小冊子の文学

 中学の頃、学習教材の「ポピー」(全日本家庭教育研究会)をやっていた。

 もう、四十年も前のことである。

 僕に勧めたのは母で、その母は、もしかしたら、町に一件しかない本屋から勧められたのかも知れない。

 僕が育ったのは、片田舎の、そろばん塾や習字の塾はあっても、学習塾はないような、ごくごく小さな町である。そのような田舎を出て区域外の高校に進学することを目指していた僕に、受験勉強の足しにと母は思ったのだろう。

 「ポピー」の問題集は、一応真面目にやっていたように思うが、僕にとってこの教材が非常に魅力だったのは、付録に小冊子が付いてきたことである。

 そこに載っていたのは、多くが近代文学作品であり、鈴木三重吉の『古事記物語』、国木田独歩の『忘れ得ぬ人々』、佐藤春夫の『西班牙犬の家』、ゴーゴリの『鼻』などがあった。

 僕は小冊子読みたさに月々教材が届くのを心待ちにしていた。

 また、このような作品の数々に当時触れたことによって、それ以降現在に至るまでの僕の文学的嗜好が育まれたように思う。

 中でも最も僕が気に入っていたのが、正岡子規による散文作品だった。たしか、表題が『くだもの』という小冊子であった。

 表題作のほか、新聞『日本』に連載された随筆や『仰臥漫録』のような日記文が採録されていた。

 子規がこれらの文章を書いた時代は、言文一致運動が行われた頃であり、日本語の文章表現の変革期であった。したがって、子規が書いた散文も、文語文によるものがあれば、口語文によるものもある。小冊子『くだもの』にも、文語と口語双方の作が混在して収められていた。

 文語文にしても口語文にしても、子規の文体は、軽快で滑稽味を具え、簡潔かつ平易であり、まだ十代半ばだった僕にも非常に判りやすかった。

 小冊子に掲載されていたのは、松山での幼少時の話、大学予備門で試験に苦労した話、友人の夏目漱石が田んぼで稲を見てもその実が米であることを知らなかった話、晩年の病床における毎日の食べ物の記録など、興味深いエピソードが多く、それらを何度も繰返して読んだものである。

 今となっては、その時の小冊子はもはや残っていないが、大学の頃だったか社会に出たての頃だったか、岩波文庫で『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』『松蘿玉液』『飯待つ間』といった子規による随筆や日記文の集成を買いそろえ、それが現在も僕の手許にある。


 学習教材「ポピー」を使用した受験勉強が身になったのか、僕は無事に志望する高校に進学することができた。中学時代に小冊子によって近代文学の息吹を吹き込まれた僕は、高校に入ると、先ほど子規の友人として言及した漱石に夢中になった。

 それは友人の勧めで『三四郎』を読んだことがきっかけであった。

 小説のストーリーは、僕の地元でもある九州の高等学校を卒業し東京の大学に進学した三四郎が、開明的な大都会で知的な友人や知己を増やし、魅力的な女性とも出会い、色々と考え、悩み、小さな事件にも遭遇するという展開である。作中の三四郎の年齢は二十代前半――ということは、高校生としての僕の数年先であり、読んでいるとごく近い未来が髣髴するような感じがして、大きなシンパシーと憧れを抱かせる物語であった。

 特に、田舎の小さな町から、県庁所在地である都会の高校に進学し、中学時代とは違う友人と知りあい、何より親元から離れた下宿生活を送ることになった僕自身の境遇は、大都会東京の新鮮な環境で生活を始めた三四郎といささか類似する要素があった。もっとも『三四郎』では、僕の郷里の九州自体が未開の地的に扱われているのだが、それはとりあえず置いておこう。

 『三四郎』を読み終えたのは、高校一年の夏休み頃だっただろうか。それ以後は、三部作とされている『それから』『門』を読み、そこから更に別の作品へと進んだ。そして、高校を卒業するまでの間に『吾輩は猫である』から『明暗』に到るまでの一通りの作品群を、新潮文庫で逐次買っては読み耽ったのである。


 ところで、漱石の文体も子規同様に、簡潔明瞭であり、軽妙洒脱である。

 明治時代の文壇においては、華麗で装飾が多い美文調も隆盛だったが、子規や漱石の恬淡とした文体はその対極に位置していたと言えるだろう。

 修辞に富んだ表現もそれはそれとして魅力的な一面があるが、それも度が過ぎれば食傷気味となる。むしろ僕の好みとしては、特に散文であれば、こってりした表現よりも、さっぱり、あっさりしたものの方が親しい印象がある。それは、子規や漱石などの影響に間違いない。また、僕自身のスティル(style)にも、偉大な先人の遺産が深く染み込んでいる。

 なお、子規や漱石が世を去った年齢を、現在の僕は越えてしまっている。自身の書いたものを眺めるにつけて思うのだが、この年に到っても粉本とした先人の筆跡には遥かに及んでいない。まったく忸怩たる思いである。



                         <了>


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