正義の底意地 ―― 意地悪ベンチ
新宿区の公園に設置されたベンチが話題になっている。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/900001933.html
座面が蒲鉾のような山なりの形状をしており、背もたれも無い。座るにしても座りづらく、寝転がることなど到底出来ぬようなベンチ。
そもそもベンチとは人が寛ぐためにあるものだが、このような形のベンチの上では到底ゆったりとした気分にはなるまい。
この新宿区の例のみならず、街中にはおかしな形状のベンチや椅子が至る所に見受けられる。これらが街に増え始めたのはいつごろからだろうか?
Webで少し調べてみたが、よく分らない。僕の記憶からすると、二、三十年前あたりから目にし始めたように感じられる。
これらが増え始める少し前の時期、公園や河川敷など、私有地以外の国有・公有の広場では、ホームレスの人たちが段ボールハウスなどを設置したり、公設のベンチをベッド代わりにして占拠したりするような状況があちこちで見られた。
子供やその他一般の人たちの使用が暗黙的に排除されるような恰好であり、このような公共の空間を特定の人が占有することには明らかな不都合があった。これを予め防ぐために、自治体などが〝工夫〟した措置の一部が、件のベンチなどであったのだろう。
初めの頃は、ベンチの上に仕切板のような木片を設置することによって、座面に寝転がることを物理的に拒絶するような仕様であったが、それではあまりにも露骨すぎると評判が悪かったものであろうか、次第に形が変化していった。仕切の形状を肘掛けのようにしたり、曲線を多用するアートな形状のベンチにしたり、ベンチを撤去して一人掛け用のスツールを設置したり。要するに、その上で人が寝転がれないような物理的措置を講ずるとともに、見た目における露骨ないやらしさを減殺するために、ありとあらゆる〝工夫〟が施されてきたわけである。
また対象はホームレスの人たちという特定ではなく、夜中に公園などにたむろして飲酒し大騒ぎしたり、スケートボードを乗り回したりする集団などによって、近隣住民の安全かつ静謐な生活が阻害される事態があるため、そうした地元に対する諸々の迷惑行為を防止するという目的もあるやに聞く。
しかし、このような行政の対応は、公共の場所から特定の人たちを巧妙に排除しようとする冷酷な措置であると、強い非難も少なくない。「意地悪ベンチ」「排除アート」「行政の悪意」などと称して、著名人やメディアが激しく行政を叩いている様子もしばしば耳目に届くようになった。
ちなみに、これらに類する設備は英語では‟Hostile architecture”(敵意のある建造物)と呼ばれ、ヨーロッパなど他国でも見られるらしい。
行政側にも、様々な声が届いているだろう。
特定の人たちが公園を占拠するのを何とかしろというクレームだったり、逆に、路上生活をせざるを得ないような貧困に対して手厚く保護しろという、福祉的な催促だったり。エゴイスティックな要求やとりとめもない空想的な夢物語の提案など、山のようにやっかいな主張が届き混乱を呈している筈である。これら全ての声にいちいち誠実に対応し、どの要求にも応えることなどもとより不可能であるし、予算的な制約なども大きい。解決しようにもその糸口すら見当たらず困窮することも多かろう。
板挟みにあって大いに苦しんでいる自治体、役所の方々の姿が髣髴する。
両立しえない様々な案件に頭を悩ませつつ、最大公約数の人々にとってベターな方向として何とかひねり出した苦肉の策がこのようなベンチの形状なのであろうが、却って大半の人から批判される結果になってしまったことは、皮肉であり、残酷で痛ましい。
そもそも、何か事あるごとに僕らは何でもかんでも行政にその責任を押し付けがちである。
やれ、路上生活者など貧困にあえぐ人たちが存在するのは福祉の問題であり、行政が悪いだとか、やれ、公園でスケートボードをするのは、無料のスケートパークなどの遊興施設が存在しないからであり、行政の不作為だとか――
だが、行政を罵って済ましていることが、有権者として正当な態度なのだろうか。
予算の制約や人手不足によって、貧困層などへの福祉政策が十分及んでいない側面もあるだろうし、仮にそれらが十全だったとしても、中には自ら好んでホームレスというライフスタイルを選択する人もあるだろう。或いは、無料のスケートパークを公設することは、特定の趣味の人への公的資源(予算や空間など)の偏った配分になるし、またそのような施設があったところで、公園などやってはいけないとされる場所でスケートボードをすることにこそ醍醐味を感じるような人もいよう。夜中に集まって酒を飲んで大騒ぎする集団への対策であれば、警察などによるパトロールの強化などが考えられるが、人手不足の時勢にそのための人的資源をいかに確保するかも悩ましい。
そうしたきわめて困難かつ多種多様な事情に思いをはせることもなく、安易に行政を叩く態度は、民主主義下の有権者としてあまりにも無責任ではなかろうか。
僕らは問題解決のための何らかの建設的で実現可能な方策を自らの頭をひねって真剣に広く深く考察し提案しただろうか? 自らの懐から身銭を切って問題解決のために有効かつ相応な資材を提供しただろうか? 問題解決のための具体的な活動に対して、労を惜しまず、手弁当で積極的に参加しているだろうか?
行政における担当者たちの、地道で砂を嚙むような苦労の積み重ねに対して、こちらは何の援助も画期的なアイデアも差し出すことなく、安易に口先だけで叩いてはいないだろうか?
正義の底意地の悪さは、実にやりきれない。
歪んだ民主主義が具象化した化け物が、あの「意地悪ベンチ」なのではないかという気もしてくる。
排除アートなどと吐き捨て、叩く側の言説にしても、先に述べたような行政の苦悩を、それこそ安易に〝排除〟するような自家撞着に陥ってはいまいか?
このようなベンチが出現し始めた頃、もうずいぶん昔のことだが、僕はこのことをテーマに詩を書いた。
その時、何ともやりきれない思いだったのだが、今でもどうにもやりきれない思いのまま。解決のための智慧も、財力も、覚悟も、努力の姿勢すらも、残念ながらいまだに僕には無い。ただ、世の中はどうしてこうもやりきれないのだろうかという感慨と、向けるべき対象が存在しない憾みがあるばかり。卑怯と言えば実に卑怯なる仕儀である。
いま改めてこの詩を読み返してみると、当時の僕自身、語彙に穏当さを欠いていたり、言葉が足りなかったり、考えが十分に至っていなかったところも多々見えて、内心忸怩たるものがあるのだが、一言一句加除することなくその時のままにここに掲載する。
「勃興」
進歩的と自称し他称される人々が平和だの平等だのむやみに「平」の字に汲々たるその頃、から少し後に至るそのあわい、世の中のベンチというベンチは次第にその中程に平らかならで陰鬱なる隆起を持ち始めていたのだが、いまやすっかりと世を席巻したと見られるかの流行的底意地の悪さを謳歌する隆起的仕切の蔓延によって、ルンペン達はベンチの上に平らかに躰を伸ばす事を得ず、そこはそれ、平かなる世を謳歌し放題に謳歌したルンペン達の傲慢にて排他的なるベンチの占有が招いた因果応報とは言い条、ルンペンならざる吾人もちょっと
<了>
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