余は如何にしてプリッグ党となりし乎

 冬晴れの空は雲がほとんど無く、それでも何かくすんだような、いかにも冬の風情をたたえた蒼。天頂近くに半月。近くに旅客機や鳶。目を下に降していくと山の稜線近くに、さまざまな形象の雲の堆積。


 冬霽ふゆばれや半月ひとつ鳶ふたつ


 冬霽や低き方には雲出でつ


 コロナウイルスの新型株の登場には、どうにも不安を搔き立てられるところだが、それでも、現下の日本では小康状態が幸いなことに続いているようで、この分であれば、新型株が台頭するまでの間は、少し遠出をしたりしてもかろうかという気分になっている。


 そこで家人と二人、十一月最後の土曜日に鎌倉方面に足を延ばしてみた。ただ、鎌倉も中心部は、おそらく土曜日ならではの人出でとんでもないことになっているかも知れないと怖気づき、向かったのは西鎌倉。たぶん、今までの人生で、西鎌倉に足を向けたのはこれが初めてのことのように思われる。

 ここには、龍口明神社がある。何でも古墳時代或いは欽明朝の創建という古い神社で、龍神信仰のお宮である。


 モノレールの西鎌倉駅で降りて、坂を大分上がった所に神社はある。もとは別の場所にあったが、昭和五十三年にこの地に移ったとのことで、その経緯にも中々に奥深いエピソードがあるが、ここでは詳述しない。


 お宮は、木々に囲まれた一角にあり、社殿の正面には、大きなタブノキがご神木として祀られている。参詣の人もちらほらある程度。静かで落ち着いた雰囲気が実にありがたい。

 近頃はコロナ禍の影響で手水場に水がないことも多く、吾が家では水筒を持参することにしているが、ここのお宮では龍の口から竹の樋を伝って水が流れていた。これもありがたい。

 手や口を清めて敬礼きょうらいを済ませ、社務所に寄って御朱印を頂戴した。感染リスクの低減と言う趣旨で、ここではすでに書置きとなっている幾種類かのものから好みを選んで、それに日付のみ新たに書き足していただく仕組みである。僕が選び出したのは、何でも季節限定のものだそうで、今日から更新されたということであった。そのようなタイミングに偶然来合わせることができたのも、何やらめでたい気がする。重ね重ね、ありがたいことである。

 なお、このお宮は江ノ島弁天と関りが深く、本来的には江島神社と併せて参拝するのが良いようだが、土曜日の江ノ島と言えば、それこそ人出が大変だろうということで、今回は片参りで勘弁してもらった。

 先程少し触れたが、古代に創建されたというお宮が昭和になって移転した話や、江ノ島弁天との関わり合いなど、非常に感慨深い逸話がたくさんあるので、興味のある方はウェブ等でお調べいただきたい。


 さて、参詣の行き帰りに利用したのはモノレールだが、この路線に乗るのもおそらく十年ぶり以上。

 小振りの車内に、向かい合わせの四人掛けがいくつか並んでいる。それほど込んではいないが、このご時勢であれば、見知らぬ人とひざを突き合わせて座るのは、どうもはばかられる。

 それでなくとも、コロナ禍とは関係なく、昔からパーソナルスペースが広めの家人は、到底四人掛けに近親者以外と腰を下ろすことなどあり得るわけもなく、畢竟ひっきょう、我々二人組はドア付近に立つことになった。


 ただ、モノレールは走行中結構揺れるものである。

 僕は電車に乗っても、吊皮などに触れるのが厭で、両足で踏ん張ることが常であるが、このモノレールではそういう訳には行かなかった。支え無しでは、よろよろ、どたどたと半径一メートルほどを動き回ってしまい、傍迷惑この上ない。

 仕方なく、壁に肩などを押し付け、それを支えに片道十分程の旅を凌いだ。


 一体、コロナ禍によって、僕も随分潔癖症プリッグじみてきた。外に出たらなるべく物に触れたくない。

 ドアも、自動ドアであればいいのだが、そうでない場合は出来るだけ人が触っていないような場所を拳や肘で押し開けたりする。手前に引かないと開かないドアだったり、ドアノブを回したり、レバーを操作したりしないといけないドアであれば、できるだけ少ない指――まあ一本から、せいぜい三本までの指で、それも指先だけをちょっと引っかけるだけの恰好で、極力接触部位を小さくすることに汲々となる。

