吉田健一と趣味の契合

 文学好きにとって、吉田健一は燦然さんぜんと輝く偉大な泰斗たいとであるけれども、一般的な知名度からすると、その尊属である父・吉田茂や、母方の曾祖父・大久保利通に比べて、世間に影が薄いように思われる。

 また、見た目からしても、すらりとした体躯に、上品、かつ、シニカルさをたたえた健一の表情は、父・茂の恰幅が良く、老獪ろうかい狸親爺たぬきおやじ然とした風貌とは、親子とは思われぬくらいに異なっているし、大久保のいかにも明治の元勲然たる眼力がんりきあふれる髭面の野趣も、健一の雰囲気とは程遠い。

 大久保の実の息子の牧野伸顯のぶあき――健一にとって母方の祖父。健一は非常に敬愛し、『回顧録』の稿も編んでいる。先日の僕の随筆で中心的話題となった人物――の顔かたちも、孫との類似点がどうも少ない。

 そう言えば、牧野の顔立ちと父・大久保のそれとを比べてみても、あまり似ているようには感じられない。牧野の写真には、文官の大礼服に納まった、晩年の肖像と思われるものがあるが、どうも、大久保の風骨とは印象が違って見える。もっとも、牧野の若い頃の撮影であろう、カイゼル髭を左右に撥上はねあげた一枚については、大久保の写真と並べて吟味してみると、何とはなしの類似点もあるような気がする。ただ、二人が親子だとは、言われてみなければ、大方の人は気が付かぬように思われる。

 それは、吉田茂と健一親子にしても同じ。

 一体、この系譜は、父方も母方も、血縁同士の風貌に共通点が少ないというのが特徴であろうか。


 ところで、第九十二代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏。首相経験後も、長らく財相の地位にあったが、この麻生氏は吉田茂の孫ということで知られる。健一とも近しい血のつながりがあり、健一の妹・和子の子、すなわち甥にあたる。

 麻生氏と健一とは、見た目に共通点が多いようである。この二人を対照させるならば、親族内で外見の相似性が希薄という先の仮説は成立しない。ただ、健一の英国趣味漂う静的な佇まいと、麻生氏のべらんめえ風のやんちゃな印象とはかなり様子を異にはしているが。

 なお、三笠宮家の妃殿下は、麻生氏の妹でいらっしゃるが、この方も、親王殿下が薨去かむあがります前、特に、御二方とも健やかにあらせられた二十余年以前の御尊影などを拝するに、健一との共通的な印象が窺われる。


 色々と昔の写真を調べて比較すると、吉田健一には、母・雪子の面影が強く遺伝したようである。また、雪子の風貌はと言えば、その父・牧野伸顯とその母・峰子の相好が折衷されたもののように見える。

 いずれにせよ、吉田茂の妻・雪子の外見が、息子の健一や娘の和子に受け継がれ、そこから孫である麻生氏や妃殿下に伝わったということは言えると思う。

 ただ、奇態なことに、健一と妹・和子の写真を並べてみても、さほど似ているとも思われぬから、実に妙な具合ではある。


 さて、僕が吉田健一の話を書いているのは、先の随筆にも記したとおり、家人と共に神奈川近代文学館で吉田健一展を観覧したことがそもそもの発端である。館内では、銘々が己の興味の赴くままに、離れ離れに展示物を見て回ったのであるが、或る時、家人がにこにこして僕に近付いてきた。


「もうあの人にしか見えない」


 僕の耳元で、そっと囁く。非常に嬉しそうに――

 何だろう?

 企画展には、当然のことながら、吉田健一のスチール写真があちこちに展示されていたのだが、そのどれもが「あの人」に見えて仕方がないのだという。

 あの人とは?

 聞いて僕も納得した。英国の喜劇俳優であるローワン・アトキンソン演ずるミスター・ビーンのことである。

 なるほど、多くの写真で見られる、顎を引き気味に、眉を挙げて、やや上目遣いになったような表情は、確かにミスター・ビーンと通ずるものがある。

 吉田健一とミスター・ビーン。なるほど――

 しかし、こうなってしまってはもういけない。家人のくだんの指摘があって以降、僕にはこの二人が二重写しに見えて仕方がない。


 一体、これまでも僕は、家人のこのような「魔術」にいたされることがしばしばあった。もうずいぶん前になるが、家人がパンジーを見て「髭親爺」と呟いたことがある。何のことかと思えば、パンジーの花の模様が、意地悪な髭親爺の顔に見えるというのである。それ以後、僕はこの花を見るに、常に、意地悪な親爺を連想せずにはいられなくなった。


 何ということだろう。これからは、パンジーと髭親爺の組合せのみならず、吉田健一とミスター・ビーン……

 実に頭が痛い――


 考えてみると、この二人は、英国つながりということでも、大いに通じるところがある。

 そもそも、何と言っても、吉田健一とくれば、英文学。

 シェイクスピア、オスカア・ワイルド、T・S・エリオット、ルイス・キャロル、D・H・ロレンスなどの翻訳や文学論等々、その業績は多岐に亘っている。昭和二十八年という、戦後十年も経っていない時分に、英国政府の招きに応じて視察旅行に行ったりもしている。このときの渡英をきっかけに「ロンドン会」なる会合を例年催し、晩年になると、毎年六月半ばから七月初めを妻と共に英国で過ごすことにしていたというエピソードが、娘の吉田曉子が著した『父 吉田健一』に記されている。

 吉田健一の英国歷は、外交官であった父に伴われ、小学校時代の数年をロンドンに滞在したことに始まり、長じてケンブリッジのキングス・コレッジにも籍を置いたほどの筋金入りである。

 片や、ローワン・アトキンソンも役に似合わぬ高い知性で知られた人物であり、オックスフォードのクイーンズ・コレッジに通ったことがあるらしい。

 キングとクイーン――

 二人が在籍したコレッジを並べても、実に好対照である。

 ここに到って、その趣味の契合けいごうは、血縁内の相似性という常識の方はむしろ蹴飛ばしつつ、モンゴロイドとコーカソイドの人種的差異の超越に向かったものと見える。



                         <了>



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