コウさんのことなど――ニッポンジンパカヤロヨ

 コウさんは、コウ=シカという名前だったらしい。

 どういう字を書いたのかは知らない。

 というより、コウさんにかかる記憶自体がはっきりしない。もう半世紀近くも前のことである。

 ただ、あいまいな記憶であるにしても、印象が強いので決して忘れることはできない。


 子供の頃、年寄たちの集まりで耳にした話を、おぼろげながらに思い出す。


「シュウさんは好い人だったけどね。

 他の支那人は性根が悪いこと悪いこと。

 中でもコウ=シカが一番悪かったね」


 僕の田舎は小さな町だった。

 そこに三人だか四人よったりだかの〝支那人〟がいたらしい。


 戦争に負けた日本で、コウさんたちは、靑天白日滿地紅旗をマントにして、

「ニッポンジン馬鹿野郎パカヤロヨ」と町を練り歩いたのだそうだ。


 そのマントが、何時の間にかに、五星紅旗に替わったらしいが、やっぱり、

「ニッポンジン馬鹿野郎パカヤロヨ」と町を練り歩いたらしい。


 しかし、僕の頭に残っているのは、コウさんの記憶だけで、他の中国人のことはまったく知らない。

 何となれば、コウさん以外の人たちは、僕が子供の時分にはすでに町からいなくなっていたのである。

 亡くなったのか、どこか別の土地に移ったのか。


 僕の記憶の中にあるコウさんは、ごま塩頭の短髪に、頬に刻まれた深い皺。年の割りには大柄な人だったように思う。

 にこやかに破顔しているさまはまったく思い浮かばず、どちらかと言えば、いつも苦虫を嚙み潰したかのような様子だった印象。

 もはや五星紅旗をマントに練り歩くような元気はなかったものの、言葉の端々にも顔を覗かせる狡猾そうで狷介なそぶりに、困惑と不快の眉を顰めていた大人たちの表情を今でも覚えている。


 子供にとってもコウさんは近付きがたい存在であった。

 それでも僕はコウさんに何か怒られたような記憶はない。

 まあ、もとより、コウさんとは日常の挨拶以外の会話など、交わしたことがなかったのではあるけれども。




                         <続>




   ※ 固有名詞などについては、現実のものから変更している。









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