 それでも、いったん物に触れざるを得なかった吾身の一部分は、以後しばらく、ウルトラマンのカラータイマーよろしく、まるで点滅したり、或いは何だか脈動したりしているように僕には思われ、一刻も早く消毒用アルコールの設置場所を見付けて「禊」を行わなくては不安で仕方がない。

 電車に乗る時も、先に述べた通り吊皮を持つなどもってのほか。席が空いていない場合は、膝を少し曲げ、両足を踏ん張って何とかこらえる。少々揺れが激しかったりして、耐えられない場合は、吊皮をぶら下げているステンレスの棒を握る。ここなら、他の人が触れた確率が低いと思われるからである。棒まで手が届かないようであれば、吊皮の皮の部分を握る。輪っかの部分は絶対に触りたくない。必ずや不特定多数が触れているに相違ないので――

 思えば、このような傾向は、コロナ禍になる前から僕には多少あったのだが、感染リスクに対する世間の禁忌が冗談ではないレベルまで醸成されたこの二年程、いよいよますますそれが助長されこうじてきた。

 ただ、そうは言いつつも、座席に座ることは全く平気である。

 尻や背中がべったりとシートに触れているというのに。

 これが大いなる矛盾であることは、吾ながらよく理解している。

 昭和の昔とは違って、今時の電車の座席は、ベンチ型のもの――ロングシートと言うらしい――でも一人分ずつ区切りが出来ている。コロナ禍になって、ロングシートには、隣の席を一つか二つ分ほど空けて座る人が多くなって、僕もその風潮を好もしく思っていたのだが、最近の感染状況の落ち着きにより、人によっては、間隔を空けずにすぐ隣に腰掛けてくるじんも増えてきた。まあ、それでも大抵は隣と触れ合わないように、体を細くして気を遣う人が多いのだが、そうではない向きもある。

 慥かに、電車のシートに尻や背中が触れることと、隣の人と肩などが触れることと、感染リスクにどれほどの差があるのかについては疑問である。先ほど「大いなる矛盾」と述べた通り、科学的には全く違いがなかろうと思われる。

 だがしかし、僕の気持ちの上からすると、シートに触れることと、他人の肩に触れることとは全くの別物である。非科学的であろうが、単なる神経であろうが、頭では重々分かっていても、心がそう感じてしまうのだから仕方がない。

 すぐ隣の席に腰を下ろすような人がいようものなら、蛇蝎だかつの如くその人物を憎む気になるし、肩でも触れようものなら、飛び上がりたくなるほど過敏に神経は動揺する。もちろん、表面上は泰然自若たいぜんじじゃくとして平静を装っているのだが、胸中の煩悶はんもんは大変なものである。

 いわんや、隣の人がせきやくしゃみをしたり、連れの人と会話を始めたりしようものなら、そのままその場に腰を下ろしていることなど、僕にできるものでは無い。先日も、乱暴に隣に座って来た人があって、ぐいぐいと押し込まれるていであったため、僕はいささか相手に失礼かとも思ったがすっくと起ち上るとドア付近のスペースに移動して立っていた。


 モノレールでは、もとより座ることは叶わず、走行中に足のみで踏ん張ることも叶わず、肩を壁に押付けて我慢したが、今から思えば、シートにべったりと尻や背中を着けるよりも、壁に肩を押し付ける方がはるかに感染リスクは少なかろう。

 しかし、その時はそういう科学的思考には至らずに、ウルトラマンのカラータイマーのようにピコンピコンと肩が点滅脈動する神経にさいなまれたのであった。


 さて、そうやって、体幹を多少なりとも鍛えて大船駅に着いてみると、いささか腹が減っていることに気が付いた。昼飯の時間からすれば少し早い気がするが、開いている店もあるだろう。

 僕は早速家人に提案して、駅周辺の飲食店を物色することにした。

 皆さんお察しのとおり、飲食店も感染リスクは比較的高い場所である。それは重々承知している。

 しかし、僕の場合現金なもので、そのリスクに対する忌避感よりは、空腹を満たしたいといういやしい食いしん坊の欲求の方がどうしても勝ってしまうわけである。

 恥ずかしながら実にいい加減な潔癖症プリッグがあるものだ。




                         <了>



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