お盆の思い出など
お盆は、仏教的には盂蘭盆会と呼ばれ、しばしば施餓鬼供養とともに行われる行事だが、仏教よりもむしろ、日本の土俗的な祖先信仰の影響が最も大きいと考えられる。
時期としては、旧暦の七月十五日前後であるが、明治初年に新暦が採用されてからは、時期が歪になり、七月に行う地域と、八月に行う地域とに分かれている。前者は、東日本に多く、後者は西日本に多いとも言われるが、僕の郷里の九州では、同じ県内でも県庁所在地の周辺では七月に行われ、県内でも在の方の僕の町では八月に行われていたので、単純に東日本と西日本で分けることも適当ではないように思う。また、八月に行う地域でも、新暦の十三日から十六日当たりで実施するところと、昔ながらに旧暦の七月十五日前後に厳格に合わせて行うところとまちまちである。
僕が住んでいる地域のスーパーなどでは、七月でも八月でも双方に対応できるようにだろう、六月の終わり頃から八月の半ばに到る、長い期間にわたって、お盆関係のグッズが店頭に並べられている。
メディアなどの報道では、お盆休みと言えば新暦八月十五日前後を示し、地元への帰省の話題などで持ち切りとなる。この時期は、原爆忌にも近く、終戦記念日とも重なっているため、追悼ムードが色濃く、もともと物故者を忍ぶべきお盆との相乗的な印象を呈している。したがって、多くの日本人にとっては、お盆は八月の半ばという印象が強いのではなかろうか。
時期のみならず、お盆の風習も地域によってさまざまだが、一般には十三日に苧殻を焚いて迎火となし、仏壇などに供え物をして、ご先祖様を迎え、十五日或いは十六日に送火でご先祖様を送る。供え物の胡瓜の馬はご先祖様が早く来て下さるように、茄子の牛は名残惜しいのでご先祖様にできるだけゆっくり帰っていただくように、などと言われる。
ただ、僕の郷里のお盆、僕が子供の頃に経験したお盆のスタイルはこれとはちょっと異なっていた。
迎え火や送り火を焚くという習慣は無く、胡瓜の馬や茄子の牛をお供えする風習も無かった。これらのしきたりを僕が知ったのは、大学で関東に出て来てからではなかろうかと思う。
そもそも僕にとって、また、祖父の代に分家したわが家にとって、お盆にご先祖様がお帰りになるという意識はあまりなく、早逝した弟が帰ってくるというイメージであった。弟の件については、この随筆集の第一話「バナナとパイナップル」をご参照願いたい。
子供の頃、わが家でのお盆の行事は次の通りであった。
まず、十三日の午前中、祖父や妹と一緒に弟が眠る墓に参り、弟の魂を家に連れて帰ることから始まる。
墓石に水を掛け、線香を上げ、弟の名前を呼び、「帰るよ。帰るよ」と言って、連れて帰っていた。
僕の家は、食料品や雑貨品を扱う店であり、父はトラックに商品を積んで行商も行っていた。お盆の時期はかき入れ時であり、父も母も商売のことで忙しかった。
したがって、午前中から墓参りに行けるのは、隠居して久しい祖父や、子供の僕らであった。その僕らも、小学校の高学年頃からは、店の手伝いに忙しく駆出されていたため、その頃になると祖父一人で弟を迎えに行っていたのかも知れない。祖母は、台所仕事などの家事を手伝ったりしていた。お盆には、来客に供えて、煮〆などを作っておくのが一般であった。
墓参りの後、僕らは、すぐに仏壇に向かって、線香を上げ、合掌する。口の中で、「帰って来たよ。帰って来たよ」と唱える。
仏壇の花や供物は母が新しくしており、弟の好物だったバナナも、新しいものに取り換えて供えられていた筈である。お盆に特別なお供えとしては、落雁などがあったように思う。落雁を御仏前として贈答することも、よく行われていた。
仏壇周辺は、天井近くに張り渡された針金に沢山の吊り提灯が掛けられ、また、畳の上には置き提灯が、多くは対になって、仏壇の両脇に列んでいた。置き提灯は、大体、回り灯篭になっていた。提灯の他に、親類縁者や店の商売の関係先からいただいた沢山のお中元や御仏前の品々なども、仏壇のそばに賑やかに並べられていた。
また、お盆の期間中、近所のお寺の坊守さん――住職はその時すでに他界されていた――がいらっしゃり、お経をあげて下さった。坊守さんは、お盆の他にも、弟の月命日にも毎月いらっしゃっていた。父母は商売が忙しいため、坊守さんの相手は、祖父母、とりわけ、祖母が中心となって行い、お布施の準備などは母が行っていたように記憶する。
帰ってきた弟を送る日は、十五日。地域によっては、十六日に送るところもあるようだが、僕の地元では、十五日の夕方と決まっていた。
