コウさんのことなど――台湾人のお医者さん

 町立病院には、雇われ医師に李先生という人がいた。この人は、コウさんたちのような大陸出自ではなく、台湾の出身だった。僕の祖父母は台湾からの引揚者であったが、そのよしみでこの李先生とは非常に懇意にしていた。

 先生は、同じく台湾人の奥さんと一緒に、しばしば僕の家にお茶飲みに見えていたが、そのときの会話は終始日本語であった。

 三歳の時から台湾で育った僕の祖母などは、台湾語を母語同然に話し、引揚げ当初は日本人との会話でも思わず台湾語の語彙が口をついて出てくるほどだったというが、それでも、そこから三十年以上を日本語のみで暮らした後となっては、若い頃には自由に話せていた言葉も、もうそのほとんど忘れ去ってしまっていたらしい。

 また、祖父母がかつて住んでいた地域と、李先生の郷里とは離れた場所にあり、祖父母がおぼろげながらに覚えている台湾語と先生の地元の言葉とでは、方言がまるで違うということであった。

 そして、これは非常にあいまいな記憶なので間違っているかも知れないが、李先生夫妻も出身地がそれぞれ異なるので、お互いが地元の方言で話すとコミュニケーションが取れないという話を聞いたように思う。そのため、家では「國語」を用いているとかいうことだったように記憶するが、どうもはっきりしない。

 ことによると、もしかしたら、夫の李先生は客家出身の方だったのかも知れない。


 ちなみに、台湾における國語は、大陸出自の国民党政権が「臺灣省加強推行國語實施計劃」などにより、教育現場や官公庁、メディアなどでの使用を義務化し急速に普及させた言葉で、北京官話が由来である。この「實施計劃」などの効果は絶大で、現在の台湾、特に首都の台北を含む北部の地域では、本省人であっても國語しか話せず台湾語をほとんど理解しない人も少なくないらしい。ただ、この國語も時代を経つつ台湾化がなされており、国民党がもたらした元々の國語や、中国共産党による普通話とはかなり違いが出ていると言われる。


 閑話休題。


 なお、先生の奥さんは祖父母が住んでいた地域の言葉を理解されるような話だった。

「ありがとうは、『ローリー』でしたかね?」などと祖母が嬉しそうに奥さんに問いかけていたのを思い出す。

 ただ、この「ローリー」なる語彙だが、今となって調べてみるとこんな台湾語はどうも存在しないようである。

 もしかしたら「多謝你ドオシャーリー」を子供の僕が聞き違えたのかも知れない。

 また、祖父母が住んでいた地域は、漢人系のほかに、平埔族の人たちも多く住んでいたらしく、これはまったくの僕の想像で確たる根拠はないのだが、ことによると、その地域の言葉にはそれら先住民の語彙も混じりピジン化の傾向が、もしかしたらあったのかも知れない。


 なお、これは僕の母だか誰だかに随分前に聞いた話だが、李先生は大陸の共産党政権を非常に憎んでいて、日本の学生服が詰襟なのは人民服みたいでよくないというようなことを言っていたらしい。

 狭い僕の町で、大陸出自のコウさんと台湾人の李先生とは没交渉を保つことができただろうか。


 ところで、人民服は「中山裝」が本来の呼称で、国民党結党の父・孫文(號は中山)に由来する。これを後に、毛沢東の体格などに合わせ、襟幅やポケットのフラップの形状などにデザインの修正を施したとされるものが毛式中山装、すなわち「毛装」であり、英語でもこちらを受けて人民服のことを〝Mao Suit〟と呼ぶ。

 日本の敗戦後、台湾は孫文を起源する国民党政権の施政下に入り、その後の国共内戦を経て、政権自体が台湾へ遷されるのだが、台湾の本省人の間では「狗去豬來(犬は去ったが豚が来た)」と外省人を軽蔑する雰囲気があったという。また、国民党政権下では白色テロの嵐も吹き荒れ、政権や外省人を蔭でひそかに嫌厭、憎悪する本省人は多かったという。

 こうした歴史的背景も踏まえると、李先生の悪感情は、「毛装」に向けられていたというよりも、もしかしたら「中山裝」自体に向いていたのかも知れない。




                         <続>




   ※ 固有名詞などについては、現実のものから変更している。








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