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101号室のドアをノックしたら勢いよく開かれた。少し興奮気味な田中富士子は待ってましたかのように、部屋の中へ案内してくれた。椅子が一脚しかなかったので、ふたりをベッドに坐るようすすめた。


「いやですね、こんな事が起こるなんて。もうここに住めませんよ」二人の警察がベッドに腰を下してから田中富士子が言った。


「他の部屋を探すつもりですか?」大原警部が訊いた。


「それが、そうもいかないんですよ。金がかかりますから。ここは家賃だけは安いからね。それにバイト先からもちょうどいいところにあるし、近所さんたちとはもうすっかりお供達にもなったので、まだ引っ越すつもりは」


田中富士子は左手を口に当てて微笑んでからお茶をいれてきますといってキチン台へ向かった。一気に話したので新居刑事と大原警部にお茶をいれるより、自分の喉を潤いたい気持ちが大きかった。


田中富士子の部屋の中には化粧品の匂いでいっぱいだった。インテリアーも派手すぎな赤とピンクで彩られていた。中年女性には似合わないなぁと新居刑事は思った。


「どうぞ」


二人は礼をいって内田さんからお茶をもらった。


「昨日は何時に帰りましたか?」と新居刑事。


「これって、容疑者への事情聴取です?」田中富士子の口調は浮いていた。楽しんでいるようだ。


「いいえ、一応念のために訊いています」


「なら、昨日の事は詳しく話したほうがいいね」


「そうするとありがたいです」


「昨日はね……」わざとらしく思案顔をしてから田中さんは話をつづけた。何を話すかもう頭の中では思っていたのに。「いつもとおり、8時には部屋を出てバイトへ向かいましたよ。玄関で長谷川君に出会ったんですけど、あたしの傍を素通りしましたの。礼儀しらずだから、あたしは別に気にもしてないんですけど。店に着いたのは9時半頃だったと思います。夕方の7時まで働いて家に帰ってきて。あっ、その前にスーパーへ行って買い物を済まして部屋に着きました。その後はずっと部屋にいましたから、長谷川君には会っていませんでしたよ」


新居刑事は書類に目を通した。事前に調査したのと違いはなかった。


「昨日の夜、何か変なもの音とか聞こえませんでしたか?」


「聞こえませんでしたよ」


「本当ですか?寝ていて聞こえなかったとか……」


田中さんはそれ以上新居刑事に話させなかった。


「あたしの耳は本当にいいんです。少しの物音でもすぐ起きてしまうんです。昨日の夜はすっかり眠りに入っていましたの。なんの音も聞こえませんでした。これは本当です」


「管理人の話によると、0時35分頃に物が床に落ちた音がしたと言っていましたが」


「それは変ですね。あたしはいつも1時に寝るんです。肌に悪いのは分っていますけど、その時間帯にならないと、上の階に住んでいる住民たちがなにやら物音を出すのでなかなか眠れませんから。時には廊下を歩く足音さえ聞こえてくるんです。だからできるだけほかの住民が眠りに入ってから眠ります」


「そうですか。長谷川さんと昨日の朝以来一度も会わなかったんですか?」


「ええ、会わなかったんです。しかし、物音といえば……」と田中さんは言いかけた。


「物音って、なにか聞こえたんですか?」新居刑事は身をのりだした。


田中さんも自分がわざと言葉を濁らした効がきいていて嬉しそうだった。


「はい、聞こえたんです。あたし住んでいる部屋は長谷川君の斜め下なので、ドアの閉める音がはっきり聞こえるんです。わざと聞こうとしなくても、あの人はドアの閉め方が荒々しくて、それに歩く時も足に力を入れているので足音が大きくて聞こえてくるんです。それで何回か注意してみたんですけど、耳を貸そうともしませんでした。酷いと思いません?今時の若者は年上をなんと思っているのかさっぱり分りません。年上としてじゃなくても、一緒に住んでいる人に迷惑がかからないように生活するのが当たり前とは思いません?」


肯定の答えが聞きたく、口をつぐんだ田中富士子に大原警部は「まったくその通りです」と言い聞かせた。


「あたしが厳しいわけではありませんよね」


「で、その物音って言うのは?」新居刑事はこのおしゃべりな田中さんにいらいらしながら聞いた。


「物音といえば、203号室に住む長野君が長谷川君の部屋へ行ったことです」


「本当に聞こえてくるものですか?」新居刑事は疑わしげに訊いた。


「本当もなにも。今、2階でお仕事をしていらっしゃる警察たちの足音もはっきりと聞こえています」


ふたりも耳を傾けて聞こうとした。確かに聞こえてくれけど、弱い音だった。大勢の警察が上で歩きまわっている状態下でこれしか聞こえないのに、人間一人が歩いている時、本当に聞こえてくるものなのか?疑問はあるがまず続きが聞きたかった。


「それがどうしました?」


新居刑事は理解できなかった。同じ屋根の下に住んでいる人がお互い尋ねあうのが変に思っている田中富士子を軽蔑している様子だ。


「あたしが知っている限りですと、長野君は人と関わりたがらないたちの人ですよ。いつも部屋にこもっているオタクですから。あたしたちともあんまりしゃべりません。たまに廊下で出会って会話をしようと思って、こっちから近づくとすぐ逃げるんです。あたしはね、他の住人とは仲良くしているんですけと、長野君ときたら本当にどうしたらいいか、全然分りません」ここで、新居刑事が咳払いをしたので、田中富士子は話しを戻した。


