤解した。


「問題もなにも。このアパートはね、建築して以来なにも問題なかったよ。雨漏れはないし、掃除もちゃんと業者に頼んであるし。それに、駅からは近いし、近くにスーパーもあって便利でしょう?事故物件でもないし。そうだろう?」


「はい、そうですよね」


確かに、20年前に建てられた建物としてはなかなかいいかもしれない。建物はしっかりした。古ぼけた感じはするけど、それがいっそうアパートの重々しさも引き立てた。ただ、駅から20分以上歩かなければならないことを「駅から近い」という管理人さんの言葉には賛成できない。


「竜君みたいな人が次の住人になるのを期待しているよ」


「あの、私もうバイトへ行かないと……」竜は管理人が息をする隙をうかがって口を開いた。


「そうだったね、じゃ、いってらっしゃい」


管理人にお別れの挨拶を告げてアパートを後にした。


38分の電車に間に合いますように、と祈りながら竜は足を速めた。


「あの人、引越しするんだね」信号を待っている間、竜が話し出した。


「そうみたいね」僕は答えた。


「きっと、今より何倍もいい部屋に住むでしょうね。夢が叶えたからどんなに気持ちいいんだろう。夢が叶えた時の幸せはどんな感じだろう?」


「そうだね」


「そんな幸せを感じてみたいね」


「そうだね」


「羨ましい」


そう言ったきり竜は黙り込んだ。羨ましいより、恨めしいと言いたかったんだろう。


信号が青になったので竜は歩きだした。


「下ばっかりみてると、誰かにぶつかるよ」僕が言った。


僕は下を見ながら歩く竜に注意した。


「相手が勝手に避けてくれるから大丈夫」


そういってすぐの事だった。竜は誰かとぶつかって尻餅をついてしまったのは。痛いと言いながら同じく倒れた相手をみると、長野さんだった。


「すみません」竜が先に謝った。


竜は早く起きて長野さんの手を取って起こしてあげようとしたけど、長野さんは竜の手を取らなかった。


「いいえ、こちらこそ」と言いながら立ち上がった長野さんはすぐ行ってしまった。


信号が点滅するのを見て竜は小走りで横断歩道を渡った。


「長野さんはいつも俯いて歩くね。危ないのに」


「あなたも同じもんでしょう」僕は皮肉を込めて言った。


「誰か地面に落とした小銭でも見つけるつもりかな」僕の言葉を無視して自分の言いたいことだけ言った。「小銭が落ちてもせいぜい10円ぐらいだけどね。それに、目は完全に前髪に隠されていたから、前がはっきり見えるのかな」


「見えるでしょう。髪の毛の隙間から」


誰かの悪口を言うのは楽しいことかもしれない。竜の機嫌はちょっとばかり晴れてきた。しかし、バイト先に着いた瞬間、どことなく思いつめた顔をした。その顔を見た店長は「どうした?」と訊いた。


竜は無理やり笑顔を作って「なんでもないです。さっきまでずっと寝てだから頭がぼんやりしてるだけです」と答えた。


自分はまたこのバイト先へ来てしまったことに、嫌悪を感じているでしょう。店にでもなく、従業員たちにでもなく、こんな自分に。何か変わった日常を夢見ているのに、現実はいつも変わらないから。


志は空より高く、海より深い。けど、竜はただ遠くでその高さ、深さを推測するだけ。自分から一歩を踏み出して距離を測ろうとはしない。でも、自分との距離は遠いことくらいは多分、意識しているでしょう。ただ、そんな美しい憧れを容易く捨てられないだけ。


本当に好きな職業を探して、その事だけに精を出してほしい。頑張ろってかなえようとしない歌手の夢を捨ててほしいのに、竜も頑丈だから、言うことを聞かない。輝く自分の未来の姿にすっかり見とれた竜だ。


バイトが終って家にもどっても竜は暗い顔をしていた。バイト代が入る日には喜ぶけど、そんな日は月に一回しかいない。


竜はすぐ眠りに入った。


明日から長谷川はここからいなくなる。二度と会えなくなる。長谷川がまだこのアパートにいる間、僕が何とかしなくちゃ。竜のためにも。


竜がぐっすり眠ったのを確かめてから、僕はドアの前に耳をくっつけてそばたてた。今は23時半。長谷川、早く来て。竜がこのままろくでなしで生きる人生から救いだすためには、あなたが犠牲にしてもらう。あなたには夢というクラスから出て行ってもらう。その後は竜があなたの席に坐って、夢を見せてあげたい。


だって、竜なんだから。今はこんなだらしない人だけど、席についた瞬間、竜のすべては変わる。僕は竜を信じる。竜はやればできる人なの。ただ、今まで導く人がいなかっただけだ。

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