吉田健一と百鬼園と用字と仮名遣
神奈川近代文学館での吉田健一展には、沢山の手紙や原稿が展示されていた。
戦後、GHQの肝入りで「国語改革」とやらが推進され、当用漢字や現代かなづかいに関する内閣告示の下、おかしな歪曲を施した日本語の表記を、教育現場や出版界を始め、社会一般に押付けるなどという、僕から言わせれば、官製の日本語破壊が強引に進められたのは、返す返すも残念なことだったと思われる。
ただ、吉田健一のみならず、昭和の文士は多く、当該内閣告示などは一顧だにせず、戦後も旧来の表記法で通した。
文士のみならず、敗戦前の教育を受けた人の多くが、内閣告示なんぞどこ吹く風、手紙や日記、メモなど私的な文章を綴る際には、昔ながらの字や仮名遣を永らく用いたものである。
気骨ある
しかし、今や、件の内閣告示から既に七十五年以上。
その後も何度か、「常用漢字」や「現代仮名遣い」など姑息な修正的告示が繰返し出され、悲しいかな、今や新字、新仮名は世の隅々にまですっかり浸透、定着してしまっている。現下、旧字、旧仮名を普通に読み書きできる人は極々少数。状況は、もはや決して覆すべくもない事態に陥っている。
それでも、丸谷才一などは、今世紀に入ってもなお頑固に旧仮名で通していたが、空しく、二〇一二年に鬼籍に入ってしまった。
しかも、この丸谷にしても、漢字については一部を除いて新字をある程度容認していた。
かくのごとく甚だ覚束ないながらも、最後の砦と言わば言うべき丸谷が去って十年、現状、旧字、旧仮名の遣い手ということで、名前が挙がるのは、小川榮太郎氏――ちなみに僕と同世代――あたりであろうか。ただ、先程同氏のTwitterを見てみたが、そこには何と新字、新仮名が使われていた。
これが現状である。
かくいう僕自身、
諸賢お気付きの如く、この随筆もまた然り。
旧字、旧仮名は、詩歌を詠んだり、敗戦前の時代を舞台とした小説を書いたりする時でなければ用いていない。右のように、
まあ、それでいいのだと、あっけらかんと考えている。
ところで、先にも少し言及した內田百閒は、百鬼園とも号する稀代の偏屈先生であり、日本芸術院の会員に推されるも、いやだからいやだと断った正真正銘の
百鬼園先生のような「超人」と現実世界でお付き合いをするのは、僕のような凡夫にとっては甚だ
既に述べたように、先生は用字や仮名遣についても、己の信ずるところを決して曲げなかったと言われるが、僕の手許にある文庫版の諸本はどれも、新字、新仮名で印刷されている。
その経緯について、『冥途・旅順入城式』(岩波文庫、一九九六年一二月一〇日第十二刷、第一刷は一九九〇年一一月一六日)の末尾の方に、「
これは、百閒との関係が深かった中村武志の筆であり、「わが師
ただ、そこには、「一九八九年は、
さて、その中村も三途の川を御渡りになって久しいが、
当時の「青少年の人たち」の一員であった僕も還暦近くなった令和の現在、たとえ、新字、新仮名であるにしても、百鬼園先生の文体を楽しむことが出来る人が、「青少年」のみならず、中高年も含めて、どれほどいらっしゃるのか、少々
<了>
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