「昨夜、長谷川君の部屋のドアがどかんと閉じた音がして、コンコンというすごい力で床を踏み鳴らす足音が聞こえたんです。その足音は間違いなく長野君のでしたわ。長野君の部屋のドアがぱんと閉じた音と共に足音も消えましたから。絶対間違いありません。あんなに大きな足音を残すなんて、きっと怒っているんでしょうね。でも、あたしには理解できないんです。なんで長野君が長谷川君の部屋に行くのかを。あの二人はあたしの知っている限り、一度も話した事がないとですから。その事が不思議で気になって、眠ったのがいつもより遅くなりましたの」


「何時ごろか覚えていますか?」新居刑事はすっけなく訊いた。


けど、そんな新居刑事の態度に田中富士子は何の反応も示さなかった。完全に自分一人で盛り上がっているようだ。


「確かに、0時10分頃だと思います。ちょうど深夜のニュースに時間掲示がありましたのではっきり覚えています。それで一つお聞きしたいんですけど」


「どうぞ」と大原警部。


「この殺人事件もニュースにでるんでしょうか?」


一人の人間が死んでいるのに、ニュースの事を気にしている田中富士子を新居刑事は心から軽蔑した。


「はっきりと申し上げることはできませんね」いつもと変わらぬ穏やかな大原警部の声だ。


「おっしゃるとおりです。はっきりしたことは誰もわからないんですから。昨日のニュースにも出てきたように、二人のタレントをやっている夫婦が離婚の際に、財産をもっと手にいれようと思って言った相手への誹謗、相手の不貞、いったい誰が本当の事を言っているのかは、誰もわかりませんよね」


新居刑事が黙っているのを見計らって大原警部が口を開いた。


「田中さんはここに住んでから何年経ちましたか?」


「あれこれ7年はあると思います。周りも静かですし、居心地がいいので、そこそこ暮らしむきがよいほうだと思います」


「なら、ここの住民の事はよくご存知でしょうね」


「それほど詳しくはありませんよ」ここで田中富士子ははにかんだ。「あたし、穿鑿好きじゃないですの。ただ人と付き合うのが好きなので、それなりに知ってることはあると思いますが……」


「それはそれは失礼しました。そういう意味ではなく。ここに7年も住んでいらっしゃるなら、なにかと耳にするでしょう。穿鑿ではなくても、そのような話は自然と耳に入ってくるものですから困りますね。それに、住人の事を心配していろいろ気をつけることも優しさですからね。田中さんはまさにそうやって、住人たちを温かく見守ったり、せわ好きと言われても助けたりしてきたことに違いありません。それは美徳ですよ。恥じることはありません」


大原警部のなにげない賞賛に田中富士子の気分はうれしくなった。顔からも喜びがあふれた。


「ごもっともです。みんなはあたしを穿鑿好きのばあさんと呼んでいますよ。勿論、この年になると、物事を昔のように思っていないので、気にもしていません。好きだった色も変わってきたり、好きだった食べ物も変わってきたり、よく傷付けられた少女の心も今は、石のように硬くなったり。とりあえず、時間と共にいろいろと変わってきました」


二度と戻って来ない青春が懐かしいのか、田中富士子の顔には切ない表情が浮かんできた。


「長谷川さんと住民たちの関係はどうでしたか?」と大原警部。


「あんまりよくないですよ。特に内田さんとね。内田さんは205号室に住んでいるOLですけど、もちろん知っていますね。あたしもあの二人が付き合っていたなんて夢にも思っていなかったんですよ。それが、この間偶然、争うのを見てしまったのです。恋人同士の揉め事、夫婦の喧嘩とでも言ったほうがいいでしょうか。雰囲気と時おり聞こえてくる会話の内容からは、長谷川君が別れ話を切り出したらしいんです。でも、内田さんは別れたくなさそうでした」ここで、田中富士子はお茶を一口飲んだ。


新居刑事は資料を見た。このことは書いていない。大原警部は言ってなうまく話しをさせるのがこのことだなぁと、少しは感心した。


(大原警部もすごいな)


「それは大変貴重なお話しです。田中さんのような住人に気をかけてくれるなんて、他の住人からは親しまれているでしょう。ここの住民が羨ましいです」


この大原警部のお世辞に田中富士子はすこし戸惑ったが、すぐ笑みを浮かべた。


「それほどでもないんです。あたしができる事をしたまでです。なにしろ、故郷を離れてここへ来たんだから、縁だと思って大切にしたいのです。最近の若者はご縁ということを考えていないらしいんです。全部、自分ばかりを思っていて。本当に困ったもんですよ」


これ以上お邪魔してはいけないと思った大原警部は、田中富士子に礼を言って新居刑事と一緒に101号室から出て行った。


話したいことを話してすっきりした表情の田中富士子。


「おばあさんたちはみんな大げさに言うんです」と新居刑事。


「大げさに言うんだけど、ちゃんと真実を基にしているんだ。大げさな部分を取り除くことができたらきっと真実が見えるよ」


「そんなもんですかね?大げさすぎて信憑性がないと思うんですが」


「それは違うよ、新居君。まぁ、これも経験をもっと積めばわかるよ」


大原警部は言葉をつづけた。


「じゃ、行こうか」


「まさかティータイムをもらいに行くんじゃないでしょうね?」


「もちろん行かないよ。田中さんの部屋でお茶ももらったじゃないか」

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