日が沈んであたりが暗くなってから、今度は、父や母と一緒に、墓まで弟を送りに行った。記憶が定かではないが、その時、多分父は、手に吊り提灯をぶら提げていたように思われる。わが家以外の他家の方も、同じような時間帯に、同じようにして、墓地に行かれていたように思う。この送りの場面に、祖父母が居たような記憶はあまりない。記憶にないだけで実際は居たのかも知れないし、年寄りにとって狭い墓地の道を暗い時間帯に歩くのは危ないため、本当に居なかったのかも知れない。
また、地域にある日蓮宗のお寺では、川で精霊流しの行事が行われていた。亡くなった人の名――戒名かも知れぬ――が書かれた小さな提灯――水に浮かぶ構造となっている――を川に流すのである。わが家は日蓮宗ではなかったが、その行事は何度と無く見物に行った記憶がある。弟の初盆の時は、日蓮宗ではないながらも、母が法華寺に申し込んで提灯を用意してもらい、母と僕と妹で流しに行ったように、おぼろげな記憶にあるが、定かではない。
今となっては、このような行事は環境問題となるために、おそらく行われていないか、川に流す以外の形に変えられているのではないかと思う。
僕の地元で、お盆のイベントとして大きいものは、何と言っても初盆参りである。
その年、初盆に当たる家を訪問し、仏壇に参拝し、仏壇の前の経机などに、ご仏前の袋を上げる。参拝の後は、遺族に向き合い、座礼と挨拶を交す。遺族側は茶菓を用意し、しばらく歓談する。次の盆参りの客が来れば、先客は辞去する。来客は、ほぼひっきりなしに、一日中続く。もちろん、早朝や食事時、夕方以降といった時間帯は外されるのが例だが、遺族側は盆参りの客の対応に忙殺される。
これは、今も続いており、数年前に僕の父が他界した折の初盆では、僕も遺族側として来客の対応に当たった。これが、僕にとっては苦行の場となった。
一番辛いと僕が感じたのは、畳の上に座っての対応である。
現代の日本人は、フローリングの部屋での椅子生活が一般となっており、僕にしてもそうである。正座はもとより、体が固い僕にとっては、安坐でも長時間は厳しい。
しかし、僕の地元のような田舎では、いまだに畳の上に座る生活が主流であり、相手方は正座にも慣れている人が多い。しかも、田舎には何故だか長尻の人が多く、なかなかすぐには帰ってくれない。
僕は、正座が苦しくなると、相手に断って安坐になったり、それも苦しくなると膝立ちになったりして、脂汗をかきながら対応した。したがって、相手との話の内容も半ば上の空の状態であった。
さらに、僕はもともと人付き合いが苦手である上、初盆の来客についても、あまり面識がない人ばかりだったことも辛かった。
それというのも、僕は高校の頃から地元を出て下宿生活をしており、それ以後も三十年以上、たまの帰省以外帰ることが無かったため、生まれ故郷とは言え、ごく近所の人や親戚以外は、よく知らないのである。
一方、父母は店を開き、剰え、父はあちこちの地区を行商の車で廻っていたこともあり、交際の範囲が広く、初盆参りの来客も少なくなかった。僕にとって多くの人は、顔をうっすら記憶していても名前などは分らない人、或いはむしろ、顔すらよく知らない人がほとんどであり、一通りの決まりきった挨拶が終ると、後は何を話していいのか話題に困る状態であった。
脚や腰は痛いし、相手にどのように対応していいのやら判らず気まずくもあるしで、心の中では、早く帰ってくれとばかり祈っていた。随分と罰当たりなことである。
これまでにも、祖父母が他界した折など、わが家にも当然、初盆はあったのだが、その時分はまだ、父や母が若くしっかりとしていたため、このような来客対応で、僕が矢面に駆出されることはほとんど無かった。しかし、父の初盆となると、否応なしに、長男たる僕が前面に出ざるを得なかったわけである。
このような僕の様子は、来客の人たちからすれば、ぎこちなく無様に見えたかも知れない。或いは無礼にさえ映ったかも知れない。
また、母にしても、亡き父にしても、自分の息子ながら、不甲斐なく情けなく思ったのではなかろうか。
加えて、わが家の仏壇周辺の様子も、僕が子供の頃のような、沢山の提灯やお中元が所狭しと並んだ賑やかさは最早なく、寂しい雰囲気であった。
諸行無常とは言うが、昔を思うと斜陽の印象はどうも禁じ得ない。
昨日、この随筆集に載せた「夏休み気分も尽きかけて色々ともの哀しく」には、田舎の人間関係に対する忌避感や、胸中の閉塞感を述べているが、このような事例からも、ご推察いただければ幸いである。
<了>
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