乙巳蛇話――序

 今年は巳年で、何か蛇に因んだ随筆を幾つかシリーズのように書いてみようかと年初から思っていた。

 思い出すたびに書こう書こうと頭の中で念ずるのであるが、一向に手は動こうとせず、そうこうしている間に、正月を過ぎてずいぶん経ってしまった。月も改まる頃合いには、「懐古趣味の僕としては旧暦に従えば可也かなり」との言訳を考えついて自らに言い聞かせ、その言訳を諸賢にも開陳するつもりだったのだが、そこにだに至ることなく、更にずんずんと時が流れ、旧暦にしてもすでに如月に入ってしまっている。

 いかんいかんと気ばかりは焦るのだが、どうしてどうして筆は一滴の墨をも含もうとしない。


 シリーズの題名のみはとっくの昔に決まっている。

乙巳いっし蛇話じゃわ」というのである。

 ご賢察のとおり、二百年ばかり昔の肥前だかのお殿様が隠居してから記したとされる「甲子夜話かっしやわ」に因んでいる。

甲子夜話かっしやわ」と「乙巳いっし蛇話じゃわ」。

 甲子きのえね乙巳きのとみという干支の対比や、巳年に蛇の話という縁由の趣、何より、両者の音韻が似通っているのが何とも好もしい感がある。しかも、乙巳の年の蛇の話という意義が過不足なく簡潔明瞭に表現できたと思われる所も吾ながら悦に入っている。ただ、名前を因んだはいいが、僕は先達の書物に目を通したことがない。この際、一つ読んでみようかとちらりと思ってみたりもするけれど、こちらの方も何だか面倒くさい。それでwebで調べたり、AIに教えてもらったりしただけで拋擲している始末。


 せっかく、気に入った名前を思いつきながら、墨筆に手を伸ばさず、縁ある書物を開きもせぬのは、怠け者の所業に違いない。

 やるべきことを先延ばしにしてしまいがちな無精者を諭すに、「とりあえず手を付けてみることが大事」という趣旨の箴誡をよく目にも耳にもするけれども、なるほどそうだろうとは思う。そうだろうとは僕も思うが、一向に硯箱の蓋に手が掛からない。

 もっとも硯箱などと恰好を付けているが、それは勿論ものの喩であって、今の世の中、実際に硯に水をたらし墨を磨って随想の筆を執るなどというような仁は、余程典雅なるもの好きであろう。僕みたような俗物にはとてもとても及びもつかない。

 何の手間もあろうものかは、PC電源を入れるだけで事足りるのではある。しかるに、そうしてみた所で、マウスカーソルの行方は文書作成アプリのアイコンをスルーして、ブラウザをクリックし、吾が目はSNSなどを無感興に眺めているばかり――


 まあ、そんな煮え切らぬ毎日に、自分でもほとほと嫌気がさして、とりあえず手を付けてみた次第である。

 はい、その通り、ともかくも手は付けてみました。ただし、今後どうなりますかは、保証できかねまする。

 まあ、成否の程は天のみぞ知る所ながら、今年、何か蛇の話題をものする折には、「乙巳いっし蛇話じゃわ」を冠しますというお知らせである。不乞御期待。



                         <続>












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