コウさんのことなど――コウさんと娘と聖火リレー
最後にまたコウさんの話に戻り、一連のエッセイを締めくくることとしたい。
コウさんは、あまり裕福そうではなかった。
パチンコ屋をやったり、中華料理屋をやったり、商売をころころ変えていたけれど、どれもあまりぱっとしなかったようだ。
一度だけ、父に連れられて、コウさんの店でパチンコを打ったことがある。妹も一緒だっただろう。もともと父はギャンブルに手を出すような性格ではなく、むしろまったく逆の堅実一筋であったのだが、なぜあのときに限ってパチンコ屋に足を踏み入れたのか、その経緯についてはどうもよく判らない。
そもそも、今では子連れでパチンコ屋に入るということ自体、一般的にありえない話なのだが、そういうところは当時の田舎ではまだずいぶんと緩かった。景品には、確かキャラメルを貰ったようだが、別段嬉しくもなかった気がする。
なお、既述の通りコウさんの店でパチンコをした覚えはあるのだが、コウさんの店の中華料理は食べた記憶がまったくない。というより、その中華料理屋に客が入っているのを見たためしすらないように思う。
コウさんには娘が有った。
年は僕より一回りばかり上だったと思う。それでも、コウさんにとっては、だいぶ年が行ってからの子だったものと思われる。母親に当たる人はまったく知らない。死別なのか、離縁なのか。
娘は小柄で、ふっくらとしていて、二重まぶたに浅黒い肌は、どことなくドラヴィダ系の女性を髣髴した。口の悪い僕らは「くろんぼ姉ちゃん」と彼女を呼んだ。
当時の田舎では「くろんぼ」という言葉も決して禁忌ではなかった。僕らはしばしば「インド人のくろんぼ」という遊びをしたものである。
くろんぼ姉ちゃんは、僕ら年少の子供たちを可愛がってくれていたように思う。大人たちにしても概して彼女には好意的で、その父親に対する接し方とはまったく異なっていた。
父一人、娘一人の家族だったが、僕は、くろんぼ姉ちゃんがコウさんの娘だと認識はしているものの、二人が親子というのがどうもしっくりとこない。実感として腑に落ちないものを感じるのである。そもそも、顔つきなども全然似たようなところがなかった。
二人は本当に血を分けた親子だったのだろうか? また、安らぎのある穏やかな家庭だったのだろうか?
コウさん親子の記憶は、のちに『廣東酒家』という小説のモティーフになったが、この作品の筋書きやエピソードは完全な創作であり、現実のコウさんたちとは何ら脈絡はない。
ただ、小説の中に書いたような親子の温かな紐帯が、コウさんの家庭にも同様にあったことを僕は願っている。
僕が中学に上がる頃には、コウさんの姿を見かけることはなくなっていたような気がする。
亡くなったのか、どこか別の土地に移ったのか。
はっきりとした記憶はないが、おそらく亡くなったのではないかという気がする。
コウさんの家は、気付いたときには人手に渡っていてスポーツ用品店に変わってしまったが、その店も今ではなくなっている。
くろんぼ姉ちゃんにしても、今、どこで、何をしているのか僕はまったく知らない。
ところで、今から十五年ほど前の北京五輪での聖火リレーを覚えていらっしゃるだろうか。
当時、世界各国を聖火が回るイベントが実施されたが、聖火ルートの至る所、特に欧州などでチベットの現状を憂慮する人たちによる中国政府への抗議活動が展開された。また、それに対抗するように、中国共産党政権を支持する人たちが集結し、チベットの旗と五星紅旗とが乱立して対峙した。両者間で小競り合いが勃発する事案も生起し、騒然とした雰囲気が大きく報道された。
日本でも長野で聖火リレーが行われたが、物々しい警備の模様や、他国で見た映像と同様にたくさんのチベットの旗とたくさんの五星紅旗とが入り乱れる映像をメディアが配信した。ここはいったい日本なのだろうかという印象を禁じ得なかった。たしか日本でも逮捕者やけが人が出たはずである。
そのような映像の中で、少なからぬ人たちが、五星紅旗をマントのように羽織っていた。その姿を見て、敗戦直後の日本で五星紅旗をマントにして練り歩いていたという、コウさんの話を思い出した。
歓迎されない異国の町での示威行動。
友も無く、妻も無く、さして富も得られなかったコウさん。その晩年の胸中はいかなるものであったのか。
想像するしかないのだが、どうにも身につまされる思いがする。
<了>
※ 固有名詞などについては、現実のものから変更している。
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