随筆集 ― 方寸の三千世界 ―

すらかき飄乎

バナナとパイナップル

 コロナ禍で帰省が出来ない。今年の暮れが来ると、丸二年にもなる。

 実家には、八十も半ばに差し掛かる老母が一人。実家と僕の居宅とは、飛行機や新幹線を使うほどの距離にある。

 実家と同じ県内には、僕の妹が住んでいるが、それでも車で片道二時間弱。決して近い距離ではない。

 ただそうは言っても、母としては僕の妹以外に頼るべき身内は近くに無く、実質的に妹一人が、母のあれこれの面倒を看ざるを得ない物理的な立場にある。また、それに何の不平も言わずに務めてくれている。兄としては随分申し訳ない気分である。


 休みの朝、僕は、決まって実家に電話をすることにしている。

 土曜日の今日もその決まりに従った。ここのところ、厭な長雨が続いていることもあり、天気のことと、母の健康状態とを話題にしていたのだが、話の途中で母から、今日は僕の弟の命日だと言われた。

 確かに、そうだった。

 ああ、そうだね――と、さも当然のように母の言葉を受けたのだが、実は申し訳ないことに、母から言われるまでその認識が僕の頭から抜け落ちていた。


 電話を終えて、家人にそのことを伝えると、家人もそこで改めて気付いた様子だったが、お供えにチョコレート入りの蒸しパンを作ってくれることになった。


 弟は二歳になる前に、交通事故で命を落とした。僕もまだ小学校に上がる前だった。

 弟は利発な質だったという。早世したために、そう言われる側面もあったのかも知れないが、それでもこんなエピソードがある。

 その当時、晩ごはんが出来たことを祖父母の部屋に知らせに行くのは、僕や妹や弟の役目だったらしい。夕食の時間は相撲中継の時間帯とちょうど重なっていた。相撲好きの祖父がいつまでもテレビに夢中になっていると、弟はさっとコンセントを抜いてテレビの電源を落としていたという。早く食卓に着くよう、祖父に促すためだったのであろう。二歳に足りない弟の鋭い機転には、年長ながら僕や妹は、とても及ばなかったらしい。

 あの子は、なかなかに知恵があった――そう感心しながら、祖父はしばしばそのエピソードを誰彼となく語っていた。


 弟が死んだのは、地域の祭りの数日前だった。僕の家から道路を挟んだ所にあるお堂で祭りの準備が進められていた。僕は、それを見物するために道を渡ったのだが、弟は僕の後を付いて来ていたらしい。

 何か、突然の騒ぎが起こった気配に振返ると、僕の背後の横断歩道に弟が倒れており、そこを大分過ぎたところに、停車したばかりのトラックの後姿と赤いテールランプが見えた。

 母が慌てて家から飛び出して来て弟を抱え上げたのだが、その母のエプロンが血に染まり真っ赤になっていたことを、今でも鮮明に覚えている。

 母と弟が病院に行っている間、僕と妹は祖父母の部屋に居させられた。祖父母の部屋には、簡易ベッドをソファーのようにした腰掛があり、そこに僕は座っていた。妹が僕の傍で、僕が道路を渡らなければ、弟も渡らなかった、僕のせいで弟があんな目に遭ってしまったと、激しくなじった。慥か、妹から叩かれたような気もする。

 そんなことを、したらいかん――と祖母が妹を強く窘めたが、僕は僕で、吾ながら取り返しのつかないことになった恐ろしさと、どうしようもない悔しさに動転し、腰掛に座った自分の左右の太腿を拳でぐりぐりと押え付けていた。半ズボンから出た白い両太腿と、その上の二つの拳の映像が、未だに目に焼き付いている。


 病院から戻ってきた弟の容貌は、普段の顔とは全く相好が変わっていた。そして鼻の穴などには綿が詰められていた――即死だったという。


 弟が死んだその日は、何の因果だろうか、ちょうど祖父の誕生日でもあった。

 明治生まれで、土佐生まれの一刻者だった祖父が、親が死んだときにも流さなかったという涙を、孫のために流していた。


 弟の他界は、僕にとって、身内を亡くした初めての経験だった。その後、十数年を経て祖父が他界し、さらにその十数年後に祖母が亡くなった。また、数年前には、父もこの世を去っている。

 ついこの間まで生きていた父を、何かにつけて思い出すことはある。また、それより頻度はやや少なくなるが、祖父母の生前の姿を思い浮かべることもある。夢の中に父や祖父母が出て来ることもある。

 ただ、弟については、あまりにも遠い過去であり、その当時、僕自身が幼かったこともあるためか、切実な感情や生々しい記憶として思い出すことは、これまであまり無かったように思う。弟の夢にしても、見た記憶が――そう言えば無い。


 しかしながら、息子や孫を失った父母や祖父母の無念な様子は、当時は幼かった僕の記憶にもしっかりと刻まれているし、人生経験を経た今の僕の頭でその気持ちを慮ってみても、正に想像するに余りあるという表現が相応ふさわしい。


 今から思えば、僕があまり切実に弟のことを思い出さなかったのは、或いは、弟の死因に多少は関っているらしい僕自身の心理に対し、自らトラウマを生じさせないための、一種の防衛機制だったのかも知れない。

 あの時の妹が僕をなじったように、父や母や祖父母なども、心の奥底で、あの時僕が道路を渡らなければという思いを、実際のところは抱き続けていたのだろうか――

 なるほど、そうかも知れない。

 しかし、家族の誰一人、僕に対して、そのようなことはおくびにも出さずにいてくれた。妹さえも、あれが一度切り――


 そのことに、今日はたと思い至り、何だか弟や家族に対し、随分と申し訳なかったような気分になっている。


 数えてみれば、弟が死んで今年で四十八年が過ぎている。来年は五十回忌である。


 弟はバナナが好物だったという。そのため、実家の仏壇には、いつもバナナが供えられていた。今日もきっと、バナナが仏壇の前にあるのだろう。

 僕も今日は弟にバナナを供えよう――そう思い立った。買い物の時に、家人とスーパーの果物売り場で、バナナをあれこれと物色した。そして、その中で甘いと表示されているバナナを一房買い物かごに入れた。

 また、バナナの近くには、台湾産のパイナップルも置いてあった。

 台湾は、祖父母や父にとって、思いの詰まったゆかりの土地である。三歳の幼少期から台湾で過ごした祖母などは、戦後引揚げてすぐの頃は、思わず台湾語が口をついて出ることもよくあったという。

 弟の供養と併せて、祖父母や父の供養のため、そして、祖父の誕生日プレゼントも兼ねて、台湾のパイナップルも買うことにした。旧暦で、今日は七月十四日、ちょうど盂蘭盆にも当たっている。



 さて、家人が僕を呼んでいる。

 座敷に行ってみると、バナナとパイナップル、蒸しパンにお茶などの供え物が整えられている。家人と並んで蠟燭に火をともし、線香をあげて二人合掌した。

 弟のこと、父のこと、祖父母のこと、その他にも他界した身内のことなどをあれこれ思いながら、しばし線香の芳しい煙の中に瞑目した。


 本来、僕は唯物論的な考えを持っている。しかし、こういう時には何やら敬虔な気持ちになるから不思議である。


 なお、僕の死後、誰にも自身の回向を頼むつもりはない。

 子供のいない僕の末路が、例えば、孤独死のようなことになってしまうのは、家人に先立たれた場合には、十分にあり得るだろう。その有様を想像するに、何やら酷くあさましいことのようにも思われるが、それはそれで仕方のないことなのかも知れない。





                         <了>




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