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取調室。


田中富士子は魂が抜けたような表情で、自分の犯行を述べた。


「あたしはあの日も天井と壁にくっつけた糸電話で周りの音を聞いていました。それがあたしの唯一の楽しみなんです。あんなことをしないと、何も知らないただのボケばばになるからです。おしゃべりばばと呼ばれたほうがもっといいです。いろんな情報を集めて、近所の人と話しあいます。


長谷川君が入ってきたことに気付き、あたしは少し興奮しました。このアパートにいる最後の夜だから、なにか特別なことでも起こるのではないかと。少ししてから、長野君が長谷川君の部屋から出てきたのを知りました。足音から相当怒っていると判断しました。


ここで急に水野さんの事が浮かんできたのです。あたしより、ちょっとばかり新しい情報を持っているからと言って、ちょっとばかり近所のばばにちやほやされるからと言って、生意気に振舞っているのです。一番許せなかったのは、その情報は全部、人を尾行して得たことです。あたしがもしバイトをしてなくて、独身でなくて、家庭主婦になったら、水野さんよりもっともっと沢山のうわさ話を集めたのに。


新しいうわさをあたしの前で得意げにしゃべっているのを見ると、腹わたが煮えくり返って、いつか見返してやろうと常に思っていました。


水野さんを見返してやることを思い出したら、どうしたらいいか全然わかりませんでした。


タイミングっているもんは本当に恐ろしいんですよね。ちょうどその時、テレビでミステリードラマがやっていたのですよ。犯人が人を殺して逃げたって話ですか、そのドラマの暗示ですかね。長谷川君を殺したらどうなるんだろう?って思いました。周りから嫌われているし、それに、内田さんともケンカをしていたのが近所にもいったので、きっと第一容疑者になると思いました。


それで、長谷川君への殺意がだんだん燃え上がってきたのです。長谷川君を殺して、それをネタにあたしはまだうわさ話の中心人物になれるんだと信じていました。


人を殺すには確かに勇気がいります。でも、あの時のあたしは何のためらいもなく、すぐ長谷川君の部屋へ行きました。殺人事件が起こったら、これはビッグニュースで、あたしは近所の焦点になりに違いないと思いました。事実、ここ二日間そうでした。


ドアをそっと開けてみたら、長谷川君は壁にもたれて坐っていました。目を閉じていたので寝ているのではないかと思いました。あたしはキチン台の上のある包丁に目が届きました。もちろん、料理の時に使うビニル手袋は準備していましたので、指紋は残しませんでした。寝ている人より無防備な人はこの世にありません。そして、寝ている人を殺すより簡単な殺人はいないと思います。


心臓を狙って突き刺した瞬間、長谷川君はぱっと目を見開きあたしの顔を見たのです。目には恐怖と疑念が混じっていました。そうでしょう。なぜ自分は殺されなければならないかってことはわかっていないでしょう。


長谷川君を殺してからあたしはすぐ部屋を出ました。階段を下りようとした時、104号室のドアが閉まる音がしたのです。あたしはとっさに2階のトイレに身を隠しました。隙間から、鈴木君が長谷川君の部屋に入っていくのがみえました。あたしはずっとトイレに身を隠しました。鈴木君は何分が経ってから出てきました。鈴木君が階段を下りていく音を確認してから、あたしも自分の部屋に戻りました。


死体が発見されて、警察が調べに来てから、あたしは思ったどおり、うわさ話の中心人物になったのです。水野さんの悔しがる表情をみるほど気持ちのいいことはないとあたしは思いました。


警察に情報をながしたり、近所のばばに事件の進展や警察の悪口を話したりしたのが、今までしたうわさ話の中で最高でした」


人を殺すにはそんなもっともらしい理由が要らないかもしれない。


これを聞いた新居刑事は魂が抜けたような顔をした。


「どうかね?最初の殺人事件は?」


取調室を出て、大原警部は新居刑事にきいた。


「どうっていわれても、今はよくわかりません」


「よくわからなくていいよ。そういうもんだから、事件は」


「でも、あんな理由で人を殺すなんて」


「世界は大きい。殺人になる理由も幾千万とおりがあるんだから」


「それはそうですけど、僕はもっと強い殺意があってから犯すんじゃないかと思ってましたよ」


「殺人は時にはそんな大した理由はいらないんだ」


「長い間の経験から得られた結論ですか?」


「そうだね。サイコパスたちもそうだろう。彼らが殺人を犯すのに大した理由はいらないんだ。まるで、人が何の感情もなく虫を殺すのと同じなのさ」


「怖いもんですね。人って」


「そうだよ。鬼より怖いものは人間なんだからね」


「そうかもですよね」

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